第三十二話 見てたの、わたしだけじゃなかったんだ
土曜の朝。空は曇り。気温は肌寒く、季節がひとつ進んだような空気だった。
俺は、昨夜のことを引きずったまま、朝食のトーストをかじっていた。
屋上での暁月ひよりの告白。
それは、ラブコメによくある“ちょっと変わった告白”じゃなかった。
もっと、重くて、深くて、後戻りできない感情だった。
そのせいで、食パンの味もわからなかった。
「……お兄ちゃん、昨日、どこ行ってたの?」
その声に、身体が跳ねる。
向かいに座っていた碧純が、マグカップを片手に俺を見ていた。
「え、あー……屋上、ちょっと風にあたりたくて」
「ふーん……風ね」
そう言いながらも、彼女の指先はカップの縁をくるくる回していた。
視線は、俺の目を捉えて離さなかった。
「じゃあ……暁月ひよりさんと話してたのも、“風”のうち?」
「――っ!」
音を立てて、俺の手からトーストが滑り落ちた。
「……見てたの?」
「ううん。見てないよ。**“聞いた”の。明花さんから」
「彼女、鋭いんだよね。“ひよりさん、屋上に行った”ってだけで、全部察したって」
そのとき、俺の頭にフラッシュバックする。
――明花が、理科室裏でひよりと遭遇したあの瞬間。
あのとき、何かを感じ取った顔をしていた。
つまり、もう彼女は知っている。俺が、ひよりに“狙われている”ということを。
「……なんで、黙ってたの?」
碧純が、ぽつりと言った。
「私ね、思ってたんだ。“誰よりも近くで見てる”って。
家族で、一緒に住んでて。毎日顔合わせてて。
どんな女子より、わかってるって、そう思ってた」
手が、震えていた。
「でも……“見てた”の、わたしだけじゃなかったんだ。
そう思ったら、すごく――怖かった」
俺は、何も言えなかった。
“誰よりも近い存在”が、“一番遠くに感じる瞬間”――
それを彼女は、今、味わっているんだ。
だけど。
だからこそ。
「……俺は、見られてたかもしれないけど」
「……?」
「“見ていた”のは、お前だけだったよ。碧純」
その言葉に、彼女の目がわずかに潤んだ。
「……ほんと、ズルい。
そういうこと言うと、また好きになっちゃうじゃん」
その夜。
俺のスマホに、またひとつ通知が届いた。
【暁月ひより】
「“10月20日”って、空いてる?」
「どうしても、“ふたりで会いたい”の。ちゃんと、理由があるから」
その日付は、彼女が“観察ノート”に書いた、決行予定日。
――その意味を、俺はまだ知らなかった。
(つづく)




