深淵からの金属咆哮
カビ臭い湿気と、焦げ付いたオゾンの匂いが混じり合って、肺の奥にねっとりと張り付く。
オウリア帝国陸軍士官学校の廃工場跡――かつては栄華を誇ったであろうその場所は、今やただの巨大な墓標だ。
「……っ、ハァ、ハァ……ッ!」
誰かの荒い呼吸が、通信ノイズに混じって耳元で弾ける。第七魔女中隊のメンバーだ。
彼女たちの誇りだった銀色の装甲は、今や紫色の魔力流に晒され、酸に浸されたようにボロボロと剥がれ落ちていた。
床一面を埋め尽くすのは、蜘蛛の巣のように脈動する不気味な紫の光。
それは「源質潮汐」の暴走――帝国教義が『神の怒り』と称して思考を停止させた、理不尽な自然災害そのものだった。
足元の魔力緩衝場は、すでに底なしの沼のような粘り気を帯びて、魔女たちの機動力をじわじわと奪っていく。
「隊長……もう、リンクが……維持できま……」
ノイズの向こうで声が途切れる。ミヤは歯を食いしばった。
銀髪は汗と煤で額に張り付き、その氷藍色の瞳は、過負荷による毛細血管の破裂で不気味な赤を帯び始めている。
視界の端では、僚機の戦術ルーンが悲鳴を上げ、パチパチと乾いた音を立てて砕け散っていくのが見えた。
クソったれな戦場だ。
ここにあるのは英雄譚じゃない。ただの、効率的な屠殺だ。
彼女たちの感情駆動は、この圧倒的な暴力の前ではあまりに無力だった。
祈りも、怒りも、覚悟も、すべてがこの紫色のノイズに飲み込まれて、ただの無意味な数値へと還元されていく。
ミヤは震える指先で魔導小銃のトリガーに指をかけたが、銃身に集まる青い光は、まるで消えかけの電球みたいに力なく明滅を繰り返すだけ。
「……終わり、なの?」
その呟きさえも、空間を埋め尽くす魔力の唸り声にかき消された。 ――その時だった。
足元の「零号共鳴艙」の亀裂から、およそこの世のものとは思えない音が響いたのは。
それは、魔女たちの装甲が奏でる優雅な駆動音とは対極にある、重苦しく、それでいて暴力的なまでに精密な、金属同士の「噛み合い」と「軋み」の咆哮だった。
地響きじゃない。
これは、もっと別の、生理的な嫌悪感を呼び起こす「裂ける音」だ。
ミヤの足元、紫色の魔力流がヘドロのように溜まっていた「零号共鳴艙」の床面が、内側から強引に抉り開けられる。
分厚い特殊合金のプレートが、まるで紙切れみたいにひしゃげ、火花を散らしながら跳ね飛んだ。
――ギギィッ、ガリィィッ……ッ!
鼓膜を直接針で刺されるような、暴力的なまでの金属摩擦音。
今の帝国が造る、あの流線型で優雅な魔女装甲からは絶対に出ない音だ。
もっと重くて、無骨で、洗練なんて言葉をゴミ箱に投げ捨てたような、剥き出しの「機構」が動く音。
吹き上がる高圧の蒸気と、焦げ付いた潤滑油の鼻を突く匂い。
その白煙の向こうから、銀灰色の巨躯が這い出してきた。
そいつには、現行機のような華奢な四肢も、装飾めいた意匠も一切ない。
ただひたすらに「敵を叩き潰す」ためだけに設計された、硬質な鉄の塊。肩部には、今の魔導工学では解析不能とされている、巨大な六芒星を象った晶盤が鈍く鎮座している。
そいつが駆動するたびに、周囲に渦巻いていたはずの狂暴な「源質潮汐」が、まるで怯えるように霧散していくのが分かった。
「……嘘、でしょ」
誰かの掠れた声。
中隊の魔女たちが、自分たちの死を忘れたように、その銀灰色の怪物を見上げていた。
怪物は、沈黙したまま四肢を伸ばす。
ガシュン、という重い排気音とともに、装甲の隙間から暗金色の光が漏れ出した。
それは魔女の「情緒」が育む柔らかい光じゃない。もっと冷徹で、計算され尽くした、回路の底を流れる「論理」の奔流だ。
そいつが動くたびに、床のタイルが重圧に耐えかねて粉砕され、廃工場の空気が物理的な圧力を持って震える。
