覚醒
「……が、はっ……あ、あああああ!」
意識が、白濁した情報の濁流に飲み込まれる。
共鳴艙の底。そこは地表の理屈が一切通用しない、文字通りの地獄だった。
猛烈な勢いで吹き荒れる星脈暴風が、俺の肉体を分子レベルでバラバラに解体しようと、全方位から牙を剥く。
耳鳴りなんてもんじゃない。脳漿が沸騰して、頭蓋骨が内側から弾け飛ぶような、そんな錯覚。
普通なら、ここで終わりだ。
男の身で、この濃度の魔力の「渦」に放り込まれれば、一秒も持たずに内臓から発火して燃えカスになる。それが帝国が百年間守り続けてきた『世界のルール』だ。
だが、俺の左目は、そのルールを真っ向から拒絶しやがった。
「見え……すぎる。クソ、止まれよ……!」
左眼の奥から、熱い液体が溢れ出す。
それが血だってことは、頬を伝う鉄臭い温度でわかった。でも、拭う余裕なんてない。
視界を埋め尽くす紫色の嵐が、俺の網膜の上で、一瞬にして暗金色の「データ」へと変換されていく。
風じゃない。これは重層的な演算の衝突だ。
熱じゃない。これは非効率なエネルギー変換の余波だ。
俺の視界の中で、狂暴な魔力の奔流は、無数のバグを含んだ「欠陥だらけのソースコード」へと成り下がっていた。
そして、その風暴のど真ん中。
絶対的な静寂を保ったまま、そこに「それ」がいた。
銀灰色の装甲。
現行の魔装のような、魔女の肢体を強調する艶めかしい曲線なんてどこにもない。
あるのは、ただひたすらに「敵を殺す」ためだけに研ぎ澄まされた、無骨で、冷徹なまでの機能美。
その肩に刻印された、巨大な六芒晶盤が、俺の左眼の拍動に合わせるように、鈍い光を放ち始める。
「――同期、開始。」
脳内に直接、冷徹な少女の囁きが突き刺さった。
氷の楔を打ち込まれたような鋭い痛み。
だが同時に、俺の左眼は捉えたんだ。
風暴の隙間に存在する、唯一の「安全な座標」を。
俺は、砕けそうな右手を必死に伸ばし、その銀色の機体の装甲に指をかけた。
指先から、冷たい電圧のような感覚が全身に走る。
その瞬間、俺を押し潰そうとしていた魔力のプレッシャーが、嘘みたいに霧散した。
「……ハ、ハハ。なるほどな。」
理解した。この機体は、俺を拒絶していない。
むしろ、百年前からここで、俺のこの「左眼」がログインしてくるのを、ずっと待ち続けていたんだ。
周囲の魔力流が、俺を起点に再構成されていく。
俺は、この死の淵で、帝国が最も恐れた「禁忌の特異点」へと足を踏み入れた。
「……これか。帝国が歴史のゴミ捨て場に放り込んだ、本物の『答え』ってやつは」
指先が触れているのは、冷たい金属の塊じゃない。もっと、こう、神経を直接逆なでするような、ざらついた「意志」の感触だ。
目の前に鎮座している銀灰色の巨躯――「ストリクス・ゼロ」。
現行の帝国製魔装にあるような、あの華美な装飾や女性のラインに合わせた軟弱な意匠なんてどこにもない。
ただひたすらに、敵の魔力構造を解体し、効率的に殺すためだけに鋳造された、無骨な鉄の塊だ。
左目の視界が、今まで見たこともない速度で点滅を繰り返す。
暗金色のノイズが、機体の表面を走る微細なクラック(亀裂)の一本一本にまで入り込み、その奥に隠された「回路」を暴き出していく。
(……装甲厚、計測不能。表面の魔導反射膜、機能停止状態。だが、心臓部は死んでない。……いや、こいつ、起きてやがる)
その瞬間、コクピットのハッチが、溜まっていた百年来の煤煙を吐き出しながら、重々しく、かつ滑らかに開いた。
中から漏れ出してきたのは、凍りつくような冷気と、かすかな、本当に微かな「星屑の匂い」だ。
「……ッ」
