表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

引き裂かれた「日常」

カビの混じった古い紙の匂いと、換気不足の湿気が肺にまとわりつく。

帝国陸軍士官学校、その地下深くにある第四資料室。レイジは、埃が分厚く積もったスチール棚の最奥に手を突っ込んでいた。

指先に触れたのは、指紋が焼き付くほど熱に晒されたであろう、ザラついた感触。

引き抜いたのは、半分が炭化し、端がボロボロに崩れかけている紙片だ。

「……これか」

声は出さなかった。ただ、乾いた唇がわずかに動く。紙には「黒曜事件・一次構造概念図」という、今や禁忌となった文字列が辛うじて残っている。

そこには教科書には決して載っていない、歪な、だが美しくさえある魔力回路のバイパスが描かれていた。

心拍が少しだけ速くなる。指先が微かに震え、古いインクの匂いを嗅ごうと顔を寄せた、その時だ。

背後の重厚な合金製ドアが、内側から膨らむようにして、いきなり「消し飛んだ」。

鼓膜を直接ナイフで突き刺すような高周波の破裂音。

コンクリートの破片と火花が、凄まじい圧力で背中に叩きつけられる。

紅晶爆震弾――帝国憲兵が屋内制圧に使う、あの忌々しい特殊焼夷弾特有の、赤い光が視界を埋め尽くした。

「ぐ、っ……!」

反射的に机の陰に転がり込む。肺から空気が押し出され、視界がチカチカと明滅する。

煙の中に、ガチャリ、という硬質な金属音が響く。

一つじゃない。三つ、四つ。

ブーツが瓦礫を踏む重い音。そして、静まり返った資料室に、低温の「唸り」が満ち始めた。

帝国憲兵が構える標準型魔導歩銃。その銃身の隙間から、チャージを開始した証である青い光が漏れ出している。

煙の向こう側、憲兵たちの顔は見えない。ただ、無機質な銃口だけが、正確にレイジの隠れる机をトレースしているのがわかった。

(……来る)

レイジは歯を食いしばり、左目の奥がズキリと疼くのを堪えた。

視界が切り替わる。ただの景色が、数値とベクトルを持った「データ」へと分解されていく感覚。


『銃身の青光。励起反応、開始から0.4秒。フルチャージまで、残り0.8秒。 相手との距離、20.4メートル。散開角度、左右30度。こちらには武装なし。遮蔽物の耐久値、魔導弾一発で全壊――』


逃げ道はない。

憲兵の指がトリガーにかかる。 その瞬間、レイジの左目の視界に、暗金色の演算ノイズが激しく走った。

「――45秒、か」

包囲網が完全に完成し、自分の脳漿が壁を飾るまでの残り時間。絶望的な数字のはずなのに、レイジの脳は、皮肉なほど冷徹に、その「死のパズル」を解くための最適解を導き出そうと回転を始めた。

「……チッ、本気かよ」

肺に吸い込んだコンクリートの粉が喉に張り付いて、猛烈にむせる。でも咳き込む余裕なんてない。

視界を埋める煙の向こう側、重いブーツが瓦礫を踏みしめる音が響く。

一つ、二つ……最低でも六人。 あいつら、問答無用だ。退学届の受理も、憲兵の逮捕状の読み上げも抜き。いきなり「消去」しに来やがった。

視界の端で、不気味な青い光が膨張する。

帝国憲兵が担いでいる、あの不格好な長銃身の魔導歩銃だ。銃身の側面に刻まれたスリットから漏れる光の強さで、エネルギーの充填率が嫌でもわかる。

(……励起電圧、安定。コンデンサの鳴きが止まった。発射まで、あと〇・二秒)

思考が勝手に加速する。いや、左目が周囲の事象を勝手に「整理」し始めるんだ。

網膜に焼き付くような暗金色のノイズ。それが弾道予測線となって、薄暗い部屋の中に浮かび上がる。

「……右だ」

言葉より先に、筋肉が反応した。 床を蹴り、倒れたスチール製の書架の裏へ滑り込む。

直後、すぐ頭上が弾けた。

バシュッ、という空気を引き裂くような断裂音。

続いて、背後の壁が熱で溶解し、溶けた石材がドロドロと床に垂れ落ちる生々しい音が耳に届く。

熱い。服越しでもわかるほどの熱気が皮膚を焼く。

「標的、生存。散開して追い詰めろ」

ノイズ混じりの、無機質な音声。

ヘルメットの拡声器越しに聞こえる声には、人間らしい感情が微塵も混じっていない。

あいつらにとって、俺はもう「かつての学生」じゃない。ただの、早急に処理すべき「不具合バグ」なんだ。

二発目が来る。今度は二人同時だ。 銃口の微かな角度、兵士の重心の置き方から、射線を割り出す。左が十五度、右が三十度。

この書架はもう持たない。次の射撃を受ければ、この分厚い鋼鉄の板もただの熱いゴミに変わる。

左目の奥が、焼けるように熱い。眼球を裏側から熱した針で抉られているような、吐き気を伴う激痛。

でも、その痛みと引き換えに、俺の視界には「隙」が見えてくる。

(充填間隔、一・二秒。あいつらの呼吸、トリガーを絞る指の癖。……全部、丸見えだ)

