引き裂かれた「日常」
カビの混じった古い紙の匂いと、換気不足の湿気が肺にまとわりつく。
帝国陸軍士官学校、その地下深くにある第四資料室。レイジは、埃が分厚く積もったスチール棚の最奥に手を突っ込んでいた。
指先に触れたのは、指紋が焼き付くほど熱に晒されたであろう、ザラついた感触。
引き抜いたのは、半分が炭化し、端がボロボロに崩れかけている紙片だ。
「……これか」
声は出さなかった。ただ、乾いた唇がわずかに動く。紙には「黒曜事件・一次構造概念図」という、今や禁忌となった文字列が辛うじて残っている。
そこには教科書には決して載っていない、歪な、だが美しくさえある魔力回路のバイパスが描かれていた。
心拍が少しだけ速くなる。指先が微かに震え、古いインクの匂いを嗅ごうと顔を寄せた、その時だ。
背後の重厚な合金製ドアが、内側から膨らむようにして、いきなり「消し飛んだ」。
鼓膜を直接ナイフで突き刺すような高周波の破裂音。
コンクリートの破片と火花が、凄まじい圧力で背中に叩きつけられる。
紅晶爆震弾――帝国憲兵が屋内制圧に使う、あの忌々しい特殊焼夷弾特有の、赤い光が視界を埋め尽くした。
「ぐ、っ……!」
反射的に机の陰に転がり込む。肺から空気が押し出され、視界がチカチカと明滅する。
煙の中に、ガチャリ、という硬質な金属音が響く。
一つじゃない。三つ、四つ。
ブーツが瓦礫を踏む重い音。そして、静まり返った資料室に、低温の「唸り」が満ち始めた。
帝国憲兵が構える標準型魔導歩銃。その銃身の隙間から、チャージを開始した証である青い光が漏れ出している。
煙の向こう側、憲兵たちの顔は見えない。ただ、無機質な銃口だけが、正確にレイジの隠れる机をトレースしているのがわかった。
(……来る)
レイジは歯を食いしばり、左目の奥がズキリと疼くのを堪えた。
視界が切り替わる。ただの景色が、数値とベクトルを持った「データ」へと分解されていく感覚。
『銃身の青光。励起反応、開始から0.4秒。フルチャージまで、残り0.8秒。 相手との距離、20.4メートル。散開角度、左右30度。こちらには武装なし。遮蔽物の耐久値、魔導弾一発で全壊――』
逃げ道はない。
憲兵の指がトリガーにかかる。 その瞬間、レイジの左目の視界に、暗金色の演算ノイズが激しく走った。
「――45秒、か」
包囲網が完全に完成し、自分の脳漿が壁を飾るまでの残り時間。絶望的な数字のはずなのに、レイジの脳は、皮肉なほど冷徹に、その「死のパズル」を解くための最適解を導き出そうと回転を始めた。
「……チッ、本気かよ」
肺に吸い込んだコンクリートの粉が喉に張り付いて、猛烈にむせる。でも咳き込む余裕なんてない。
視界を埋める煙の向こう側、重いブーツが瓦礫を踏みしめる音が響く。
一つ、二つ……最低でも六人。 あいつら、問答無用だ。退学届の受理も、憲兵の逮捕状の読み上げも抜き。いきなり「消去」しに来やがった。
視界の端で、不気味な青い光が膨張する。
帝国憲兵が担いでいる、あの不格好な長銃身の魔導歩銃だ。銃身の側面に刻まれたスリットから漏れる光の強さで、エネルギーの充填率が嫌でもわかる。
(……励起電圧、安定。コンデンサの鳴きが止まった。発射まで、あと〇・二秒)
思考が勝手に加速する。いや、左目が周囲の事象を勝手に「整理」し始めるんだ。
網膜に焼き付くような暗金色のノイズ。それが弾道予測線となって、薄暗い部屋の中に浮かび上がる。
「……右だ」
言葉より先に、筋肉が反応した。 床を蹴り、倒れたスチール製の書架の裏へ滑り込む。
直後、すぐ頭上が弾けた。
バシュッ、という空気を引き裂くような断裂音。
続いて、背後の壁が熱で溶解し、溶けた石材がドロドロと床に垂れ落ちる生々しい音が耳に届く。
熱い。服越しでもわかるほどの熱気が皮膚を焼く。
「標的、生存。散開して追い詰めろ」
ノイズ混じりの、無機質な音声。
ヘルメットの拡声器越しに聞こえる声には、人間らしい感情が微塵も混じっていない。
あいつらにとって、俺はもう「かつての学生」じゃない。ただの、早急に処理すべき「不具合」なんだ。
二発目が来る。今度は二人同時だ。 銃口の微かな角度、兵士の重心の置き方から、射線を割り出す。左が十五度、右が三十度。
