2:泣くかと思ったのに(2)
「泣くかと思ったのに……」
シルヴェスター公爵家のお屋敷が見えた頃、ライルはボソッと呟いた。
彼の黄金の瞳は不機嫌そうに細められている。まるで泣けばよかったのに、と言っているみたいだ。
クロエはそんな彼の態度に眉を顰めた。
「泣かないわよ、淑女だもの」
淑女は人前では泣かない。家庭教師にはそう教えられた。彼女の厳しい教育おかげか、クロエの透き通った碧い瞳は今日、一度も潤むことはなかった。
「それはまあ、なんと言うか。ご立派なことで」
凛とした姿勢を崩さないクロエに、ライルは呆れたようにため息をこぼした。
「……いいのか?今頃は皆んな、このスキャンダルを肴に酒を楽しんでいる頃だぞ」
式の後の披露宴は普通に行われている。何なら今も披露宴の最中。
それなのに、今こうしてクロエたちが馬車に揺られているのは公爵夫人の気遣いだ。夫人は最低限の挨拶を済ませた後、体調不良を理由にしてクロエたちを帰らせてくれた。
「多分、好き勝手に言ってる」
「そうね」
「兄さんが悪いのに、泣きもしない君を見て『オスカーが逃げたのは堅物なクロエとの結婚に嫌気がさしたからだ』とか言ってるんだ。そして兄さんの心を繋ぎ止められなかった君が悪いなんて言い出すんだ」
「……そう、ね」
「いっそ残ってやれば良かったのに。それで涙の一つでも見せて、悲劇のヒロインとして同情して貰えば良かったのに。そうしたら馬鹿な連中も兄さんだけが悪いって理解しただろう」
「……どうかしら?だって本当にオスカーだけが悪いかは、わからないじゃない?」
「わかるだろ。どう考えても兄さんが悪いじゃないか。君には何一つ落ち度なんてない」
「そう、なのかな?でも私は……、そうは思えないな……」
クロエはオスカーに恋をしていたが、オスカーはクロエを妹みたいにしか思っていなかった。だからいつも、淑女教育を頑張る彼女に『無理しなくていいんだよ』と優しく頭を撫でてくれていたのだ。
(……そういえば、あの時に向けられた彼の優しい眼差しはまるでお父様のようだったわね)
オスカーはいつだって優しくて、まるで我が子を心配するような態度でクロエに接していた。
きっと、だからだろう。彼からの愛情は確かに感じていたが、それはあくまでも家族愛。婚約者に向けるものではなかった。
彼の中でのクロエは間違いなく家族で、ただの妹だった。
「オスカーの心が私にないのは初めからわかっていた。だからオスカーの心を繋ぎ止められなかったというのはあながち間違いではないわ。好きになってもらおうと努力したつもりではあったけれど、もしかすると足りなかったかのかもしれない。あるいは方向性が間違っていたのかも……」
本当は薄々感じていた。オスカーはお堅い女があまり好きではないこと。それよりも少し抜けたところのある、守ってあげたくなるような女の子が好きなこと。
昔、オスカーの言っていた『お姫様のような子が好きなんだ』という言葉は、『物語のお姫様』であって、現実のお姫様ではないこと。
けれど、それに気づいた時にはもう遅かった。
次期公爵夫人として多くのことを学んだクロエは、彼が理想とする女の子からはかけ離れていた。
「そりゃ、可愛げのある女の子の方がいいわよね」
「クロエ……」
「駆け落ちしたというメイドの子、私はよく知っているの」
オスカーの駆け落ち相手のメイドは、クロエとは正反対の子だった。
まだあどけなさが残る幼い顔立ちと、喜怒哀楽のはっきりとした明るい性格の可愛らしい子で。ちょっと鈍臭いところがあり、公爵邸に行くといつもメイド長に怒られている子だったからよく覚えている。
オスカーはそんな彼女をいつもそばに置いて、気にかけてやっていた。
表には出さなかったが、オスカーに可愛がられている彼女を、クロエはずっと妬ましいと思っていた。
「まさか、本当に特別な関係になっているなんて思いもしなかったけどね……」
