第十六話 昨日のこと、ぜんぶ覚えてる
朝。
キッチンに立っていたのは、碧純だった。
――それだけで、空気が変わる。
熱は下がったらしい。
頬の赤みは引いて、いつもの落ち着いた表情に戻っていた。
けれど、目だけが、少し違った。
何かを“決めている”目だった。
「おはよ」
「……お、おう。熱、下がったのか?」
「うん。もう大丈夫。ありがと、昨日」
「そ、そっか……」
ぎこちない空気。
でも、向こうは平然としている。
(いや、まてまてまて……。昨日の“アレ”、覚えてないよな? 熱で夢の中でのことだし。寝言だし)
希望的観測にすがりついた瞬間。
彼女は、味噌汁をよそいながら、何気なく言った。
「昨日さ」
「……うん?」
「“抱きしめてほしい”って、言ったよね。私」
「ッ!?」
俺の持っていた箸が、ガチャンと音を立てて落ちた。
「ま、待て、それはその、熱のせいっていうか……!?」
「違う。ちゃんと、意識はなかったけど――夢の中で、言ったの、覚えてる」
碧純は、味噌汁を運びながら、真正面から俺を見つめて言った。
「だから、確認したくて。
私が妹じゃなかったら――お兄ちゃんは、抱きしめてくれた?」
逃げ場は、どこにもなかった。
心臓がうるさくて、頭が真っ白で。
でも、それでも、答えなきゃいけない質問だった。
「……たぶん、してた」
「……そっか」
彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、“少しだけ安心したような笑顔”だった。
登校中。
道の途中で、碧純がぽつりと呟いた。
「じゃあ、今日からはちゃんと、距離とるね」
「え?」
「昨日の私に流されないで済むように。
お兄ちゃんが“妹として接しやすいように”って思ってくれてたの、わかってるから」
言葉が、胸に刺さった。
「……でも、それってさ」
「うん?」
「ほんとは、距離なんて取りたくないんだろ?」
「……当たり前でしょ。バカ」
そう言って、彼女は前を向いた。
その背中が、思いのほか小さく見えた。
夜。
リビング。テレビを見ながら、俺はそっと言った。
「なあ」
「なに?」
「俺さ。……今、ちょっとだけお前のこと、妹以外として見てる気がする」
碧純は、少し驚いたように目を見開いた。
「うん。知ってる」
「……なんで、そんな顔で言えるんだよ」
「だって、私も――そうだから」
その一言が、また“何か”を壊していく音がした。




