19:どうでもよかった(2)
「確かに貴方の言う通りよ。前もってオスカーの浮気を知っていたとしても、私は彼の浮気を許して結婚していたと思うわ。そうすることが一番平和的な解決だから。それに、盲目的に彼に恋をしていたしね。だから貴方がそう思うのも無理はない」
だから、ライルが取った行動もその理屈も、理解はできる。
けれど、到底納得なんてできない。だって……
「私とオスカーの結婚を阻止したいのなら、他に方法はいくらでもあったはずよ」
浮気が前もってわかっていたのなら、体調を理由に結婚式を一旦延期にする事もできた。そこから話し合いをして、婚約解消まで持っていけた。不自然な婚約解消にならぬよう、配慮することもできた。
それに家格は違っても、この結婚における両家の立場は平等だ。いや、むしろこの結婚においてはロレーヌ家の方が立場が上の可能性さえある。
加えてクロエの父ロレーヌ伯爵は、相手が公爵家だからといって、臆したりしない。守るべきもののためならば、言うべきことはちゃんと言える人だ。だから結婚式の時だって、公爵家相手にあんなにも怒っていた。もし娘が結婚を辞めたいと言えば、脅されたとしても屈しないだろう。
「でも貴方はそうしなかった。それは何故?」
鋭い視線がライルに向けられる。
ライルは咄嗟に顔を伏せた。その視線を直視することが怖かったのだ。
「逃げないで。ちゃんと正直に答えて。全部話して」
別に体を拘束されているわけじゃないのに、体が動かない。逃げられない。
答えなければ。偽ることなく正直に、全てを話さなければ。
そうでないと多分、クロエとは一生会話することすらできないだろう。そんな気がした。
だから、ライルはひとつひとつ言葉を選びながら、俯いたままボソボソと述懐した。
「どうしても君と結婚したかったから……」
結婚式当日、すでに参列者が集まっているあの状況下でなら、クロエが自分と結婚するしかないことをライルはちゃんと理解していた。
だから、あえて結婚式ギリギリにオスカーに駆け落ちさせた。
「……に、兄さんにクロエを嫉妬させたいと言われたとき、腹が立ったんだ。あんなに愛されているのに、そんなことを言うなんてって。どうしてクロエはこんなやつが好きなんだろうって。……だから適当に、メイドと仲良くすればいいんじゃないかって返した」
「……うん」
「うちのメイドは皆んな立場を弁えているし、兄さんが口説いたところで適当に遇らわれて終わりだろうと思っていたんだ。だから、兄さんとメイドの浮気現場を見た時は驚いた。そして、激しく嫌悪し……、同時にチャンスだと思った」
こんな最低な男に渡すくらいなら、クロエを騙してでも自分が手に入れたい。自分の手で幸せにしたい。
愛されなくても、愛する権利くらいは自分のものにしたい。
あの瞬間、諦めていた恋心に火がついた。
「欲が出たんだ。君が手に入るなら、他のことは………、どうでもよかった」
ライルの本音に、クロエは心臓を刺されたような気分になった。
正直に全部話せと言ったのは自分なのに。
胸が痛い。息ができない。苦しい。
「……………どうでも良かったんだ。そっか」
それはつまり、クロエが手に入るのなら、クロエが今までに築き上げてきた地位や名誉が傷つこうがどうでも良かったということ。彼女の心が傷つこうが、ライルには瑣末なことだったということ。
クロエはグッと唇を引き結ぶ。いま口を開くと、暴言を吐いてしまいそうだ。
「俺は自分のことしか考えていなかった。自分の欲を満たすためだけに、君を傷つけた。……ごめん」
「………………ねぇ、ライル。私きっと、ちゃんと考えたよ?もしライルがオスカーの浮気のことを話してくれて、その上で私のことが好きだからオスカーじゃなくて自分を選んで欲しいって、真正面から言ってくれたら、私だってちゃんと考えたわ」
「……うん」
「そうしなかったのは断られるのが怖かったから?だから逃げられないようにしてから告白してきたの?」