クロエは顔が見られないように俯き、ギュッとドレスのスカートを握った。
「……………本当、馬鹿みたい」
オスカーの隣に立つに相応しい女性となるべく努力してきたのに、結局彼が選んだのは自分とは真逆の女だった。
今までの努力は一体何だったのだろう。
心に大きな穴がポッカリと空いたみたいだ。惨めで虚しくて、泣きそうだ。
*
「悪かった。ごめん」
公爵邸に辿り着き、馬車から降りる際、クロエの手を取ったライルが言った。
突然の謝罪にクロエは首を傾げる。
「それは何の謝罪?」
「いろいろ。全部だよ」
ライルはクロエの手をそっと握った。手から伝わるのは彼の後悔と懺悔。
クロエは申し訳なさそうにする彼の肩を軽く小突くと、「今日のことはあなたのせいじゃないわ」と笑った。
その優しい微笑みに、ライルはまた眉間に皺を寄せて険しい顔をした。
「その顔、やめてくれないかしら。何だか怒っているみたいに見えるから」
「怒ってない」
「わかっているわ。憐れんでいるのでしょう?」
「それも少し違う」
「じゃあ何なのよ」
「何でもないよ。それよりさ、一つ言い忘れていたことがあるんだけど」
ライルはクロエの手をギュッと握り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
クロエはそんな彼に首を傾げる。
「何よ、改まって」
「今更だけどさ……」
「うん?」
「今日のクロエはすごく綺麗だよ」
「ど、どうしたのよ。急に……」
いつもなら絶対に、クロエがどんなに着飾っても『馬子にも衣装だな』としか言わないくせに。
これは不器用な彼なりの優しさなのだろうか。クロエは思わず、クスッと笑ってしまった。
「あなただって素敵よ、ライル」
いつもは何のセットもしていない黒髪を、今日はオールバックにしてビシッとキメている。
普段は胸元を開けてだらしなく着こなすシャツも、今日は一番上のボタンまでしっかりと止めている。
「ふふっ。馬子にも衣装ね」
「うるさい」
「普段からその格好をしていれば、社交界で浮くこともないのに」
「窮屈な格好は好きじゃないんだよ」
「確かに、花街ではワイルドな男性の方が好まれるって聞くしね」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「きっと遊び人の貴方のこんな姿を見たら、娼館の女の子たちは皆、驚くんじゃない?」
「嫌味かよ」
「そんなのじゃないわ。あ、でも一応は結婚したのだから、しばらくは大人しくしていてよ?」
酒に女にギャンブルと、ライルは根っからの遊び人で有名だ。品行方正だったオスカーとはまるで正反対。
そのため、彼は『シルヴェスターの失敗作』とか、『公爵家の恥晒し』だと噂されていた。
だが、クロエは知っている。本当の彼がそんな軽薄な男ではないことを。
「あなたがそんな風に振る舞う理由も分かっているつもりよ。でもせめて、このスキャンダルが落ち着くまでは余計な噂は立てないで欲しい」
「……女遊びをするなとは言わないんだな」
「結婚していても娼館に通う殿方はいるわ。普通のことよ。だから私はとやかく言わない」
娼館は女を買うためだけの場所ではない。高級娼館ともなれば、多くの情報が集まる場所だ。情報収集や重要な会談のために娼館を利用する者も少なくない。
尤も、仮に女を買いに行っていたとしても問題はない。娼館で女を買うことは不貞には当たらないからだ。
男の交友関係には口を出すな。クロエは家庭教師にそう教えられた。
「それが淑女の嗜みよ」
妻は夫の全てを受け入れる。それが良き妻のあるべき姿だ。
そう話すクロエにライルは小さく舌を鳴らした。
「本当、ご立派なことで」
「こら、舌打ちはやめなさい。はしたないわ」
「うるさい」
聞き分けの良すぎる新妻には舌打ちの一つもしたくなる。
ライルは大きなため息をついてクロエをシルヴェスターのお屋敷に案内した。