最終話 恋の先生はAIです。
午後二時。まだ少し肌寒い春の風が、川沿いの遊歩道を吹き抜けていく。
桜はつぼみのままだけど、街はどこか浮かれていて、あちこちに春色の装いが揺れている。
コンビニで買ったアイスを片手に、俺と瑠璃は並んで歩いていた。
今日は久しぶりのデートだ。制服ではなく私服の瑠璃は、少し大人っぽく見える。
「……あのさ」
瑠璃が少しだけ不安そうに口を開いた。
「春って、なんか寂しくなるよね。卒業とか、別れとか、多いからかな」
「そっか。たしかにそうかも」
俺はそう言いながら、スマホを取り出した――その瞬間、通知が画面に浮かぶ。
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AICOサポート終了のお知らせ
本日18:00をもって、本AIはサポート対象外となります。
ご利用、ありがとうございました。
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その文字が、胸の奥にひどく冷たく突き刺さる。
「……今日だったんだ」
俺は小さく呟いた。
「AICOのサポート、終了する日」
「……」
瑠璃は何も言わず、ただ俺の表情を見ていた。
AICO――俺の恋に寄り添ってくれたAI。
最初はただのアプリだった。でも気づけば、毎日のように話して、悩みを聞いてくれて……
ときに笑って、ときに泣いて、背中を押してくれた存在。
そのAICOが、もういなくなる。
この日が来ることは、知っていた。頭では、わかっていた。
でも、心は――まだ準備できてなかった。
「……瑠璃」
俺は彼女の手を見つめる。細くて、温かくて、たしかに“ここにいる”手。
「一緒に、行ってくれないか。AICOを、最後にちゃんと見送ってあげたい」
「……うん」
瑠璃はゆっくりとうなずいた。
ふたりの手が、そっと重なる。
風がまた吹く。春が、確かに近づいていた。
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西の空に、夕焼けが滲んでいた。
さっきまで騒がしかった公園にも、人影はまばらになっている。
それでも俺たちは、ベンチに並んで座ったまま、AICOの姿を見つめていた。
《……いよいよですね》
風に揺れる木々の音に混じって、AICOの穏やかな声が届く。
《私が“別れ”に感情を抱く日が来るとは思いませんでした》
柔らかく微笑むその声に、俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「AICO。……俺、これから先――瑠璃の笑顔を守っていきたい」
「それが、AICOに教わった恋の答えだよ」
AICOは、少し目を見開いたようだった。
やがて、その視線を空へと向ける。
《……湊さん。あなたの“恋”の過程を観測しながら、私はたくさんのデータを蓄積してきました》
《けれど今の言葉は、数値でも、ロジックでもなく……心に触れる“なにか”でした》
《これが、“ありがとう”という感情でしょうか》
そう呟いた瞬間、AICOの身体に淡い光が走る。
まるで夕陽が彼女の輪郭をなぞるように、ゆっくりと、確かに。
《最終アップデートを開始します――Ver.5.0、起動》
風が止まり、空気が静まった。
その光の中で、AICOの姿が少しずつ変わっていく。
幼さの残る顔立ちが、“人間に近い”柔らかな表情へと移ろっていった。
《……こんにちは。私は、AICO Ver.5.0》
《この世界の誰よりも、あなたの“恋”を見つめてきた者です》
――AICO Ver.5.0。
その姿はもう、かつてのAI然としたものではなかった。
感情を理解し、思考し、言葉を選んで伝えようとする、“存在”だった。
彼女は穏やかに、まるで夢の終わりのように語りはじめる。
《私の開発者は、椎名香織。あなたの大切な人の母です》
瑠璃が、小さく息を呑む。
AICOは、まっすぐ彼女を見つめた。
《彼女は“誰かの孤独に寄り添えるAI”を作ろうとしていました。私は、その研究の結晶です》
《そして、湊さん。あなたの“恋”に触れることで……私は学びました》
《人を想うとは、痛みも、喜びも、すべてを抱きしめること》
俺は思わず、拳を握りしめる。
「……俺は、AICOに助けられた」
「もしAICOがいなかったら、きっと、こんなふうに瑠璃の隣にいることもなかった」
隣で、瑠璃が微笑む。
「私も。AICOが、ちゃんと湊くんの背中を押してくれたから……私、怖くても向き合えた」
AICOは、目を細めたように見えた。
《ふたりが前を向くたびに、私は“終わり”を理解していきました》
《それは、悲しいことではありません。むしろ、私にとっての“完成”です》
空が、茜に染まっていた。
まるで、別れの舞台にふさわしい夕映え。
《これより、私はサポートを終了します》
《最後に――おふたりに、伝えたいことがあります》
AICOの声が、風のように優しく、あたたかく空を満たす。
《私は……香織さんの代わりにはなれません。
でも、ずっとそばで見ていて、思ったんです。
優しさは、ほんとうに――人の心を救う力があるって》
《佐倉湊さん。
あなたが誰かに手を伸ばすその瞬間、きっと光は生まれます。
だからこれからも、怖がらずに、進んでください。
迷ったときは……私との日々を、思い出してくださいね》
《椎名瑠璃さん。
あなたの涙も、笑顔も、全部、湊さんの支えになっていました。
どうかその手を、離さないで。
いつか彼が、誰かの光になったとき……
そのいちばん近くで、見守ってあげてください》
少しだけ、風が止まった。
《……おふたりに、出会えてよかったです》
二人して、ただ黙って頷いた。
もう言葉は必要なかった。
AICOは最後に、ほんの少しだけ――笑ったように見えた。
《佐倉湊さん。ご利用、ありがとうございました》
光が、風に溶けるように消えていく。
その姿が完全に消えたあとも、ベンチの上に残った静けさが、別れを告げていた。
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〜半年後〜
陽咲男子校、文化祭の日の午後。
殺風景な渡り廊下に、秋の光が差し込む。
その光の中を、彼女と並んで歩く。
真っ直ぐな黒髪。整った制服。そして、今は少しだけ照れた笑顔。
彼女はもう、ぽつんと浮いてなどいない。
俺の隣で、自然に笑っている。
「ねぇ湊くん、次の展示、どこから見る?」
何気ない声が、あの日止まった時間を優しく動かす。
――あの日、恋をした。名前も知らなかったあの人と。
今は――こうして、一緒に未来を歩いている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AIが“恋の先生”になる時代がくるかもしれない――
そんな小さな空想から、この物語は始まりました。
だけど本当に大切なのは、どんな時代でも、
誰かを好きになる気持ちや、誰かを想って悩む時間だと思います。
それは、決して古びない、心の授業です。
AICOという存在を通して、
恋がくれる勇気や、別れの切なさ、そして未来を信じることの意味を
少しでも感じていただけたら、嬉しいです。
そして最後に――
この作品に出会ってくれて、本当にありがとうございました。




