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14:緊急事態なんだ(1)

 恋心はまだ消えていない。だからどこかで顔を合わせれば、未練がましく追い縋ってしまいそうな気がしていた。

 だがいざ会ってみると、思っていたよりも平気だった。むしろ、愛おしさではなく怒りが湧いてきたことにホッとした。


「ふう……」


 軽めの服装に着替えたクロエは仰向けでベッドに寝転んだ。

 そしてレースの天蓋を見上げ、小さくめ息をこぼす。

 

(これは予想外だわ)


 駆け落ちしたオスカーが、帰ってくるなんて思っていなかった。

 たとえ生活が立ち行かなくなったとしても、友人や親戚を頼ると思っていた。

 まさかあのオスカーが、自ら出て行った実家を頼るような無様を晒すなんて、想像すらしていなかった。

 

(そういえば、どうして一人だったのかしら……?)


 エントランスを見渡す限り、彼と駆け落ちしたというあのメイドの女はいなかった。

 『騙された』と言っていたことから、その女に騙されていたという事なのだろうが……。

 

(まあ、私にはもう関係ないわ)


 クロエは寝返りを打ち、扉に背を向けた。

 多きな窓の向こうには分厚い雲に覆われた陰鬱な曇天が広がる。

 気がつくと、ポツポツと雨が降り出していた。

 

「関係ない、関係ない。関係ないのよ……」


 まるで自分に暗示をかけるように、繰り返すクロエ。

 その時点で、関係ないなんて思えていないことが丸わかりだ。


 

「オスカー……」


 先ほど見た、かつての婚約者の見窄らしい姿を思い出し、クロエは無意識に彼の名をつぶやいた。


(……このひと月の間、どんな生活をしていたんだろう)


 勝手に、今までと変わらず過ごしている彼を想像していたが、そんなことはあり得なかった。

 何故ならオスカーは今まで、朝起きてから夜寝るまでの全てを他人にお世話されて生きてきたから。彼は食事も着替えも、自分一人では何もできない生粋のお坊ちゃんなのだ。

 そんな彼が、市井で生きていけるはずがない。

 きっと、このひと月の間は全てあのメイドが世話をしていたのだろう。

 

(そんな生活に、嫌気がさして破局……、ってところかしら)


 憧れの王子様と駆け落ちしたは良いが、相手が輝いて見えていたのは、彼に地位と名誉と金があったから。

 それら全てを投げ捨てて市井に降りた男は、自分一人では何もできない上に、金も仕事ないただのお荷物な男だったというのがオチだろう。


(ザマアミロ、ね)


 怒り、恨み、憎しみ。それから少しの優越感。  

 クロエの中に、沸々と醜い感情が湧いてくる。

 恋心で美化されていた記憶が崩れていく。

 いっそ二度と会わなければ、綺麗な記憶のまま思い出にできたのに。

 結婚式の時からずっと、心の奥底にしまって見ないようにしていた感情が溢れそうだ。


「これも、全部ライルのせいよ」


 完全なる八つ当たりだが、仕方がない。だって、ライルといると気が緩む。気が緩むから、溢れる感情を抑えるのが難しくなる。

 クロエは大きく息を吸い込み、長い時間をかけて静かに吐き出した。

 自分の呼吸音で、心が少しだけ落ち着いた。この呼吸法を教えてくれた家庭教師には感謝しかない。


「しかし、どうするつもりなのかしら。今更公爵家に戻りたいと言っても、どうすることもできないでしょうに」


 もう後継者はライルに変更されているし、領民にもそう公表した。流石の公爵夫妻もそんな身勝手な我儘を許すはずがない。

 クロエは体を起こし、ベッドの端に腰掛けるとグッと背伸びをした。

 そして、ふと顔をあげる。


 するとそこには、ラフな格好に着替えて前髪をおろした状態のライルが、俯いたまま佇んでいた。


「ひっ!?」


 そこらへんの心霊現象よりもホラーである。

 驚いたクロエはベッドの上に逃げ、枕を盾に叫んだ。


「な、何してるのよ!ライル!」


 いつ入って来たのだろう。ノックはなかった気がする。


「来たなら声かけてよ!」

「……ごめん」

「あと、ノックして!夫婦であっても最低限のマナーは守って!」

「……うん、ごめん」

「びっくりするから!心臓止まるかと思ったわ!」

「ごめん……」

「ま、まあ、わかってくれたなら良いけど……」

「……ごめん」

「……………あの。ラ、ライル?」

「ごめん、クロエ……。ごめん……」


 いつになく暗い声色で、謝るしかしないライル。クロエはそんな彼に怪訝な表情を向けた。


「ど、どうしたの?何か……」


 何かあったのか。そう聞こうとして、クロエはハタと気がつく。

 ()()、はあった。ついさっきの事だ。逃亡した兄が突然帰ってきた。それは誰がなんと言おうと、今季最大のサプライズニュースだ。


「えっと、もしかして……、オスカーのこと?」


 クロエは枕を抱きしめたまま、心配そうに尋ねた。

 ライルとオスカーの関係が微妙であることは昔から知っていたが、今は状況が状況なだけにさらに複雑化していそうだ。

 クロエはオスカーの登場がライルの心に大きな負荷を与えていないか、とても不安だった。

 だから尋ねたのだが、クロエがオスカーの名前を口にした瞬間、ライルの纏う雰囲気は一変した。

 

