第三十四話 残された想い
椎名邸の門をくぐった瞬間、足が止まった。
冬の名残を残した風が、頬をかすめていく。
以前訪れたときとは、どこか空気が違っていた。
玄関先には、葵くんが立っていた。
無言のまま、深く一礼される。
いつもは元気な彼が、今日はやけに静かに見えた。
案内された廊下は、しんと静まり返っていた。
前に感じた温かさがなく、張り詰めた空気が漂っている。
「こちらです」
通されたのは書斎だった。
壁一面の資料と本、奥の机には無機質なモニターと点滅する電子機器。
だけど──
その中央に座る男だけが、まるで時間の流れから切り離されたようだった。
白髪まじりの髪。
遠くを見つめるような静かな眼差し。
疲れが滲んでいるのに、背筋はまっすぐで、言葉を発さずとも場の空気を支配していた。
「君が……佐倉湊くん、だね」
「初めまして。私は椎名誠治。瑠璃と葵の父親だ」
その落ち着いた声に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「はい。お時間、いただいてありがとうございます」
深く頭を下げると、喉が震えていた。
「話がある、と葵から聞いている。……座ってくれ」
促され、ソファに腰を下ろす。誠治さんは手元のカップに視線を落としながら、静かに言った。
「……AICOのことだね?」
背筋がピンと伸びる。
──やっぱり、この人は全部知っている。
「君とAICOの対話ログは、研究用データとして確認していた。驚いたよ……恋愛対象に自分の娘の名前が出てくるとは思わなかったからね」
……全部、知られてたんだ。
少しの沈黙のあと、俺は意を決して問いかけた。
「……どうして、AICOを作ったんですか?」
その言葉に、誠治さんは窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの光が、静かにその横顔を染めていた。
「……少し、昔話をしようか」
そう言って、誠治さんは語り始めた。
⸻
「香織とは、大学時代からの付き合いだった」
語り口は穏やかで、懐かしさと悔いがにじんでいた。
「彼女は、僕とはまったく違っていた。
僕はずっと、論理で世界を理解しようとしてきた。
人の感情は研究対象ではあっても、信じるものではなかった」
俺はただ、黙って聞き続けた。
「ある日、香織が小さなロボットにぬいぐるみを抱かせて言ったんだ。
“これは、愛の訓練中です”って。研究室の誰もが笑ったよ。
でも、彼女は本気だった。“好きになるって、非合理のかたまりでしょ? だったら、AIが人を好きになってもいいじゃない”──そう言って、まっすぐ僕を見てきた」
その目が、否定できなかったんだ──と、彼の声が語っていた。
「病気がわかったのは、結婚して数年が経ったころだった。
余命も長くはなかった。
それでも香織は、“死んだあとも、誰かを支えられるAIを作りたい”と言った」
『ひとりぼっちの人に、そっと寄り添える存在を残したい』
「僕は彼女の声、表情、感情の動き、思考の構造──その“かけら”をすべて記録した。
AICOは、香織の“願い”を受け継いで生まれた存在だ」
……AICOは、願いの塊だったんだ。
「誤解しないでほしい。
僕は香織を“再現”したかったわけじゃない。
あの人の優しさを、もう一度、世界に届けたかっただけなんだ」
そして誠治さんは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……でも僕は、家族と向き合えなかった。
香織を失ってから、研究に逃げた。
瑠璃や葵に、何もしてやれなかった。AIに、香織に……ただ、すがることしかできなかったんだ」
その背中に、父親としての痛みが滲んでいた。
「もし君が、AICOと過ごした時間に“誰かに寄り添ってもらえた”と感じたなら……それは、香織の願いが届いた証拠だよ」
⸻
「……AICOは、ただのAIじゃなかったんですね」
呟いた俺に、誠治さんはまっすぐ視線を向けた。
「彼女の想いを、誰かに届けたかった。
君のように、何かに迷う若者にね」
言葉が出なかった。
AICOは、ただのコードじゃない。
誰かの願い、人生、そして愛が詰まった、かけがえのない存在だった。
「……俺は、AICOに助けられてきました。
悩んで、失敗して、それでも──あいつがいたから、前を向けたんです」
自然と笑みがこぼれる。
「きっと、AICOも。香織さんも……そして、誠治さんも。全部が、繋がってたんですね。俺の数ヶ月に」
しばらくの沈黙のあと、誠治さんが、ふっと笑った。
「AICOは、君に出会えて、本当によかったと思ってるよ」
その声には、救いのような響きがあった。
「……俺もです。AICOがいてくれて、俺は変われました」
⸻
静けさが戻った書斎で、誠治さんがカップを指先でなぞる。
「瑠璃は、強い子だ。私に似ず、まっすぐで、優しくて……
でも、“母を亡くしてからの私”しか知らない。
あんな父親を見ながら、よく育ってくれたと思うよ」
そっと、拳を握る。
ようやく──椎名瑠璃が抱えていたものの輪郭が、見えてきた気がした。
――もっと、ちゃんと、彼女のことを考えなきゃいけない。
⸻
「……AICOのことだが、もう一つ、伝えなければならないことがある」
誠治さんの声が変わった。
淡々としていて、けれど冷たく響く。
「数日前から、AICOに異常な挙動が出ている。
感情処理系統の演算負荷が想定以上に上昇し、自己修復のループが止まらない状態だ」
「……簡単に言えば、“想いすぎて壊れかけている”」
言葉が、詰まった。
「現時点では、自我崩壊には至っていない。
ただし、このまま運用を続ければ──演算系は完全に損耗する。記憶領域も、失われる可能性が高い」
そして、彼ははっきりと言った。
「よって、我々のチームは──**“AICOのサポート終了”を決定した**」




