第二話 目玉焼きは塩かソースか、決戦前夜。
朝。目覚ましが鳴る前に目を覚ましたのは、いつぶりだろう。
体はダルい。昨日、深夜までかけて“妹クリーン作戦”を実行したツケがきている。俺の部屋から“本”の山は消え、フィギュアは押し入れに追放され、壁のポスターたちは涙ながらに剥がされた。
心が、空虚だ。
「……俺、もう……俺じゃないかもしれない……」
虚無……なぜか感じる股間の湿り……。
「うっ、久々にやってしまった……」
慌てて風呂場に行き軽く洗い流し着替えた。
シャワーを浴びながら夢を思い出す。
妹が出てきていたような……。
いやあるはずがない!
妹の出て来た夢で興奮して夢精だなんて……あってはならない。
そんな絶望を噛みしめながら、ふらふらとリビングに足を踏み入れた――その瞬間。
ふわり、と香る。
出汁のにおいだった。温かく、どこか懐かしい香り。
そして聞こえてきたのは、フライパンに卵が落ちる軽やかな音。
「……は?」
「おはよ。兄さんの目覚まし、無駄にうるさいから止めといたってか、朝からシャワー浴びる習慣あったっけ?兄さん」
エプロン姿の妹が、キッチンにいた。
――それは、俺の知らない“碧純”だった。
「えっ、なに? その、家庭的スキル……シャワーはたまたま、寝汗酷かったから」
「ふぅ〜ん、風邪ひかないでよ!それより料理意外? 私、中学では家庭科の成績、満点だったんだけど?」
どこか得意げに、フライ返しをくるりと回すその手つき。
淡い水色のエプロン。ポニーテールを高く結い、寝癖ひとつない姿。
朝日を背にしたそのシルエットは――なんというか、その、あまりにも眩しくて。
……俺の目が腐ったのか? それとも、脳が寝ぼけてるのか?
「……なに固まってんの。起きたなら、味噌汁飲んで」
「は、はいっ!!」
脊髄反射で返事してしまった。完全に家庭内ヒエラルキー:妹>兄が完成した瞬間である。
食卓に並んだのは、完璧な和朝食だった。
白米、なめこの味噌汁、焼き魚、そして――
「目玉焼き……!」
「……なにその“名物に出会った観光客”みたいな反応」
「いや、これ……すごい、完璧な焼き加減……」
白身はふわっとしてて、黄身はぷるんと盛り上がっていて……見た瞬間、腹がぐぅと鳴った。
「で、調味料どうするの?」
「えっ?」
「塩派? ソース派? それとも……醤油?」
彼女の目が細くなった。その瞬間、空気が変わった。
なんだ、この空気……今、地雷を踏みかけた……?
「え、えっと、俺は……ケチャ――」
「ハァ???」
雷鳴が轟いた。いや違う。彼女の声だ。
「まさかとは思うけど、目玉焼きにケチャップとか言わないよね? ねぇ、真壁基氏。あんた、そこまで終わってないよね?」
「え、えええっ!? だ、だってケチャップって万能じゃん! ハンバーグにも合うし、オムライスだって――」
「目玉焼きは! ソースか塩でしょ!!!!」
「ひぃぃっ!」
なにこの圧。てか今、ソース派なの? さっき塩って言ってなかった?
もしかしてこの家、調味料で命の価値が変わるのか……?
「ま、いいけど。あんたがどんな味覚でも、私は私で食べるし。私は、塩派だから」
「塩派……あ、うん、塩にしときます、はい」
俺のプライドはケチャップとともに爆散した。
「……でも、ありがとうな」
思わず、口をついて出た。
妹が家事をしてくれてるのが、なんだか、妙に嬉しくて。
「何が?」
「朝ご飯……うまかった。マジで」
碧純は、一瞬驚いたような顔をして、それからふっと目をそらした。
「……別に。感謝されるために作ったんじゃないし」
けどその横顔は、ほんの少しだけ――嬉しそうだった。