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18/26

18:どうでも良かった(1)

「とりあえず、そこに座ってくれる?」

「あ、ああ……」


 公爵夫妻やオスカーと共に退室しようとしたのに、何故か呼び止められたライルは、言われるがまま一人がけのソファに腰掛けた。

 クロエに呼び出されて駆けつけたソフィアは、ものすごい顔をしてライルを睨んでいる。

 もしかするとまた、盗み聞きをしていたのかも知れない。彼女の表情からは、事情を知らない者には出来ないほどの怒りが漏れ出ているから。


「お嬢様、私がします」

「いいえ、大丈夫よ。あなたは持ってきた氷を手のひらサイズに砕いておいてくれる?」

「……かしこまりました」


 ソフィアはクロエの指示通り、ガリガリと氷を砕く。その音には若干の憎悪が混じっている気がするが、おそらく気のせいではないだろう。

 ライルは俯き、ギュッと拳を握りしめた。


「ライル、顔を上げて」

「……」

「早く」


 すぐに反応を示さないライルに、クロエは苛立ったように小さく息を吐いた。

 その吐息にライルはビクリと肩を跳ねさせた。


「ほら、顔を上げなさい」

「わかっ………、痛っ!?」

「こら、動かないの」

「痛い痛い痛い!!待って、クロエ。痛いから!」


 クロエはライルが顔を上げた瞬間、彼の両頬を片手で雑に掴むと、強引に右頬に軟膏を塗り込んだ。

 オスカーに殴られて腫れた頬には、微かに爪で引っ掻かれたような傷がある。おそらくそこに軟膏が染みるのだろう。

 

「何、その軟膏!?」

「ロレーヌ家に代々伝わる秘伝の軟膏よ。塗り込むと少し痛いけど、ビックリするほど早く傷が治るの」

「少しどころじゃないほど痛いんだけど!?」

「子どもみたいな駄々こねないの。ほら、ちゃんと座って顔を上げて。じゃないとオスカーって呼ぶわよ」

「……人の名前を蔑称に使うなよ」


 しかし、オスカーと呼ばれるのは嫌なので、ライルは大人しくされるがままに激痛軟膏を受け入れるしかなかった。


「お嬢様、氷ができました」

「ありがとう、ではそれをタオルに包んでおいて」

「はい、かしこまりました」


 ソフィアの怒りの氷砕きの音が止むと同時に、雨も止んでいて、分厚い雲の隙間からは三日月が顔を覗かせていた。

 

「流石にそろそろ暗いわね。ソフィア、ランタンをこちらにももらえるかしら」

「かしこまりました」


 ソフィアはランタンに火をつけ、サイドテーブルの上に置いた。

 揺らぐランタンの火が、クロエの碧い瞳に映り込む。オレンジの炎と彼女の碧が美しく混ざり合う。


「他に怪我はないわね?」


 ライルの頬を両手で掴み、念入りに確認するクロエ。

 彼女が少し前屈みになった時、その白銀の髪がはらりと垂れてライルの鼻先をかすった。

 それはまるで絹糸のように滑らかで、ライルは思わず触れたくなった。


「クロエ……」

 

 ライルはそっと彼女の髪に手を伸ばす。

 だが、クロエは地を這うような低い声色で短くひと言、呟いた。

 

「触らないで」


 ヒュッと喉が鳴る。ライルはすぐにその愚かな手を引っ込めた。


「言ったはずよ。貴方がしたこととオスカーがしたことはまた別の問題だと」


 クロエの大きな瞳が、不快そうに細められる。

 それは明確な拒絶だった。


「クロエ、あの……」

「……ねえ、ライル。聞いてもいいかしら」


 軟膏を塗る手を止めたクロエは、ライルの正面にある一人掛けのソファに静かに腰掛けた。

 そして足を組み、ジッと彼を見据える。


「オスカーの浮気を知ったのはいつ?」

「……結婚式の3ヶ月くらい前」

「じゃあ、どうしてその時にオスカーの浮気のことを私に話してくれなかったの?」

「……」

「貴方が私のことをどうでも良いと考えているのなら、後継者の地位が欲しいだけだと言うのなら、まだわからなくはないわ。私がどうなろうと関係ないもの。……でもあなた、私のことが()()()()()()()()と言ったじゃない。それなのに、どうして私が一番傷つく方法をとったの?」


