第二十一話 瑠璃の涙
「姉さんのこと。……そして、僕たち椎名家の過去について」
湊は頷き、グラスの水に手を添えた。
空気が少し、張り詰める。
◇ ◇ ◇
「僕が小学五年生のとき、母が病気で亡くなりました。
姉さんは、中学一年生。……まだ、子どもでした」
葵のまっすぐな声に、湊は耳を傾ける。
「母は、優しい人でした。
小さなことでもよく笑って、僕たちが何かに夢中になると、応援してくれて。
──“自由に生きていいのよ”って、よく言っていました」
「自由に生きていい……か」
湊がぽつりと繰り返すと、葵は小さく頷いた。
「……母が病気で倒れて、家の中は静かになりました。
けれど、最後まで“強くあろう”としていたのは、姉さんだった。
それはきっと、母の願いを守るためだったんだと思います」
チョコパフェのスプーンが、かすかに揺れた。
「母の葬儀のあと──父は、変わりました」
◇ ◇ ◇
「もともと、父は仕事人間でした。
でも、母がいたときは、少なくとも“父親”の顔も持っていたんです。
優しさや温かさも、確かにあった」
「……でも、母がいなくなった途端、まるで“感情”を捨てたみたいに冷たくなった」
湊は眉を寄せた。
それは、どこかで聞いたことのある“大人”の顔だった。
「父は言いました。“自由を守るには、強くならなければならない”と」
「──“自由”は、“強さ”で勝ち取るものだと」
葵の目はまっすぐで、どこか諦めにも似た静けさを湛えていた。
「父なりの正しさだということは、理解しています。
……でも、それが僕たちにとって優しかったかと言えば、違いました」
◇ ◇ ◇
「姉さんは、変わりました。
いや……“変わらざるを得なかった”」
「笑顔で、完璧で、弱音を見せず、成績も外見も振る舞いも“非の打ちどころがない”姉に。
父の理想に近づくために、無理をして」
湊の胸が、少しだけ痛んだ。
「でも、姉さんは決して弱さを見せなかった。
……だから、僕も気づけなかったんです。
姉さんが、どれだけ無理をしていたかなんて」
「……ある日、家に早く帰った僕は、誰もいないと思っていた仏間の前で、姉さんの声を聞きました」
「……姉さんは、母の仏壇の前で、一人で泣いていたんです。
声を殺して、でもどうしようもなくこらえきれずに──」
湊は、息をのんだ。
その姿が、鮮明に頭に浮かぶ気がした。
誰にも見せたことのない、椎名瑠璃の涙。
◇ ◇ ◇
「僕は……そのとき、自分が何も守れていなかったことに気づきました」
「いつも“姉さんを守る”つもりでいた。
でも、実際には、ずっと“姉さんに守られていた”んです」
「それに気づいた瞬間──僕は、泣きました」
葵の声に、感情がわずかに滲む。
「……それから、ようやく気づいたんです。
姉さんは、誰にも弱さを見せられなかった。
ただ、誰かに甘えることもできなかった。
それが、ずっとずっと苦しかったんだと」
そして──
「そんな姉さんが、あなたの話をするときだけ、本当に楽しそうなんです。
……あんな表情、久しぶりに見ました」
「──正直、嫉妬しました」
少しだけ、葵の頬が赤くなる。
「姉さんの一番近くにいるのは、僕だと思っていたのに。
……でも同時に、嬉しくもありました。
姉さんのあんな楽しそうな笑顔、久しぶりに見られたから」
◇ ◇ ◇
「だから、お願いします」
葵はまっすぐ湊を見据えた。
「姉さんのことを、知ってください。
強さだけじゃなくて、弱さも。……完璧じゃないところも、全部含めて」
「……そして、そばにいてあげてください。
姉さんが、もう一人で抱え込まなくていいように」
葵のまっすぐな視線を受け止めながら、湊はそっと拳を握った。
胸の奥が、じんと熱くなる。
それは、悲しみでも、怒りでもない──もっと静かで、確かなもの。
(──オレは、何も知らなかった)
ただ優しいだけじゃない。
笑顔の奥に、あんな苦しさを抱えていたなんて。
それでも彼女は、誰にも見せなかった。
強く、完璧に、振る舞い続けていた。
(それでも、笑ってたんだ)
自分の前では、楽しそうに話してくれていた。
紅茶の話、読んだ本の感想──
……そんな“普通の時間”が、彼女にとっての“自由”だったのかもしれない。
「……ありがとう、葵くん」
湊は、静かに目を伏せてから、顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
笑顔だけじゃなくて、不安も、寂しさも、弱さも──全部。
どんな顔をしていても、彼女は彼女だ。
それをまっすぐ受け止めたい。
……いや、受け止めるって、今ここで決めた。
(もう、曖昧なままにはしない)
“好き”だと思ったなら、その人のことを、ちゃんと知ろう。
ただ見ているだけじゃなくて、手を伸ばすんだ。
(本当の椎名さんを……本気で)
「オレ……ちゃんと向き合うよ。瑠璃さんの全部に」
決意のこもったその言葉に、葵はふっと目を細めた。
「……これ以上、姉さんを泣かせないでくださいね」
その声に込められたのは、懇願と──ほんの少しの、信頼だった。
※ちなみに、今回のエピソード。
お気づきでしょうか……AICOが一度も登場していないのです。
恋の先生は、ずっと傍で見守っていたのかもしれませんね。
でも、彼女が黙っているなんて──
きっと何かある。
……そう思ったあなたは、きっと正しい。
最近は、更新直後に読んでくださる方も増えてきて、
「もしかして……待ってくれてる読者さんがいるのでは?」と、密かに胸が熱くなっております。
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これからも【男子校、恋愛未履修、恋の先生はAIです。】
精一杯、楽しんでいただけるように書いていきますので――
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それでは、また次話でお会いしましょう!




