第三十六話 ありがとう
AICOに「いなくなるのか」と問いかけた、あの日から──数日。
冷たい声。短い返答。
まるで、あのAICOじゃないみたいだった。
けど、あいつはまだ、ギリギリ“ここにいる”。
いつ完全に消えるのかは──わからない。
それでも俺は、何もできずにいた。
(このままでいいのか?)
あいつがいたから、進めた一歩がある。
椿ヶ丘での文化祭、クリスマス、バレンタイン。
全部、AICOが背中を押してくれた。
俺にとって、ただのAIなんかじゃない。
……でも、そのことを、椎名さんにはまだ何も言えていない。
(もし話したら、椎名さんはどう思うだろう)
ずっと隠してきた。
ずっと“俺一人で頑張ってきた”ように見せかけてきた。
なのに、実はAIの支えがあった──なんて、今さら言えるのか。
* * *
放課後の教室。
帰り支度をしていた俺に、陽翔が話しかけてきた。
「湊、ちょっと良いか?」
「どうした? ……陽翔」
「いいかげん話せよ。なんか悩んでんだろ? みんな心配してるぞ」
心配をかけさせていた後悔に、ぐっと拳に力が入る。
「いや……そんな……大丈夫だよ」
「AICOちゃんのことだろ? バレバレなんだよ。お前はすぐ顔に出るからさ。不器用なんだよ」
「でも俺……みんなに迷惑かけたくな──」
その瞬間だった。
ものすごい衝撃が俺の左頬に炸裂した。
痛みと衝撃で思考が一瞬止まる。
でも、それが要の拳から繰り出されたものだと理解するのに時間はかからなかった。
「お前何言ってんだよ!!」
「俺たちは友達だろ? 友達が困ってたら助けてやるのが常識だろうが!」
要が大声を上げて、俺を睨む。
「あわわ……ダメだよ要くん! 殴るのは良くないよ!」
純は珍しく大声を出して、要を止めていた。
クラスの連中に羽交い締めにされながら、要はそれでも叫ぶ。
「なにが“迷惑かけたくない”だよ! ふざけんな!」
目が、マジだった。
あのチャラくて適当なようでいて、俺たちのことを誰よりも見てるやつの──ガチな怒りだった。
「俺たち、バカな話も、くだらない妄想も、全部一緒にやってきたじゃねーかよ! 今さら迷惑だなんて考えてんじゃねーよ!」
言葉が、喉の奥に詰まる。
その言葉に、胸の奥で何かが熱くなる。
拳の跡がまだじんじん痛む。でも、それ以上に、心が震えていた。
「……湊くん」
静かに、けれどはっきりと、純が言った。
「僕らは、湊くんの味方だよ。
だから……隠さなくていい。怖くても、ちゃんと伝えて」
まっすぐな言葉が、心に染みる。
そして──最後に、陽翔が口を開く。
「俺ら、お前のことバカだと思ってたけどさ……バカなのに、なんでそんな一人で抱え込んでんだよ?」
苦笑まじりの言葉。でも、優しかった。
「友達だろ、湊。
そんなの、全部ぶっちゃけて──カッコ悪くて、泣きそうでも、
それでも前に進むのが……青春だろうが!!」
思わず笑ってしまった。
拳の痛みも、胸の重さも、少しだけ軽くなった気がした。
──よし。
俺はAICOについて、みんなに語った。
調子が悪くなってきていること。
開発者の椎名さんのお父さんから聞いたこと。
そして、椎名さんにAICOを使っていたことを伝えるかどうか悩んでいること──。
陽翔がゆっくりと歩み寄ってきて、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「……でもさ。お前が“言わなきゃ後悔する”って思ってるなら──答えはもう出てるだろ?」
その言葉は、まるで俺の中にある迷いを、ピンポイントで撃ち抜いてくるようだった。
「言うのが怖いってのは分かるよ。でも、伝えなきゃ……何も届かねぇんだよ。
瑠璃ちゃんのこと、本気で想ってるんだろ?」
陽翔の言葉には、飾り気も、遠慮もない。ただ、まっすぐだった。
「逃げんなよ、湊」
続いて要が声を上げた。
さっき俺を殴った拳が、今は固く握られている。