俺の左目が、強制的に何かを引きずり出した。
銀色の装甲の隙間から、半透明の光の粒が溢れ出し、それが人の形を結んでいく。
それは、一糸纏わぬ姿の少女だった。
髪は流動する星屑のように仄かに光り、その瞳は俺の左目と同じ、冷徹な暗金色。
透き通ったその指先が、虚空をなぞる。
「……127年。随分と長い欠伸をしていた気分よ、マスター。」
声はの破片を耳元で転がしたような、冷たく、どこか無機質な少女の嗓音。
彼女の投影体は、俺のすぐ目の前で、宙を漂いながら首を傾げた。
感情の機微なんてどこにもない。ただ、膨大なデータベースが俺という「異物」をスキャンしている、その視線だけが突き刺さる。
「ヨル。初代戦術核心人格、ストリクス・ゼロの本質だ。」と、口調を一つ変えずに続ける。半透明な指先が虚空をなぞり、星屑のような髪が微かに揺れる。
「……待て。俺をマスターだと? 俺は男だぞ。お前たちの理論じゃ、俺がここに触れただけで自爆してなきゃおかしいだろ」
俺は鼻で笑ってやった。左目の奥の激痛を、皮肉な笑みで誤魔化しながら。ヨルは表情一つ変えず、俺の左目に顔を寄せた。
「自爆? ……ああ、あの低俗な『論理ウイルス(バグ)』のこと。マスター、あなたの左眼を過小評価しすぎ。あなたは、この世界の歪んだコードを上書きするために、ここに落ちてきた。……違う?」
彼女の手が、俺の頬をすり抜ける。
感覚はない。でも、脳内のニューロンが直接火花を散らしたような、強烈な同期感。
ヨルの瞳の中に、俺の左目と同じ暗金色の算式が、猛烈な勢いで流れ始めた。
「さあ、始めましょうか。帝国が隠し、魔女たちが忘れた、真実の戦術演算。……私を、使いこなしてみせて。」
彼女がコクピットの奥を指差した。
そこにあるのは、現行機のような優雅な革張りのシートじゃない。
冷たく、硬い、金属製の剥き出しの座席。
俺は躊躇わなかった。
背後の星脈暴風が、いよいよ俺の肉体を限界まで削り取ろうとしている。
逃げ道なんて最初からねえ。
俺は、その銀灰色の闇――「ストリクス・ゼロ」の胎内へと、自ら足を踏み入れた。
「……っ、冷てぇな、おい」
シートに深く腰を下ろした瞬間、背筋に走ったのは快適さとは程遠い、剥き出しの殺意に似た刺激だった。
この「ストリクス・ゼロ」のコクピットには、現行機のようなパイロットを保護する思想なんて欠片もない。冷たい金属のフレームが直接、俺の脊髄をハッキングしに来る。
首筋にコネクタが食い込むような感覚。実際には何も刺さっていないはずなのに、脳内に直接、氷点下の電流が流れ込んでくる。
(……論理階層、全開放。……外部出力、接続。……待機時間は終わりよ、マスター)
ヨルの声が、今度は鼓膜じゃなく、脳の深部で共鳴した。 直後、俺の左眼が弾けた。
「ぐ、あああああッ!!」
眼球が裏側から沸騰し、視神経を伝って脳が物理的に「書き換えられる」感覚。
視界から色が、光が、温度が、一気に消え去る。
代わりに展開されたのは、暗金色の算式だけで構成された、無機質で残酷なまでの「真実」の世界だった。
今まで俺が見ていた景色は、ただの「皮」に過ぎなかったんだ。
左眼は今、共鳴艙を満たす紫色の魔力流が、もはやただの嵐じゃない。
一本一本のベクトルの集積、強度の偏り、そして致命的な「脆弱点」を持った、ただの構造物として解析されていく。
「……見える。全部、筒抜けだ」
俺は、震える手を操縦桿――というか、神経接続された冷たいセンサーの塊に置いた。
右手の指先を動かすだけで、巨大な銀灰色の装甲が、俺の皮膚の延長として駆動を始める。
重い。だが、驚くほど速い。
