第十七話 キスなんて、するわけないじゃん
金曜の夜。
週末前の空気は、どこか浮ついているはずなのに――
我が家は、ピンと張り詰めていた。
晩ごはんのあとのリビング。
碧純と俺は、互いにソファの端っこで距離を取っていた。
まるで、**“踏み越えてはいけないライン”**を意識しているように。
(こないだまで、もっと近かったのにな……)
でも今は、近づけば何かが壊れそうで、触れれば二度と戻れない気がして。
そんな空気を破ったのは、テレビから聞こえてきた、一本のセリフだった。
「……あのね、私、ずっと我慢してたの。
でも、我慢するのって、バカみたいでしょ?」
恋愛ドラマの主人公が、泣きながらヒーローに抱きつくシーン。
――その瞬間。
「なあ、お前って、キスしたことあんの?」
「……は?」
俺は、完全に口が滑った。
「い、いや違っ、今のテレビがさ、なんかそういう雰囲気だったから!」
「何その理由、最低すぎる……!」
「違う!聞きたいとかじゃなくて、単に、ほら、その……興味本位で!」
俺は顔面真っ赤になりながら手をバタつかせた。
碧純は、しばらく沈黙したあと、そっと言った。
「……ないよ。そんなの」
「え、マジで?」
「なに、キス未経験ってだけで妹の市場価値下がった? 引いた?」
「いやいやいやいや! 引かねぇし! なんなら安心したまであるし!」
「何が“安心”なのよ、バカ……」
でもその時、彼女の頬が、ほんのり赤く染まっていた。
その後。
寝る前に、歯を磨きながら、俺はふと気づいた。
廊下の端。暗がりの中で、碧純が何か探していた。
「おい、どうした?」
「あ……床にイヤホン落として……あっ!」
しゃがみ込んだ瞬間、彼女の身体がバランスを崩す。
「危ない――って、うわっ!!」
結果、彼女は俺の胸に倒れ込む形になった。
ぐらついた身体を支えた手は、肩と腰に。
顔の距離は、20センチもなかった。
静寂。
視線が絡む。
そのときだった。
「お兄ちゃん、あのさ――」
彼女が小さく、でも真っ直ぐな目で見つめながら、呟いた。
「……“キスなんて、するわけないじゃん”」
でも、それは拒絶じゃなかった。
その言葉のあと、俺の手を、彼女が握っていた。
引くでもなく、でも自分から近づくでもなく。
ただ、許容している距離。
それが、何よりもリアルで、リアルすぎて、
俺はそれ以上動けなくなった。
その夜、ベッドに入ってからも、
彼女の指先の感触が、ずっと残っていた。
そして、胸の奥で、もう一人の自分が囁いていた。
――「するわけない」って言葉は、
本当は「したいけど、できない」って意味じゃないか?