「うん。そうだよ」
「……………ほんと、情けない男」
「うん。ごめん……」
「このひと月の間、どんな気持ちで私のこと慰めてたの?どんな気持ちで私のこと口説いてたの?」
「……」
「ねえ、怖くなかった?この事実が知られたらって思うと怖くなかった?」
「怖かったよ。でも、結婚してしまえば君は簡単には逃げられない。君がいくら俺を嫌おうと、君はもう俺の手の中にいる。絶対に逃がさない。………そう思ってた」
ライルはそう言って顔を上げた。
良心の呵責に苛まれているのか、それとも、本音を話したことでクロエとの縁が切れてしまうことを恐れているのか。彼の黄金の瞳はかすかに揺れていた。
泣きたいのはこっちだ。
そう思うのに、クロエは彼が泣いたとしても彼を責めることはしないだろう。
「……嘘つき」
クロエは悲痛に顔を歪めた。
どうでも良いと思っていたのなら、初夜に強引に抱いてしまえば良かったのに。
そうすれば、少なくとも3年は離婚できなかったのに。
逃がさないと言いながら、ちゃんと逃げ道を用意している。
わざとなのか、それとも詰めが甘いだけなのか。
「ねえ、ライル……」
「……何?」
「……私たちは簡単に離婚できそうね」
「そう、だな」
「お義父様はシルヴェスター家有責で離婚していいって言ってくれたし、何よりも私たちの初夜が形だけのものであることは、みんな知ってるもの」
主人の体を洗うこともある侍女のソフィアや、初夜の翌日にシーツの洗濯をしたこの屋敷の使用人なら知っている。皆がそのことを口に出さないのは、二人の結婚の経緯を知っているからだ。
初夜を先延ばしにするのも無理はないと同情して、経過を見守ってくれているだけ。
「みんな、離婚したいから証言してと言えば躊躇わずに証言してくれるわ」
「そう、だな」
「私次第で、私たちの縁はここで終わる。もし離婚したら、私は二度と貴方には会わない」
「……わかってる。俺はそれだけのことをした。だから俺に止める権利はない」
「じゃあ、全ての決断を私に委ねてくれるのね?」
「……ああ」
「じゃあ、私が貴方と離婚して、別の男性と再婚することになってもいいのね?」
クロエがそう言うと、ライルはギュッとズボンを握った。
そしてそんなの嫌だ、と叫びたいのを我慢するようにグッと奥歯を噛み締める。
「……そこは良いとは言わないんだ」
「言えるわけ、ないだろ」
嘘でも『誰か別の男と再婚しても構わない』なんて言えない。言えるはずがない。
クロエが他の誰かのものになるなんて、耐えられない。
「結婚するまでは、遠くから君が幸せになるのを眺めているだけでよかった。隣に自分がいなくともそれでよかった。でも、今はもう無理だ」
一瞬でも、泡沫の日々でも、ずっと恋焦がれていたクロエと夫婦になれた。その事実がライルをさらに欲深くする。
「本音を言うなら、離婚しても再婚はしないで欲しい」
「わがままね。私にそのお願いを聞く義理はないわ」
「わかってる。でも嫌なんだ」
ライルは消え入りそうな声で、懇願するようにつぶやいた。
クロエには彼のこの身勝手な要望を受け入れる義理などないはずなのに、なぜだか、そのお願いは一生枷になると思った。
新たに恋をするにしても、再婚するにしても、きっとクロエの脳裏には今この瞬間のライルが浮かぶのだろう。
「まるで呪いね」
クロエは聞かなきゃ良かったと後悔した。
耳鳴りがする。頭を使いすぎたのだろうか。こめかみの方からズキズキと痛み出してきた。
クロエはスッと立ち上がり、ソフィアからタオルに巻いた氷を受け取った。
そしてそれを、ライルの頬に当てた。
タオルから、溶けた氷の滴がぽたりと一滴だけ落ちる。
ライルはクロエの手に触れないように気を使いながら、その氷を受け取った。
「とりあえず、しばらくは時間を頂戴。少し考えるわ」
「………わかった」
ライルは最後にもう一度、『ごめん』とだけ謝って、静かに部屋を後にした。