現行の魔女たちが「感情」で魔力を振り回しているのとは次元が違う。これは「論理」による魔力の完全支配だ。
『マスター、見て。上から、不潔なコードが降りてくる。』
ヨルの冷徹な警告。左眼が捉えた。
共鳴艙の入り口、遥か上空。そこから、帝国の教義を体現するような、青白い魔力の光が幾本も差し込んでくる。
追いかけてきた憲兵ども。 あいつらは、俺をここで「処理」したつもりでいる。
男が魔装に触れれば自爆する。その「バグだらけの常識」を、あいつらは一ミリも疑っていない。
「……定義を抹消する。」
俺は左眼を見開き、コンソールに浮かび上がる「男性=魔力拒絶」というシステム上の偽装コードを、思考だけで握りつぶした。
暗金色のノイズが走り、世界の理が、俺の周囲数メートルでだけ強制的に書き換わる。
自爆?させねえよ。
魔力絶縁?そんな安っぽい枷、もう外してやった。
銀灰色の巨躯が、その巨大な六芒晶盤を鈍く光らせ、百年の沈黙を破って駆動音を上げた。
ガリガリと、周囲の空間を削り取るような不快な金属音。
俺は、座席に身を沈めたまま、暗金色の視界の先、自分を殺しに来る「世界」を見据えて笑った。
「さあ……デバッグの時間だ。」
喉の奥から絞り出した声が、自分のものではないみたいに低く、金属質に響く。
ハッチが閉塞し、外部と完全に隔離されたはずのコクピット。なのに、俺の感覚は壁を突き抜けて、この「零号共鳴艙」の隅々まで、神経毒みたいに広がっていきやがる。
座席から伸びる冷たい感触が、俺の脊髄を一本ずつ数えるように接続を完了させた。
視界から「色」が消えた。
いや、もっと最悪だ。
赤も青も、昨日まで見ていた退屈な世界の色彩は全部、暗金色の算式と、暴力的なまでの情報の洪水に上書きされた。
共鳴艙の底を埋め尽くしていた狂暴な紫色(魔力)の奔流が、今じゃただの「質の悪いノイズ」にしか見えねえ。
(……周辺環境、スキャン完了。……障害物、三十二。……排除対象、上空に六。……マスター、準備はいい?)
脳内に直接響くヨルの声。
感情なんて欠片もない、氷を噛み砕くようなその響きが、今は妙に心地いい。
俺は軽く指先を動かした。
ガリ、と。
銀灰色の巨躯が、百年の沈黙を無理やり引き裂いて、その重い四肢を駆動させる。
装甲が擦れ合う悲鳴のような金属音が、密閉された空間に反響して鼓膜を叩く。
「……ハッ。重いな、こいつ。……でも、悪くない」
俺は操縦桿を握りしめた。
その瞬間、俺の左眼から溢れ出た暗金色の流光が、機体の内部回路を逆流し、巨大な六芒晶盤へと収束していく。
ドクン、と。機体が、俺の心臓と同期して跳ねた。
これはもう、ただの機械じゃない。俺の肉体の延長だ。
「どけよ……。そこ、俺が通る道だ」
俺はペダルを蹴り込んだ。
瞬間、背中の推進ユニットから放たれたのは、現行機のような優雅な青白い炎じゃない。
空間そのものを焼き切るような、無骨で、荒々しい銀色の衝撃波。
爆発的な加速。
重力が肺を潰しに来るが、左眼の演算がその負荷さえも「熱エネルギー」へと変換し、機体の動力へと還元していく。
見上げた先、共鳴艙の天井――そこには、俺を突き落とした憲兵たちが、まだ「処理完了」を確信して油断しきった顔で覗き込んでるはずだ。
あいつらの脳内に、俺という『バグ』が生きているなんて論理は存在しねえ。
「……悪いな。お前らの信じてる教科書、今から全部書き換えてやるよ」
銀灰色の機影――「ストリクス・ゼロ」が、地底の闇を切り裂いて急上昇を開始する。
空気の壁をぶち破る衝撃波が、共鳴艙の壁を粉々に粉砕し、俺は光の射す方へと、文字通り繭を破り飛び出した。