俺は、足元に散らばった資料の中から、適当な厚みのバインダーを掴み取った。それを渾身の力で、左側の空間へ放り投げる。

ただの囮だ。案の定、青い閃光がそのバインダーを空中で蒸発させる。

その瞬間。 一・二秒の空白。世界が静止したような錯覚。

俺は低く這うような姿勢で、次の本棚、さらにその奥の暗い廊下へと、肺が千切れるほどの勢いで走り出した。

背後で、再び青い光がチャージを始める独特の嫌な音が、静まり返った資料室に響き渡っていた。

「……はは、マジかよ」

喉の奥で、鉄の味が混じった乾いた笑いが漏れた。

資料室を飛び出し、入り組んだ旧校舎の廊下を全力で疾走する。背後からは、あいつらの無機質な足音と、空気を切り裂く魔導歩銃の励起音が絶え間なく追いかけてくる。

でも、一番俺を打ちのめしたのは、銃弾じゃない。

頭上から、校内全域に響き渡るスピーカーのノイズが降ってきたんだ。


『――緊急通告。戦術推演系、レイジ。当該生徒は禁忌領域への不法侵入、および重度の精神汚染による国家反逆罪が確定した。』


放送の声は、昨日まで戦術論を講義していた教官のものだった。でも、そこには教え子を案じる響きなんて欠片もない。

ただ、ゴミ箱に放り込んだ不要なデータを読み上げているような、そんな冷たさだ。


『……これより本人の全学籍を抹消、帝国臣民としての全権利を凍結する。全生徒、および警備隊は、発見次第これを物理的に排除せよ。繰り返す、対象を即刻、排除せよ』


「抹消、ね……。便利な言葉だな、おい」

俺がここで積み上げてきた四年間の成績も、徹夜で書き上げた論文も、さっきまで俺を「レイジ」と呼んでいた連中の記憶も。全部、上層部の指先一つで「なかったこと」に書き換えられたわけだ。

今、この学園にとって俺は、廊下にこびり付いた消しにくい汚れと同じ扱いだ。

「おい、あっちだ! 逃がすな!」

角を曲がった先、見慣れた制服を着た下級生たちが、訓練用の魔導剣を抜いて立ち塞がっていた。

あいつら、俺と昨日まで食堂で笑い合ってたはずだ。なのに、その瞳には戸惑いすらねえ。放送一つで、俺は彼らの世界から「人間」というカテゴリーを外されたらしい。

「どけ……! 死にたいのか!」

叫びながら、俺は消火栓のレバーを蹴り飛ばした。

高圧の消火剤が噴き出し、視界を白く染める。その隙に、俺はさらに奥へ、誰も近づかない廃屋同然のエリアへと足を向ける。

左目の奥が、さっきからずっと脈打っている。ドクンドクンと、鼓膜を内側から叩くようなリズム。

視界に映るすべてのものが、情報の濁流となって俺の脳を焼きに来ている。

(……逃げ道、なし。生存確率、〇・〇二パーセント。……いいや、小数点以下はもういい。要するに、詰みだ)

行き止まり。

突き当たりの古い重厚な扉を体当たりでこじ開けると、そこは地図から抹消された旧時計塔の基部だった。

背後には、追い詰めた獲物を仕留めるべく、ライトを点灯させた憲兵たちのシルエット。

前方にあるのは、底の見えない巨大な縦穴。

「……レイジ、諦めろ。そこから先は『無』だ。お前という存在が、この世から消えるだけの場所だ」

憲兵の隊長が、冷徹に言い放つ。

俺はそいつを睨み返した。

左目の視界の中で、その隊長の構える銃の「構造」が、まるでレントゲン写真みたいに、細かなパーツの接合部までバラバラに分解されて見えていた。

「消える? 笑わせんな……。勝手に書き換えて、勝手に消すなよ。俺の人生は、お前らのプログラムの一部じゃねえんだ」

俺は躊躇わずに、背後の深淵へと体を預けた。

重力に引かれ、意識が加速する。

耳元で吹き荒れる風の音の中に、一瞬、ありえないはずの声が混じった気がした。

――「解析ブート開始シーケンス」。

それが、俺の知る「日常」というロジックが、完全に崩壊した瞬間の音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