第三十一話 図書館と静かな異変
──図書館の静かな空気の中、椎名さんの横顔をちらりと盗み見た。
読者のみなさんこんにちは。佐倉湊です。
俺は今、憧れの人と図書館にいます。
……まさか、こんな青春な展開があるとは思ってませんでした。
じゃあ、なぜこうなったのか──少し巻き戻します。
◇ ◇ ◇
バレンタインが終わり、ちょっとだけ浮かれたままのある日。
勇気を出して、俺はスマホを開いた。
「今度、どこか行かない?」
──椎名さんへのメッセージ。
送った直後、画面を見つめて固まる俺。
AICOはというと……
《……応答待機中……現在、最適な送信パターンを検索中……》
反応が遅い。
……いつもなら、秒で「その展開は恋愛進行率17%上昇です」とか言ってくるくせに。
少しだけ、胸の奥がざわついた。
やがてスマホが震えた。椎名さんからの返信だった。
「ごめんね、もうすぐ期末テストがあって……
ちょっと今、余裕がないかも。」
──そっか。
ちょっと残念だけど、テストなら仕方ない。
だけど、そのすぐあと。
「……でも、もしよかったら
一緒に勉強しない?」
町の図書館、わりと集中できるんだよ?
……えっ。
俺はメッセージを見て、ちょっとだけ固まったあと──反射的に返信した。
「ぜひお願いします!!」
◇ ◇ ◇
──というわけで。
今、俺は図書館の自習席にいる。
目の前には、真剣な表情でノートを開いている椎名さん。
横に座るだけで、変な緊張感がある。
まるで試験じゃなくて、デートみたいに。
「……ここの式って、どうしてこうなるの?」
「えっとね、まずこの部分を展開して……」
自然な流れで、数学を教えることになった。
……あれ、なんか俺、理数系いけるタイプだったっけ。
AICOのツッコミが来るかと思ったけど──
《……検索中……適切な表現が……見つかりません》
やっぱり、変だ。
動作が遅いというか……AICOらしくない。
「湊くん、ほんとに理数系得意なんだね」
「え、そ、そうかな?」
「うん。わたし、こういう計算苦手で……。ノート、すごく見やすいし、助かる」
そんなことを言われたら、こっちが照れるって……!
俺は咳払いしながらノートをめくる。
「でも、椎名さんの国語のノート、まとめすごくない?
文章の構造とか、超わかりやすくて参考になる」
「そ、そう? うれしい……。じゃあ今度は、こっちの計算、見てもらってもいい?」
「もちろん!」
……なんか、こういうのもいいなって思った。
AICOのサポートがなくても、彼女と向き合えるって。
ただ──そのAICOが、また小さな声でつぶやいた。
《……デート評価モジュール、応答タイムアウト……エラー検知……》
俺は気づかないふりをして、またペンを走らせた。
今は、目の前の椎名さんとの時間を、大事にしたかったから。
◇ ◇ ◇
夕方、図書館を出た瞬間──空が鈍く、暗かった。
「……あれ、雨?」
ポツ、ポツ、と水音がして、すぐにそれは本降りになった。
「わっ、けっこう降ってきた……」
俺は慌ててカバンを開いて傘を探すけど、入っているのは筆記用具と参考書だけだった。
「あー、忘れた……」
「うち、近いから……よかったら、雨宿りしていかない?」
椎名さんが、ちょっとだけ照れたように笑った。
小さく開いた傘が、彼女の肩だけを濡らさないように広がる。
「えっ、いいの?」
「うん。……濡れたら風邪ひいちゃうし」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「私、傘持ってるから──一緒に行こ」
傘を差し出す椎名さんの手が、少しだけ震えて見えた。
「……ありがとう」
俺たちは並んで歩き出した。
小さな傘の下、肩が時々ぶつかるたびに、心臓の音が跳ねた。
雨の音が、なんだか今日はやけに優しく聞こえた。
◇ ◇ ◇
椎名さんの家は、落ち着いた住宅街の中でもひときわ目を引いた。
白い壁に整った庭木、玄関まわりもきちんと手入れされていて──
全体的に、清潔感と品のある雰囲気が漂っている。