「AICOだって、きっとお前に“その想いを伝えてほしい”って思ってるはずだ。
それに──青春ってのはよ、こういう時に、泥だらけになってでも前に進むもんなんだよ。
じゃなきゃ、ただの綺麗事だろ」
ああ、やっぱりこいつはバカだけど、最高に熱いやつだ。
「……椎名さんなら、きっと……ちゃんと受け止めてくれると思うよ」
静かに、でもはっきりと声を出したのは、純だった。
「だって……椎名さんは誰かの想いを、ちゃんと向き合って受け取れる子だって……僕は、そう思う」
小さな声だけど、確かに俺の胸に響いた。
陽翔も、要も、純も──
みんな、俺のためにここまで言ってくれてる。
こんなにも本気で、俺の背中を押してくれてる。
拳を握りしめる。
心の中に、熱が灯るのを感じた。
「……みんな、ありがとな」
* * *
夜のリビング。
ソファのクッションに身体を沈める美優の背中越しに、リビングの照明が、柔らかく部屋を照らしていた。あたりは静かで、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
「……兄さん、今日は元気なんだね」
ソファに座ってジュースを飲んでいた美優が、ふいに言った。
その言葉に、俺は思わず足を止める。
「え? ああ……まあ、ちょっとね」
ごまかすように笑ったけど、美優の目はごまかされない。
こいつは、小さい頃からそういうところだけ妙に鋭い。
「……ずっと顔が曇ってたのに。今日は、少しだけ晴れて見えたから」
テレビもスマホも見ず、真正面から俺を見つめている。
その目が、少しだけ優しくて、少しだけ切なげだった。
「……AICOのこと、だよね?」
俺は、黙ってうなずいた。
この家の中で、AICOのことを知っているのは──美優だけだ。
「サポートが、終わっちゃうんだ」
静かに、でもしっかりと口に出した。
「……俺、最初はただの“AI”だと思ってた。
でも、いつの間にか……あいつに救われてたんだ。
俺の全部を、理解してくれて……誰にも言えなかった気持ちを、ずっと受け止めてくれてた」
言葉にした瞬間、胸の奥にしまっていた感情があふれ出しそうになって、
俺はぐっと目を伏せた。
だけど、美優は黙って俺の隣に来て、ジュースの缶をテーブルに置いた。
「……兄さん」
その声は、いつもの皮肉も鋭さもなかった。
ただ、まっすぐで、優しかった。
「誰かに支えられてたってことは、それだけ大事にしてきた証拠。
別れがつらいのは、ちゃんと“好きだった”ってことだよ。
AICOは、きっと誇りに思ってるよ。兄さんに選ばれて」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
俺は何も言えなくなって、ソファに座り込んだ。
「……で。これからどうするの?」
美優が俺の方に顔を向けて、小さく笑った。
「全部背負って一人で苦しむの? それとも──ちゃんと、“本音”で向き合う?」
その問いに、言葉を返す前に──
俺は、ただ小さくうなずいた。
ようやく、答えが見えた気がした。
AICOがいなくなること。
その悲しさも、寂しさも。
でも、それ以上に──
あいつに教えてもらったことを、これから先に繋げたい。
逃げずに、ちゃんと自分の想いを伝えたい。
「……俺、話そうと思う」
声が少し震えていた。でも、もう迷ってはいなかった。
「AICOのこと、全部。椎名さんに──瑠璃に、ちゃんと話すよ」
言った瞬間、美優は一瞬だけ目を見開いて、それから静かに笑った。
「うん。……それがいいよ」
俺が立ち上がると、美優は少しだけ背を向けて、言った。
「……兄さん、泣いたらカッコ悪いからね。ちゃんと前見て、話してきなよ」
「泣かないよ。……たぶん、な」
そう答えた俺の声に、少しだけ笑いが混ざっていた。
AICOに背中を押されて、友達に本音をぶつけられて、
そして──美優に、こうして心を支えられて。
もう、迷う理由なんてなかった。




