第八話 好きとか、そういうんじゃないもん。
次の日の朝。
目玉焼きが、なかった。
炊飯器も、空。味噌汁も、なし。
キッチンは静まり返っていて、冷蔵庫の中には買い置きのウィダーインゼリーだけが取り残されていた。
(……やっちまったな、俺)
妹・碧純が、朝ごはんを作らないというのは、ただの事実じゃない。
それは、「話しかけないで」という無言の意思表示だ。
「まじかよ……ゼリー吸いながら登校なんて、完全に敗者の朝じゃん……」
俺は文字通りしょぼくれながら、家を出た。
学校。
碧純は、教室ではいつも通りだった。
無表情で、先生の話を聞いて、ノートを取って。
女子に話しかけられれば「うん」と笑いもする。
――でも、俺には目を合わせなかった。
昼休みも、席を立って、他の女子たちと一緒にどこかへ行ってしまった。
「……わかりやすっ」
机に突っ伏しながら、俺は嘆息した。
元カノとの距離の詰まり方。
ダンス練習で、手を引かれたときの“何もしなかった自分”。
あれはたぶん、怒るよな……。
(……でも、妹って、そこまで怒るもんか?)
いや、わかってる。わかってるんだ。
あのとき、ただの“妹”として怒ってたんじゃないってことくらいは。
放課後。
部活も委員会もない水曜日、俺は荷物をまとめていた。
「……よし、今日は先に帰って、晩ごはんリベンジしよう」
男として、兄として、ちょっとでも汚名返上しなければ。
冷蔵庫にある材料で、なんか作れるだろう。冷凍餃子とか、レトルトカレーとか……!
でも、校門を出たところで、声をかけられた。
「……あのさ」
振り返ると、碧純が立っていた。
「帰るの、一緒にしてもいい?」
「えっ、あ、ああ、もちろん!」
思わず声が上ずった。さっきまで目も合わせてくれなかったくせに……!
けど、今の彼女は少しだけ、表情が柔らかかった。
俺たちは、並んで歩き出す。
歩きながら、しばらく無言だった。
夕暮れが町をオレンジ色に染めて、つくばの空は広く静かだった。
やがて、ぽつりと彼女が言った。
「……あのさ」
「ん?」
「べつに、怒ってたわけじゃないんだよ?」
その言葉に、ドキッとする。
「じゃあ……なんだったんだ?」
「……よく、わかんない」
碧純は俯いたまま、足元のアスファルトを見つめている。
「お兄ちゃんがさ、あの美羽さんと、楽しそうにしてたの見て……なんか、ムカついたの」
「ムカついた?」
「うん。なんでかはわかんないけど。でも、嫌だった。取られたみたいで」
「……」
その言葉は、予想以上に、まっすぐだった。
そして――怖いくらいに、まっすぐ刺さった。
「でも、別に……好きとか、そういうんじゃないよ? ほんとに。勘違いしないでね?」
言葉とは裏腹に、彼女の顔は真っ赤になっていた。
「“好き”じゃないけど、取られたくないの?」
「……うるさい」
「“妹”として?」
「……しつこい」
ぷいっと横を向いて、彼女は歩調を速める。
でも、その背中はどこか、少しだけ揺れていて。
俺は思わず、その言葉を飲み込んだ。
(だったら俺は、どうしたいんだ?)
帰宅後。
「……今日は、俺が作るから」
そう言って、台所に立つと、彼女は少し驚いた顔をして、
「……じゃあ、私、味噌汁だけやる」
そう言って、隣に並んできた。
まるで何事もなかったように、でも――
ほんのすこしだけ、距離が近くなった気がした。