第五話 お兄ちゃん、覗いたら殺すから。
風呂上がりの夜。
つくばのアパート、築二十年の二階、北東角部屋。
外ではカエルが鳴き始め、部屋にはほのかに石鹸とシャンプーの香りが漂っている。
俺は、リビングの端っこで正座していた。
(落ち着け。何も見てない。何も聞いてない。ここは精神統一の時間だ)
妹が風呂に入っている――それだけの事実が、なぜこれほど心を乱すのか。
「いや、だってさあ……!」
小声で自問する。
普通に考えて、同居してるとはいえ、妹(しかも美少女)が今まさにバスタオル一枚で風呂場から出てくるかもしれないとか、健全な男子高校生なら死活問題だろ!?
……ちなみに今、脱衣所のドアと俺のいるリビングとの間にあるのは、たった一枚の襖。
その襖の向こうに、彼女はいる。
(落ち着け、真壁基氏。これは修行だ。精神修行だ)
「お兄ちゃーん、ドライヤーどこ?」
その声に、俺の背筋がビクンッとなった。
「え!? な、なななに!? なんだって!?」
「ドライヤー。見当たらない。さっきお風呂上がりに使ったでしょ?」
「あ、ああっ、えーと、あれは……押し入れの右の棚の上、ピンクの袋の中!」
「ありがとー!」
その瞬間――バサッと、襖が開いた。
「ぅわっ!!???」
「……あんた、なんで正座してんの?」
「違っ、俺はなんにも見てな――ってうわあああああああああ!!!」
見てしまった。
――見てはいけないものを。
ピンクの濡れ髪に、タンクトップとショートパンツ。
しかもそれが、風呂上がりで肌がほんのり赤くなっていて、さらにノーブラっぽいときた。
そして俺は気づいてしまった。
視線をそらせないという、動物としての本能的絶望に。
「……は?」
妹が、動きを止めた。
そして、目が据わった。
「――お兄ちゃん」
「ち、ちがうんだこれは! いやほんと! わざとじゃなくて!」
「覗いた?」
「ちがっ、見ようとしたんじゃなくて、視界に入ってしまっただけであって!」
「へえ?」
彼女はドライヤーを手に取った。
コードがだらんと垂れている。それがまるで、武器に見えた。
「……お兄ちゃん」
「はい……」
「私、言ったよね?」
「な、なにを?」
「――覗いたら殺すって」
「待って! 襖開けたのお前じゃ――ぐはっ!」
その後、俺はコードで締め落とされ、ドライヤーで2回殴られた。
風呂上がりの柔肌の香りと、妹の本気の物理攻撃という、なんとも言えないトラウマがセットでインストールされた夜だった。
夜。俺はベッドで丸くなりながら、天井を見つめていた。
「妹って、もっとこう……守ってあげたいとか、可愛いとか、そういう存在じゃなかったっけ……?」
昔の思い出が蘇る。
小学生の碧純。俺のことを“お兄ちゃんお兄ちゃん”と呼んで、毎日くっついてきて。
それが今じゃ、風呂上がりに武器持って追いかけてくるヤンデレみたいな女子高生になっていたとは。
「育成、失敗した……?」
ふと、スマホに通知が届く。
【美羽:ねえ、今度の体育祭、うちのクラスとそっち合同らしいよ?】
【美羽:また一緒に踊れるかもね~♥】
「元カノ、何の地雷を仕掛けてんの……?」
明日も波乱の予感しかしない。