この書架はもう持たない。次の射撃を受ければ、この分厚い鋼鉄の板もただの熱いゴミに変わる。
左目の奥が、焼けるように熱い。眼球を裏側から熱した針で抉られているような、吐き気を伴う激痛。
でも、その痛みと引き換えに、俺の視界には「隙」が見えてくる。
(充填間隔、一・二秒。あいつらの呼吸、トリガーを絞る指の癖。……全部、丸見えだ)
俺は、足元に散らばった資料の中から、適当な厚みのバインダーを掴み取った。それを渾身の力で、左側の空間へ放り投げる。
ただの囮だ。案の定、青い閃光がそのバインダーを空中で蒸発させる。
その瞬間。 一・二秒の空白。世界が静止したような錯覚。
俺は低く這うような姿勢で、次の本棚、さらにその奥の暗い廊下へと、肺が千切れるほどの勢いで走り出した。
背後で、再び青い光がチャージを始める独特の嫌な音が、静まり返った資料室に響き渡っていた。
「……はは、マジかよ」
喉の奥で、鉄の味が混じった乾いた笑いが漏れた。
資料室を飛び出し、入り組んだ旧校舎の廊下を全力で疾走する。背後からは、あいつらの無機質な足音と、空気を切り裂く魔導歩銃の励起音が絶え間なく追いかけてくる。
でも、一番俺を打ちのめしたのは、銃弾じゃない。
頭上から、校内全域に響き渡るスピーカーのノイズが降ってきたんだ。
『――緊急通告。戦術推演系、レイジ。当該生徒は禁忌領域への不法侵入、および重度の精神汚染による国家反逆罪が確定した。』
放送の声は、昨日まで戦術論を講義していた教官のものだった。でも、そこには教え子を案じる響きなんて欠片もない。
ただ、ゴミ箱に放り込んだ不要なデータを読み上げているような、そんな冷たさだ。
『……これより本人の全学籍を抹消、帝国臣民としての全権利を凍結する。全生徒、および警備隊は、発見次第これを物理的に排除せよ。繰り返す、対象を即刻、排除せよ』
「抹消、ね……。便利な言葉だな、おい」
俺がここで積み上げてきた四年間の成績も、徹夜で書き上げた論文も、さっきまで俺を「レイジ」と呼んでいた連中の記憶も。全部、上層部の指先一つで「なかったこと」に書き換えられたわけだ。
今、この学園にとって俺は、廊下にこびり付いた消しにくい汚れと同じ扱いだ。
「おい、あっちだ! 逃がすな!」
角を曲がった先、見慣れた制服を着た下級生たちが、訓練用の魔導剣を抜いて立ち塞がっていた。
あいつら、俺と昨日まで食堂で笑い合ってたはずだ。なのに、その瞳には戸惑いすらねえ。放送一つで、俺は彼らの世界から「人間」というカテゴリーを外されたらしい。
「どけ……! 死にたいのか!」
叫びながら、俺は消火栓のレバーを蹴り飛ばした。
高圧の消火剤が噴き出し、視界を白く染める。その隙に、俺はさらに奥へ、誰も近づかない廃屋同然のエリアへと足を向ける。
左目の奥が、さっきからずっと脈打っている。ドクンドクンと、鼓膜を内側から叩くようなリズム。
視界に映るすべてのものが、情報の濁流となって俺の脳を焼きに来ている。
(……逃げ道、なし。生存確率、〇・〇二パーセント。……いいや、小数点以下はもういい。要するに、詰みだ)
行き止まり。
突き当たりの古い重厚な扉を体当たりでこじ開けると、そこは地図から抹消された旧時計塔の基部だった。
背後には、追い詰めた獲物を仕留めるべく、ライトを点灯させた憲兵たちのシルエット。
前方にあるのは、底の見えない巨大な縦穴。
「……レイジ、諦めろ。そこから先は『無』だ。お前という存在が、この世から消えるだけの場所だ」
憲兵の隊長が、冷徹に言い放つ。
俺はそいつを睨み返した。
左目の視界の中で、その隊長の構える銃の「構造」が、まるでレントゲン写真みたいに、細かなパーツの接合部までバラバラに分解されて見えていた。
「消える? 笑わせんな……。勝手に書き換えて、勝手に消すなよ。俺の人生は、お前らのプログラムの一部じゃねえんだ」
俺は躊躇わずに、背後の深淵へと体を預けた。
重力に引かれ、意識が加速する。
耳元で吹き荒れる風の音の中に、一瞬、ありえないはずの声が混じった気がした。
――「解析、開始」。
それが、俺の知る「日常」というロジックが、完全に崩壊した瞬間の音だった。




