第九話 恋心に、まだ名前はない。
それは、どこにでもある放課後だった。
教室の掃除当番を終えたあと、廊下を歩く碧純の姿がふと目に入った。
制服の裾をふわりとなびかせながら、無言で窓の外を見つめている。
もうすぐ春が終わる。
そして、あの長かった“二人暮らしの春休み”も、当たり前の“日常”に変わっていく。
(それなのに、なんでだろう。最近のこいつ、やたら可愛く見えるんだよな……)
そう思ってしまうことが、すでに危険信号なのはわかってる。
俺と碧純は“兄妹”だ。法的には従妹でも、今は“兄妹”として暮らしている。
でも、彼女が笑えばドキッとして、拗ねれば気になって、名前を呼ばれれば反射的に振り向いてしまう。
これはただの“家族”の反応じゃない。
(なのに、なんで……)
俺は、まだその気持ちに名前をつける勇気がなかった。
その夜。
部屋の隅で、俺は自分のノートパソコンを前にうずくまっていた。
ラノベ作家――それが、俺の裏の顔。
もうすぐ、web連載の更新日。締め切りは明日。
だけど、指が止まっていた。
「“兄と妹が、だんだん惹かれ合ってしまう話”……か」
これまでは、妄想とフェチの塊だったストーリーが、急にリアルすぎて書けなくなった。
なぜかって?
現実で、それを“体験してる”気がしてならないからだ。
リビングに行くと、碧純がいた。
ジャージに着替え、ソファでうたた寝していた。
いつもはきっちりした彼女が、無防備に寝ている姿。
頬に髪がかかっていて、手はちょこんと丸くしていて、まるで小動物みたいだった。
「……おい、寝るなら布団で寝ろって」
肩にそっとブランケットをかける。
その瞬間、碧純の唇が、ほんのわずかに動いた。
「……お兄ちゃん、だけ……は……」
それが夢の中の言葉なのか、意識のある言葉なのかはわからない。
でも、“だけ”ってなんだ。
“だけ”って、どういう意味だ。
(なに期待してんだよ、俺)
心の中で自分にツッコんだ。けど、胸の奥がズキズキする。
翌日。昼休み。
「ねぇ、碧純ちゃん」
美羽が声をかけてきた。元カノ・滝本美羽。
昨日から、なにやら含みのある笑顔を浮かべていた。
「昨日、マカベの家で、二人きりだったの?」
「……同居してるから、当然だけど?」
「うわ、いいなー。私も泊まってみたいなぁ」
その一言に、碧純の目がピクリと揺れた。
「え?」
「ほら、昔よく遊びに行ってたし。懐かしいなぁって。マカベの部屋、昔と変わらないのかな?」
「……やめて。そういうの」
「え?」
「お兄ちゃんに近づくなら、他でやって。私の前で、わざわざ言わないで」
その瞬間。
教室の空気がピキッと凍った。
美羽は一瞬驚いた顔をして、でもすぐに笑顔に戻った。
「ふーん。そういうこと、言っちゃうんだ」
「“妹”ですから」
その言葉には、思いのほか強い棘があった。
そして、俺はその会話を――廊下の角で、全部聞いてしまっていた。




