第1話 プロローグ
「――キモい。この二次元美少女たち、全部、捨てていいよね?キモいから捨てるね、お兄ちゃん!」
この物語の第一声は全てのオタクを敵にする叫びだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
玄関の扉が、重たい空気を押し分けるようにして開いた。
目の前には、三年間ほこりを吸い続けた廊下。剥げかけたフローリングの隙間からは、どこか懐かしいような、けれどどこか湿ったカビの匂いが立ち昇ってくる。
「ここ……ほんとに、人が住んでたの?」
小さく吐き出されたその声には、呆れと戸惑い、そしてわずかな怒気が滲んでいた。
妹・碧純は、白いスニーカーを脱ぎもせず、廊下にそのまま立ちすくんでいた。真新しい制服の裾を風が揺らし、その冷たい春風だけが、玄関から奥のリビングへと通り抜けていく。
「え? ああ、うん。三年間、俺が一人で住んでた部屋……だけど」
俺――真壁弘弥は、苦笑いで後頭部を掻いた。どうにか場を和ませようとしたが、碧純の視線は、明らかに“何か”を見た瞬間のそれだった。
「……ちょっと、入っていい?」
靴のまま、彼女はズカズカと廊下を踏みしめていく。俺が慌てて制止しようとした時には、すでに部屋のドアを開けていた。
カチャリ。
ドアノブの音に続いて、きぃ、と金属疲労のようなきしみが響く。空気が変わった。部屋の奥に眠っていた異臭が、一気に吐き出される。
「……………………」
沈黙が降りた。
次の瞬間、碧純の肩が、ぴくりと震える。
「ちょ、ちょっと待っ――」
「……キモ」
その一言は、耳元で囁かれるよりも静かで、けれど胸を直撃するように鋭かった。
碧純は、部屋の中央で硬直している。散乱したコミック、積まれたラノベ、モニターに繋がれた大量のフィギュア。ベッドの上には、半裸の美少女が描かれた抱き枕カバー。
まるで、時間が止まったような光景。三年間、誰にも触れられなかった「俺だけの世界」が、今――妹に暴かれた。
「う、うそでしょ……こんな……」
その声には、かつての兄への淡い憧れが、音を立てて崩れていく気配があった。彼女の目には、“あの頃”の面影を探すような、必死さがあった。
でも、もう――見つからない。
茨城県つくば市、春。
高校入学を機に、碧純が俺のアパートで暮らすことになったのは、ほんの二週間前に決まった話だった。
両親は離婚し、母は海外へ。父は多忙で都内を転々とする生活。唯一の肉親である俺に白羽の矢が立ったのは、自然な流れだったのかもしれない。
ただ一つ、致命的な見落としがあったとすれば――
俺が、オタクすぎた。
中高と、部屋に引きこもり、二次元にすべてを捧げた日々。人間関係はネットとバーチャルの中にあり、現実はあくまで“待機場”だった。
「なにこれ……? マジで、え、なに? なんでこんなに……女の子……下着……?」
碧純は口元を押さえ、言葉にならないうめき声を漏らしている。視線はフィギュアの胸元から、抱き枕の股間へと絶え間なく移動し、最終的に俺を見た。
「え? 兄さんって、こういうのが……趣味なの?」
その声には、責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ“信じられない”という感情が詰まっていた。
「違う、いや、違わないけど……誤解だって!」
「誤解じゃないよね!? 見たまんまだよね!? なんで!? なんでこんな部屋で平気な顔して生きていけるの!?」
「いや、だって三年も一人だったし、趣味に走るくらい、いいじゃん……っ」
「違う、違う違う……! 私、兄さんのこと、少しは……いや、昔は尊敬してたのに!」
そう言って、碧純はドアを勢いよく閉めた。外の廊下の向こうで、彼女の足音が遠ざかっていく。
部屋に残ったのは、俺と、俺の趣味と、そして濃密な三次元との断絶。
――再同居、初日。
俺の妹は、開口一番で俺にこう言い放った。
「キモい」
そして今、俺は、ひとり床に座り込みながら呟く。
「……詰んだな」