──なんというか、すごく綺麗で、立派な家だ。
ちょっとだけ、背筋が伸びる気がした。
玄関に足を踏み入れた瞬間だった。
「──そこで止まれ」
低く、冷たい声が響く。
視線を上げると、廊下の奥に立つ葵くんが、真っすぐに俺を睨んでいた。
「……この家の敷居は、またがせない」
静かな口調だった。でも、明らかに怒っている。
「え、あ、葵くん……?」
「姉さんと二人で相合傘してきたかと思ったら、今度は家にまで……。
おい佐倉さん、あなた、どこまで入るつもりですか?」
「いやいやいや! ち、ちが……雨で、その……! てかなんで傘入ったの知ってるの!?」
「僕に姉さんの事でわからないことはないんです。
この家は、姉さんと僕にとって、たったひとつの“安心できる場所”なんです」
葵の瞳が鋭く光る。
「──その意味、わかってますか?」
俺は、言葉を失った。
目の前の彼は、今までの“少し冷たいけど優しい弟”じゃない。
本気で、俺を試している。
と、その時。
「葵!」
後ろから駆け寄ってきた椎名さんが、少し怒ったように彼を止めた。
「なに言ってんの。お客さんなんだから、そんな態度やめてよ!」
「でも……姉さん」
「いいの! わたしがお願いしたの。来てほしかったの」
椎名さんがまた赤くなって照れている気がした。
しばしの沈黙ののち──葵は小さくため息をついた。
そして、ふいに視線を逸らしてつぶやく。
「……姉さんが楽しそうなら、別に、いいけど」
その言葉には、確かに“怒り”よりも“心配”がにじんでいた。
(……ありがとう、葵くん)
俺は、心の中でそうつぶやきながら、
そっとスリッパを履いて、玄関をくぐった。
ソファに座り、ふと視線を落とすと──
テーブルの隅に、古びた紙ファイルが置かれていた。
《── Project A.I.C.O. Internal Notes》
小さな文字で、そう書かれていた。
「……ん?」
気になって指先が触れかけた瞬間──
「ごめんね、父の資料がそのへんに置きっぱなしで。気にしないで」
椎名さんが、ふっと苦笑してファイルを取ってしまった。
「お父さん、こういう研究系の仕事してるんだ?」
「うん、昔は医療AIとかやってたみたい。最近は……なんか家庭向けの、やさしいAIを作ってるとか……」
俺は、胸の奥がざわつくのを感じた。
──AICOの挙動が変になってきたのと、何か、関係がある?
けれど、今それを口にするのは──ちょっと違う気がした。
「……へぇ。なんか、すごいな」
「たぶんね。……でも、昔から家のこと、あんまり見てくれなかったから……ちょっと複雑かな」
椎名さんがぽつりとこぼす言葉に、俺は何も返せなかった。
だけど、ほんの一瞬だけ、
AICOの音声が、俺にだけ静かに届いた。
《……接続ログ……不安定……》
《旧データベースに……一致情報検出──》
それは、誰にも聞こえない、かすかなノイズ混じりの声。
「湊くん?」
「あ、ううん……なんでもない!」
椎名さんは、湯気の立つマグカップを俺の前に差し出す。
「勉強、ありがとう。……一人でやるよりずっと楽しかった」
「うん。俺も、楽しかった」
雨音が、外で静かに続いていた。
どこか、胸がざわつくまま──
だけど確かに、温かくてやさしい時間だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
椎名葵です。
今回のお話、いかがでしたか?
佐倉さんと姉が“図書館デート”という名の勉強会をしていたようですが、正直、あれで勉強になるなら奇跡の分野です。ええ、天文学的な奇跡です。
そして我が家にまで入り込んでくるとは……まさか、うちの玄関に「恋愛進行度:自動ドア機能」でも搭載されたのでしょうか? してませんよ?
ですがまあ……姉さんが楽しそうだったので、今回は特例として許可します。
次からは申請制にしますけどね。書類、三枚出してください。気持ちのこもったやつを。
それでは、次回もよろしくお願いします。
葵でした。