帝国が「失敗作」として、あるいは「歴史の汚点」として、百年の間この深淵に閉じ込めてきたはずの化け物。
そいつが今、この最悪なタイミングで、眠りから叩き起こされた。
いや、叩き起こされたんじゃない。
そいつは自らの意思で、この地獄の蓋を裏側から蹴破って、這い上がってきたんだ。
立ち上がった銀灰色の巨体は、戦場を睥睨するようにゆっくりと首を振る。
その背部スラスターから吐き出される熱波が、肌をジリジリと焼く。
ミヤは小銃を握る手の震えを止められなかった。恐怖か、あるいは別の何かか。
目の前にいるのは味方じゃない。かといって、今まで戦ってきた異象でもない。
それは、既存の秩序すべてを根底から書き換えてしまうような、圧倒的な「違和感」そのものだった。
そして、その「違和感」の核心は、機体の胸部――パイロットを収容する心臓部が、蒸気とともにゆっくりと開閉した瞬間に、最悪な形で証明されることになる。
蒸気と排熱が混じり合った白濁の向こう側で、その「心臓部」が重い音を立ててスライドした。
ミヤは、引き金にかけた指が凍りついたような感覚に陥る。
そこから現れたのは、教義が定義する「神聖なる乙女」でもなければ、ましてや帝国が誇る壮麗な礼装を纏った魔女でもなかった。
「……嘘だろ。おい、冗談はやめろよ」
隊員の誰かが、壊れた機械みたいに同じ言葉を繰り返している。
開かれたハッチの影、計器類の冷たい光に照らされて浮かび上がったのは、見慣れた、しかしこの場には絶対に存在してはならない「異物」――士官学校の制服を無造作に着崩した、一人の男の姿だった。
レイジ。
退学処分になったはずの、あの「論理の狂信者」。
彼はそこに座っていた。
帝国製の現行機にあるような、魔女の身体を優しく包み込む真皮のシートなんてものはそこにはない。
剥き出しの金属、無数のトグルスイッチ、そして血管のようにのたうち回る太いケーブル群。その中央で、彼はただの人間として、その鋼鉄の怪物を従えていた。
「……レイジ?なんで、貴方がそこに……。男が魔装に触れれば、即座に魔力回路が逆流して、自爆するはず……ッ!」
ミヤの声が震える。
それは恐怖というより、二十年間信じ込んできた世界の「ルール」が、目の前で音を立てて崩壊していくことへの拒絶反応だった。
だが、レイジは彼女の動揺なんて、最初から計算に入れていない。 彼の左眼――暗金色の光を放つその瞳からは、熱を帯びた鮮血が筋となって頬を伝い、顎のラインから床へと滴り落ちている。
その顔には、魔女が戦場で抱くような高揚感も、使命感も、恐怖すらない。
あるのは、ただひたすらに冷徹な、最適解だけを追い求める「演算者」の無機質な視線だけだ。
「自爆、か。……そんな古いバグをまだ信じてるのかよ、あんたたちは」
レイジの声は、掠れてはいたが、驚くほど平坦だった。
彼は震える手で操縦桿を握り直す。その指先が触れるたびに、機体各部の冷却ファンが猛烈な勢いで回転を始め、周囲の空気を無理やり吸い込んで吐き出す。
彼を包む空気は、もはや魔力ではなく「情報」そのものだ。
血走った左眼の奥で、無数の幾何学模様と数式が爆発的な速度で流れていく。
魔女たちが一生をかけて磨き上げる「情緒」を、彼はたった数秒の「計算」で踏みにじろうとしていた。
「ヨル、同期はどうだ」
『……論理階層、正常。……全回路、接続完了。……マスター、これより“奇跡”の解体を開始します』
脳内に直接響く、血の通わない少女の返答。
レイジは口の端をわずかに吊り上げ、惨めなほどに歪んだ笑みを浮かべた。
その瞬間、彼を中心に、物理的な法則を無視した「静寂」が広がる。
それは、この場にいるすべての魔女たちが、自らの存在意義を根本から否定される秒読みの合図だった。




