第十二話 傘の中、近すぎる。
その日は、朝から雨だった。
ざあざあと屋根を叩く音。どこか冷えた空気。
俺はアパートの玄関で傘を開きながら、小さくため息を吐いた。
「……この空気で、朝の目玉焼きが塩味でもソース味でも関係ないよな……」
碧純は、まだ部屋の奥から出てこない。
昨日――風呂場の事故で、俺は無意識にラッキースケベという業を背負ってしまい、
その直後の「好きって言わなきゃよかったのに」という、切ない爆弾を食らったばかりだった。
(でも、これ以上なにも言わないって決めたんだ。俺からは)
妹が「妹」でいるために、気持ちを抑えてくれたのなら――
今は、それを受け止めるしかない。
「……行ってきます」
靴を履いて、玄関を開ける。
すると――
「待って」
後ろから、小さな声。
碧純が立っていた。
傘を持たず、制服の上から羽織ったカーディガンだけ。
濡れた前髪が額に張り付いていて、少しだけ、不機嫌そうだった。
「……傘、忘れた」
「……俺のに入る?」
「しょーがないな、入れてあげる」
「今“上から”いったよな?」
狭いビニール傘の中。
肩が触れる。肘が当たる。
そして何より――髪の香りが近い。
雨で少し湿った空気の中に、シャンプーの柔らかい香りがふわっと漂ってくる。
(ちょっと待て。今は冷静に――冷静に――)
横を見ると、彼女もこちらを見ていて、視線が交差する。
お互いに、何か言いかけて、でもやめた。
そんな沈黙の中で、彼女が小さく口を開いた。
「ねえ……」
「ん?」
「この距離感、昔だったら……気にしなかったよね」
「……ああ。小学生のときなんか、くっつきまくってた」
「でも今は、……ちょっと緊張する」
その言葉に、俺はうっかり息を止めてしまう。
雨音が急に遠くなった気がした。
「たぶんさ、意識しちゃってるの。お兄ちゃんのこと」
「……」
「でも、“好き”って言ったのは、忘れて。リセットして。
私、今はちゃんと“妹”でいたいから」
「……そっか」
そう言いながらも、碧純の声はどこか震えていた。
口では「妹でいる」って言っても、心はそれを割り切れないのかもしれない。
俺だって――そうだ。
(傘の中が、狭すぎる)
(でも、“これ以上の近さ”は、たぶん今の俺たちじゃ耐えられない)
学校の昇降口につく頃には、傘のビニールは雨粒で曇っていて、
俺たちはほとんど、身体を密着させるように歩いていた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……ありがと」
その一言だけ言って、彼女は靴を履き替え、教室の方へと小走りで駆けていった。
残された俺は、呆然とその背中を見送る。
雨音だけが、静かに響いていた。
でもこのあと。
この**“雨の日の甘さ”**は、
とんでもない“事件”によって、吹き飛ばされることになる。
 