 後継者の地位を奪うためにだけにクロエとの結婚が必要だったというのなら、まだ納得できる。

 でもライルは違う。ライルはクロエが好きだと言った。


「好きな女に恥をかかせてまで、そうした理由は何?」

「それは……、その……」

「もしかして、私が恋に盲目なあまりに、貴方からの忠告の言葉を聞こうとしない愚かな女だとでも思っていたの?」

「違う!それは違う!……君はいつでも、どんな時でも俺の言葉を聞いてくれた。信じてくれた。他の誰が信じてくれなくても、君だけは信じてくれた。……だから、君が俺の言葉を聞いてくれないかも知れないなんて考えたこともない!」


 クロエはいつだって、ライルの味方だった。

 ライルの悪評を利用して、自分が働いた悪事をライルに押し付けようとした輩がいた時も、クロエだけは最初から最後まで彼の無実を信じていた。

 それなのにライルが、クロエは自分の言葉を信じてくれない、なんて思うはずがない。


「……でも、信じてくれるから。だから言えなかった」

「どういう意味?」

「俺の言葉を信じた君はきっと、兄さんを問い詰めるだろう」

「そうね」

「そして兄さんは浮気を認めて謝罪する。すると、どうなると思う?君は兄さんの謝罪を受け入れて、何ごともなかったかのように結婚するんだよ!!それが淑女というものよ、とか言って……!!」


 ライルがオスカーの浮気を知ったのは、結婚式の3ヶ月ほど前。すでに結婚まで半年を切っている状況だ。

 招待状はもう出した後で、ドレスの手配も式場や花の手配も、何もかも終わっている。

 そんな状況下で浮気が発覚したからといって、そう簡単に破談にはできない。

 加えて、ロレーヌ家はシルヴェスター家より格下だ。シルヴェスター家が慰謝料を支払って、オスカーの浮気は水に流して欲しいと言えば、ロレーヌ家はそれを受け入れるしかない。


「そんなの、耐えられない。許せない」


 あのメイドを抱いた汚い手で、クロエに触れるなんて許せるはずがない。

 だからライルはメイドを唆した。『妊娠したと言え。そうすればオスカーは君を選ばざるを得ない』、と。

 馬鹿なメイドは素直にライルの言葉を聞き入れ、馬鹿なオスカーはそれを信じた。

 あとはオスカーの話した通りだ。

 オスカーの逃亡を手助けし、混乱する公爵夫妻には、兄の代わりに自分がクロエと結婚すると申し出た。


「ごめん、クロエ……。ごめん……」


 ライルは消え入りそうな声で何度も謝った。

 それは本当に、心からの謝罪だった。その言葉に嘘は一つもなかった。


 だが、クロエにその謝罪は届かない。


 クロエは髪をかき揚げ、小さくため息をこぼした。

 

「ずるい人ね」

「……え?」

「オスカーから私を救うために仕方なくそうしたとでも言いたいのかしら?」

「そ、そんなこと言ってない!」

「そうかしら。だって貴方、さっきから自分をよく見せようとしかしていないじゃない」


 クロエが無機質な笑みを浮かべて、こちらを見てくる。

 それは先ほど、オスカーに向けていたモノとはまた違った、悲しみの入り混じった複雑な怒りだった。


「ライル、嘘って何だろうね」


 クロエは窓の外を眺めて、またため息をついた。

 ため息をついた分だけ幸せが逃げると言うのなら、多分もう、彼女の中に幸せは残っていないだろう。


「全てを話さないことは、嘘とはまた違うのかな?」


 鈴の音のような可愛らしい声が、ライルの鼓膜を揺らす。

 柔らかな声色には失望が宿っていた。

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