 冷たく重い、負のオーラを纏ったライルはツカツカとベッドに近づき、一瞬のうちにクロエを組み敷いた。

 おろした前髪の隙間から、仄かに闇を宿した彼の金色の瞳が光る。

 

「ラ……イル……?」


 イマイチ状況が理解できないクロエは、目を丸くしてライルを見上げた。

 ここまでされても、怯えた様子がないクロエにライルの胸はちくりと痛む。


「……クロエ」

「な、何……?」

「これ、兄さんからもらったやつだよな」


 ライルはクロエの首元を彩るペリドットのネックレスに触れた。 


「…….っ!?」


 そういえば、腹いせみたいに付け替えてそのままだった。

 クロエは両手で隠すように胸元のペリドットを握りしめた。


「こ、これは……その……」

「いいよ、別に。言い訳しなくても大丈夫。ちゃんとわかってるから」


 ライルはクロエの髪に指を通し、そっと梳く。

 そしてひと束だけ手に取り、毛先に口付けた。

 

「でも、ごめんな。緊急事態なんだ」

「……え?」

「君が、今も兄さんを想っていることは知ってるよ。でも、ごめん」

「え……、どういう……」

「本当は君と想いが通じ合ってからと思っていたけど、こうなった以上は仕方がないんだ」


 悲しそうに、申し訳なさそうに微笑むライル。

 髪に触れていた彼の手はクロエの目尻に触れ、頬に触れ、耳に触れ、首筋に触れて


 胸へと降りた。


 クロエはそこでようやく、ライルが今からしようとしている事を理解した。


「好きだよ、クロエ。愛してる」

「……」

「だからどうか、俺のものになって」


 今にも泣き出しそうな顔で、ライルは手に少し、力を入れた。

 クロエの柔らかな胸の感触が皮膚から全身に伝わる。

だが、どうしてだろうか。

 好きな人に触れているのに、ライルの心はちっとも高揚しない。

 

「クロエ……。クロエ……」


 ライルは赦しを乞うように、クロエの名を呼ぶ。

 そして彼女の瞼に、頬に、首筋に唇を落としていく。

 クロエはそんな彼を、ただ冷めた視線を向けた。


「……ねえ、ライル。私まだあなたのこと好きじゃない」

「……知ってる」

「でも私たちは夫婦だから、やろうと思えば出来るよ。子作り」

「…………え?」


 強引に自分を抱こうとする男に向かって、()()()と言ったのか。

 クロエに覆い被さっていたライルは、咄嗟に飛び退いた。

 クロエは体を起こし、青い顔の彼をジッと見据える。


「私はあなたのこと好きじゃないけど、もしあなたがそれでも構わないと言うのなら、私は別にいいわよ」

「な、何を言って……」

「だって私たちは夫婦だもの。あなたがこれからする行為は私たちの義務でもあるから、拒む理由はないわ」

「クロエ、君は自分が何を言ってるのかわかっているのか?」

「ええ、わかっているわ。むしろわかっていないのはあなたの方よ」

「それはどういう意味だよ」

「今、あなたが私を無理矢理にでも抱くというのなら、この先も私たちにとってこの行為はただの義務にしかならないということよ」


 一度体を繋げれば、夫婦の離婚は難しくなる。宗教上の観点から少なくとも3年は不可能だ。

 オスカーの登場に後継者の地位を奪われると焦ったライルはそれを狙っているのだろうが、こんなものは策としては下の下。愚策だ。

 

「私はこれから先、一生()()()()()であなたに抱かれてあげるわ。ベッドの中でもベッドの外でも、あなたに愛を囁くことはないでしょう。それでも良いならどうぞ?」


 クロエは羽織っていたストールを脱いだ。

 そしてワンピースの肩紐を軽く下にずらす。

 泣いて嫌がって拒絶されると思っていたライルの目には困惑の色が見えた。

 動揺する彼に、クロエは妖艶にクスッと笑った。

 

「好きに触れて、存分に可愛がってくださいな。……旦那様?」


 出来るものならば、ね。


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