第三十二話 変化の理由
──椎名さんの家で見た、あのファイルが頭から離れない。
《Project A.I.C.O. Internal Notes》
そのタイトルが、目の奥に焼きついていた。
椎名さんのお父さんが研究しているという「やさしいAI」。
そして、最近のおかしなAICOの挙動。
(……まさかとは思うけど)
違和感はあった。
でも、それがまさか「彼女の家」と関係しているなんて、考えたこともなかった。
机に置いたスマホをじっと見つめる。
AICOを起動して、問いかけた。
「なあ、AICO。お前の開発者って──誰なんだ?」
しばらくの沈黙ののち、AICOの声が返ってきた。
《……開発責任者:K.Shiina……開発年:20XX年──》
「Shiina……?」
その名前が表示された瞬間、胸の奥がざわついた。
偶然とは思えない。きっとあの家の誰かが──AICOを作った。
でも、誰が?
お父さん? それとも……?
俺はふと考える。
椎名さんに聞くのは、なんだか違う気がした。
きっと、彼女もまだ何も知らない。
今の椎名さんに、無理やり踏み込むのは……したくなかった。
(だったら──葵くんに)
◇ ◇ ◇
数日後。再び、俺は椎名家の前に立っていた。
インターホンを鳴らすと、数秒後にドアが開く。
「……また、あなたですか」
顔を出したのは葵くんだった。少しだけ眉をひそめたような表情で、俺の顔をじっと見つめる。
「今日は──お姉さんじゃなくて、葵くんに話があって来たんだ」
その言葉に、彼は目を細め、訝しむような視線を向けてくる。けれど、それでもドアを閉めはしなかった。
「……不本意ですが、どうぞ。上がってください」
「ありがとう。お邪魔します」
リビングに通され、俺は深く息を吸う。──ここからが、本題だ。
「この前、お邪魔したとき……テーブルの上にファイルがあったんだ。“Project A.I.C.O.”って書かれたやつ」
葵の目が一瞬、鋭くなる。だが何も言わず、じっと続きを待っていた。
「……実は俺、AICOっていう恋愛指南AIを使ってたんだけど、最近どうも調子がおかしくて。それでAICOに開発者を聞いたら、“K.Shiina”って名前が出てきた」
言葉を選びながらも、俺は正直に告げた。
「無関係だとは……思えなかった。椎名さんの家と、あのファイルと、AICO……何かが繋がってる気がして」
しばらくの沈黙のあと、葵が低く問い返す。
「……つまり、そのAIを通して姉に近づいていたというわけですか」
「……ああ。最初は、そうだった。
でも、今は違う。俺は、椎名さんが大事なんだ。
確かにAIに頼ったこともあった。でも今は、自分自身の手で、彼女の気持ちを受け止めたいと思ってる」
「……姉に話すのを避けたから、僕に相談に来た。違いますか?」
「ごめん。椎名さんに余計な心配をかけたくなかった。だから、葵くんに相談したんだ」
俺は視線を落とし、静かに言葉を重ねる。
「……あのファイルは、なんなんだ?」
葵はテーブルの上の湯気を見つめながら答えた。
「……母の研究記録です。母の名前は香織──椎名香織。“人の心に寄り添うAI”を目指していた研究者でした」
その名前を聞いた瞬間、俺の中で何かが確信に変わった。
──K.Shiina。Kaori Shiina。
「……正直、俺にはAIのことなんてわからない。だけど、AICOと話してて……ときどき“人間みたいな反応”をすることがあったんだ」
「励まされたり、黙って見守ってくれたり……ただのプログラムのはずなのに、まるで“誰かがそこにいる”みたいな感覚になるときがあった」
「もし、それが──誰かの“想い”だとしたら。
もしそれが、君たちの“お母さん”の意思なら……俺は、ちゃんと向き合いたいと思ったんだ」
しばらくの間、葵は何も言わなかった。けれど、やがて口を開いた。
「……父は、母が亡くなってから研究を引き継ぎました。
でも、どれだけ後を追っても──母のように、“人の心に寄り添うAI”は作れていないんです。
最近は、感情の動きや、個人の思考を記録したデータを集めていて……まるで、母の“心”そのものを再現しようとしてるみたいで」
葵の言葉に、思わず息をのむ。
胸の奥に、ひやりとした違和感が広がった。
(……まさか、AICOとの会話や、俺たちの気持ちまで──全部、ログとして見られてたのか?)
俺は真っ直ぐに彼を見た。
「……お父さんに、会わせてくれないか」
葵は目を伏せ、ほんの少しだけ迷いを見せた。
「……父は、あまり他人と話をしません。
それに、家族のこともあまり顧みない人です。今も、研究のことで頭がいっぱいでしょう」
──それでも。
「それでもいい。俺は──椎名さんのことを知りたい。
AICOのことも、君たち家族のことも。知った上で、ちゃんと向き合いたい」
静かに頭を下げると、葵は黙ってこちらを見ていた。
その目にあったのは、少しの戸惑いと、少しの理解だった。
「……考えておきます」
その一言だけを残して、彼は視線を逸らした。
俺は、深く息を吐いた。
少しだけ、何かが動き始めた気がした。
◇ ◇ ◇
その夜。
部屋でひとり、AICOを起動する。
「AICO……今のお前、どこかおかしい。自分でわかってるんだろ?」
返事は、すぐには返ってこなかった。
しばらくして、雑音混じりの声が響く。
《……ログ変調中……感情解析モジュール、応答低下……》
《……旧記憶データベースとの整合性エラー……ミ……ナトサン……》
言葉の一つ一つが、重く、どこか切ない。
「!!……いったい、お前の中で何が起きてるんだ……?」
画面に表示されたAICOのアイコンは、ただ静かに、そこにあった。
──次第に深まる謎と、静かに進む異変。
その夜、心の奥で──“何か大切なこと”が動き出したのを、俺は確かに感じていた。
こんばんは、佐倉湊です。
……今回はちょっと、いつもと違う雰囲気だったかもしれません。
AICOの様子がおかしくなってきて、
椎名さんの家で見たファイルのことも、ずっと頭から離れなくて。
もしかしたら、自分の知らないところで──
誰かの想いが、ずっと前から動いていたんじゃないかって思うんです。
本当のことを知るのは、ちょっと怖いけど……
それでも知りたいって、そう思いました。
椎名さんのこと。
AICOのこと。
そして、あの言葉の“意味”も──。
……もう少しだけ、進んでみようと思います。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
また次回、会いましょう。




