第五十一話 火照りと涙の夜風(修学旅行・三日目・夜)
午後七時半。旅館の食堂では、三日目の夕食が終わり、生徒たちは順番に大浴場へ向かっていた。
俺は一足先に風呂を済ませて、自室でぼんやりしていた。湯上がりの肌に、扇風機の風が気持ちいい。
でも――どこか落ち着かない。
碧純の沈黙。
明花の震えた指先。
ひよりの正確すぎる観察。
そして、ルナの本音。
(誰のことを、どう思ってるか……自分でも分からなくなってる)
布団に倒れ込むと、わずかにシーツから石鹸の香りと、自分の汗の残り香が立ち上った。
その瞬間――障子が静かにノックされた。
「……真壁くん、まだ起きてる?」
聞こえてきたのは、ひよりの声だった。
廊下。
俺は部屋を出て、誰もいない縁側へと彼女を誘導した。
庭の灯篭に照らされた紅葉が、夜の闇にゆらゆらと揺れていた。
「ここ、静かでいい場所だね」
「先生に見つかりそうだけどな」
「……でも、見つからなかったら、それは運命」
ひよりは隣に座り、手すりに頬を乗せた。
「ねえ、真壁くん。今日のこと、ずっと考えてたんだ」
「伏見稲荷のこと?」
「うん。明花さんの顔、碧純ちゃんの声……全部が、私の心をかき乱して」
そこで一瞬、言葉が止まる。
そして、ひよりの唇が震えた。
「――悔しかったんだ。……私は、誰よりも君を見てたのに」
「ひより……」
「ずっと、観察してきた。
寝癖の方向、口癖、教科書を開く癖。君が笑った瞬間の秒数まで」
彼女の目から、涙が一粒、静かにこぼれ落ちた。
「……でも、それだけ見てても、“選ばれる”わけじゃないんだね」
俺は、震える彼女の手を、そっと包んだ。
「それでも、俺は……ひよりのこと、ちゃんと見てるよ」
「……嘘でも、嬉しいよ」
ひよりは小さく笑い、俺の肩に頭を預けた。
そこから感じたのは、
シャンプーの甘さと、涙に混ざった体臭の切なさ。
ひとりの女の子の、飾らない匂いだった。
その翌朝。
旅館の裏庭の石畳で、誰かの影がそっと立っていた。
それは――明花。
その手にはスマホ。画面には、
昨夜、縁側に並んで座る俺とひよりの後ろ姿が、はっきりと映っていた。
「……ふたりきりで、話してたんだね」
明花の瞳は、静かに熱を宿していた。
(つづく)




