メスガキ
夕暮れの光が教室の窓から差し込み、机の上に淡い影を落としていた。
静かな放課後の教室には、俺と、ひとりの少女しかいない。
窓際の席に肘をついた彼女は、じっとこちらを見ていた。
「ねえ、センパイ。今日もまた一人?」
軽く笑う彼女の声音には、いつものように小馬鹿にしたような響きがある。
俺はため息をついた。
「お前こそ、まだ学校に残ってるのかよ」
「そりゃあ、センパイが寂しそうだったから、私が相手してあげようと思ってさ」
彼女は悪びれる様子もなく、にっこりと笑う。
まるで小悪魔みたいな笑顔だった。
俺のことをからかうのが楽しいらしい。
いつものことだ。
「……別に寂しくなんかない」
「ふーん。でも、私がいなくなったら、センパイ、きっともっと寂しくなるよ?」
彼女は指で机をトントンと叩く。
無邪気な仕草のはずなのに、どこか落ち着かない気持ちにさせられる。
こんなふうに絡まれるのには、もう慣れたはずだった。
なのに、今日はなぜか胸の奥に小さな違和感が広がっていた。
「……何だよ、それ」
「んー? さあね」
彼女はくるりと踵を返し、窓の外を見つめる。
茜色の空に浮かぶ雲は、どこか儚げで、切なさを誘った。
「センパイってさ、なんでそんなに無愛想なの?」
「別に……そういう性格だから」
「ふうん。じゃあさ、好きな人とかいないの?」
「……いない」
即答したのに、彼女はじっと俺の顔を覗き込んでくる。
「嘘。センパイ、嘘つくとき、少しだけ目を逸らすよね」
図星を突かれ、俺は思わず視線をそらした。
「ほんとにいないんだよ」
「ふーん……でも、私がいなくなったら寂しいでしょ?」
また同じことを言う。
だけど、さっきよりも少しだけ声が揺れているような気がした。
「……どういう意味だよ」
「センパイ、私ね、もうすぐ転校するの」
心臓が強く脈打つのを感じた。
彼女の言葉が、思いがけず深く突き刺さる。
「嘘、だろ……?」
「嘘じゃないよ。ほら、これ」
彼女は制服のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、机の上に置いた。
転校届。
本物だった。
彼女のふざけたような態度が、急に遠いものに感じられる。
胸の奥が痛い。
「いつ……いつ決まったんだよ」
「つい最近。でも、言いたくなかったんだ。センパイがどんな顔するか、怖かったから」
彼女は小さく笑った。
今まで見たことのない、泣きそうな笑顔だった。
「……俺、そんな顔してるか?」
「うん。なんか、今にも泣きそう」
「バカ言うな」
「バカじゃないよ。だって、私も同じ気持ちだから」
彼女は言葉を詰まらせながら、そっと手を伸ばしてきた。
俺は、その手を振り払うこともできずに、ただ握りしめた。
温かい。
それなのに、どこか壊れそうだった。
「センパイ、私のこと、好き?」
胸が締め付けられる。
いつものようにからかうような声じゃない。
本気の問いかけだった。
「……ああ、好きだよ」
「そっか……それなら、よかった」
彼女はそっと目を閉じた。
まるで、夕暮れに溶けてしまうみたいに儚く。
俺はその手を、決して離さないと誓った。
転校の日、彼女は最後まで笑っていた。
駅のホームで、電車の扉が閉まる瞬間まで、俺に向かって手を振っていた。
俺は、ただ黙ってそれを見ていた。
彼女がいなくなった放課後の教室は、驚くほど静かだった。
机に肘をついても、もうからかい声は聞こえてこない。
「ねえ、センパイ」なんて、小悪魔みたいな笑顔ももうない。
いつも通りのはずなのに、胸の奥が妙に冷たい。
あの手の温もりが、まだ指先に残っている気がする。
「……バカ」
呟いて、夕暮れの空を見上げた。
もう一度だけ、彼女が俺の名前を呼ぶ声を聞きたかった。