第三十話 すべて知ってる、この世界の中で
暁月ひよりは、静かな少女だった。
教室では、ほとんど喋らない。
誰ともグループを組まず、席を立つことも少ない。
先生にも、生徒にも、空気のように扱われる存在。
だけど――彼女は、ずっと見ていた。
黒板に書かれる字も、廊下のざわめきも、
他人が口にする噂話も、視界の隅に映る「真壁基氏」の背中も――
全部、記録していた。
自宅の部屋。
暗がりの中、ひよりはベッドに座り、ノートを開いていた。
その表紙には、丁寧にマスキングテープでこう記されていた。
【観察対象:真壁基氏/記録No.49】
開かれたページには、びっしりと細かい文字。
まるで実験レポートのように、彼の行動が記録されていた。
【観察日:10/2】
・昼食:妹ヒロインと屋上→弁当内容:卵焼き(断面にケチャップ)
・発言:「唐揚げは冷めてても神」=幼少期の味覚記憶に由来
・妹から受け取った箸→洗わずそのまま使用→“無意識の共有”
→愛情感度:高
【観察日:10/4】
・転校生ヒロイン(如月明花)との距離:75cm→67cm→話しかけられた瞬間52cm
・目線の滞在時間:4.7秒
・妹ヒロインが教室に入った途端、明花の方から距離を戻す→対抗意識あり
→三角関係の形成進行:顕著
ひよりの目は、微動だにしなかった。
淡々と記録するその指先だけが、情熱を語っていた。
彼女にとって、それは恋じゃなかった。
“研究”であり、“祈り”であり、――唯一の繋がりだった。
深夜2時。
彼女はノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
そして、カーテンの隙間から外を見下ろす。
そこには、ほんのわずかに光が漏れる――真壁家の窓。
「……今日は、図書室だったね」
呟くように、ひよりは言った。
「妹さんは、右手の指先に絆創膏。昨日までは無かった。
つまり、“どこかで触れた”ってこと……。……たぶん、握ってた。手を」
彼女の笑顔は、**“壊れる寸前の硝子”**のように脆く、美しかった。
「でも……大丈夫。
私は、全部知ってるから。
誰よりも、ずっと……長く、ずっと深く、見てきたから」
彼女は、壁に貼られた小さなカレンダーを見上げた。
そこには、赤いマーカーでこう書かれていた。
【10月20日 観察記録提出】
その横に、小さく付け加えられていた。
【予定:接触/初告白/“正面からの侵入”】
同じ頃。
俺は布団に入って、天井を見つめていた。
(最近……誰かに、見られてる気がする)
でも、気のせいだと思っていた。
まさか、それが毎日、詳細に記録されていたとは――
このときの俺は、まだ知る由もなかった。
(つづく)




