1-33 帰る場所
清流の流れる美しい森は、沢山の緑が溢れていた。光が当たると、まるで朝露で濡れているかのように、不思議と七色に光り輝く。
透き通った川の流れが、苔生した大きな岩の間をさらさらと流れていた。
頭上には青々とした木々の葉が茂り、時折さらさらと揺れる。それと一緒に沢山の精霊達が楽しそうに踊っていた。
水の中にも、木の枝の上にも、岩と岩の間の土の中からも。小さな精霊だけじゃなくて、動物や人の形をした大きな精霊達もいる。
そんな、瑞々しい森の、鏡のような水面の美しい池のほとり。
私は沢山の精霊にもみくちゃにされていた。
『これ!これも食べて!!!』
幼児のような小さな精霊が、赤い桃のような果物を手渡してくる。
『ダメ!次は私!ほら、このお花綺麗でしょう?』
根っこと土のついたままの葉っぱには、橙色の半透明の花が咲いていた。それを、土ごと受け取る。
『その土、僕がミミズくんと綺麗にしたんだ』
モグラのような精霊が、照れながら嬉しそうに私の膝に乗ってきた。
『こっちのも食べて!』
『ねー遊ぼうよ』
『木の上も気持ちいいよ?』
『トゥルルル』
『バウワウ!』
鳥のような精霊も大きな犬のような精霊もやってきた。
ここは幼児の集会所か、動物園だろうか。……収拾がつかない。
最初はとても楽しく遊んでいたのだけど。調子に乗り始めた精霊たちは、我先にと群がり、私は嬉しいような困ったような気持ちになりながら、みんなの対応をしていた。
かわいい精霊たち。こんなに沢山種類がいたんだなと、改めて思う。
『ほらほら、アニエス疲れてきちゃったよ?一回お休みの時間にしようよ』
少しお姉さんのような……いや、お兄さんのような緑色の精霊がやってきてみんなをなだめる。
果物を持ってきてくれていた可愛らしい精霊は、ほっぺを膨らませた。
『いいじゃない!やっとアニエスとお話していいって言われたんだもん!』
『そうだよ!僕たちずっと我慢してたんだから!』
『たくさんお話していいでしょう!?』
『キョエー!!』
『バウゥゥゥ』
そして追加で小さな精霊たちがあたりをフワフワと舞い始める始末。これは……どうしたら……?
だんだん遠い目になってきた私は、現実逃避をして、美しい水面と緑に目を向けた。
本当に綺麗な場所だ。そして、何だか空気が美味しい。
沢山の精霊がいる、心地よい場所。自分の身体の中の何かが、戻ってきたと実感しているような、そんな気がした。
でも、なぜだろう。
何かが足りない。
そんな焦燥感が時折私を襲う。
行かなきゃいけない。帰らなきゃいけない。そんな、ざわざわとした気持ちが消えない。
『ほら、お前たち。少し休憩だ。そろそろ話をさせて』
背後からそんな声がして振り向く。そこには自分と同じぐらいの年頃の、綺麗な男の人がいた。
さらさらと風に揺れる白銀の髪。優しげな灰青の透明感のある瞳。飾り気のないシンプルな白っぽい服を着ていたが、それが逆に美しさを引き立てるようだった。
『まだアニエスと遊びたい!』
『また後でお話できる?』
『……あまりアニエスを困らせるんじゃないよ』
にこやかに笑った男の透き通るような一声で、精霊たちは少し残念そうに、はーいと返事をしてどこかへ行ってしまった。
その背中を見送る私に、男は柔らかく落ち着いた声をかけた。
『ほら、アニエス。こっちにおいで』
なんとなく、その声が心地よくて。ほっと落ち着いた気持ちになりながら、男の後に続く。
先程までいた池に流れ込む穏やかな川の上流。緑が生い茂る谷間のようなそこは、気持ちの良い涼やかな場所だった。さらさらと美しい滝が流れ落ち、清浄な流れが岩の間を段々に流れていく。
流れが穏やかになり、池のようになった流れの近くの川辺には、かごのように編まれた椅子があった。よく見ると、生きた蔦でできている。男にそこに座るように促されて、腰を下ろした。
心地良い水の流れる音。瑞々しい緑の匂い。命がいっぱいに溢れたこの場所は、私の身体の何もかもを洗い流していくようだった。
『身体の調子はどうだい?』
「身体の……?」
『そう、良くないものが沢山溜まっていたから。そろそろ抜けたと思うんだけど』
そう言えば、とふと思い出す。確か、誰かに何か良くないものを身体に入れられたような……
身体の中に溜まっていた淀み。あまりよく思い出せないが、確かにそれはあった。身体の中の様子を感じ取り、それがすっかりなくなったことを確かめる。
「もう、大丈夫そうです」
『良かった。あの術はしつこかったからね。……うん、綺麗に無くなっているよ。もう大丈夫だろうね』
そう微笑まれて、私も微笑み返す。単純に嬉しい、そう思った。
『ここでの暮らしはどうだった?』
「え?そうですね、気持ちよかったですよ」
『ふふ、そうか。精霊たちは可愛かっただろう』
「はい、とても」
ニコリと笑ってそう返すと、男は少し寂しそうな顔をした。
『……そろそろ、限界かな』
「限界……?」
首を傾げて問いかけるが、男は何も答えなかった。
『これからどうしたい?』
その問いかけに、また首を傾げる。これからどうしたい?私は、どうしたいんだっけ。
心の中を探る。ここに来てから、とても穏やかだ。でもやっぱり、何だか分からない焦燥感のような、何かを探しているような、そんな気持ちが消えない。
それが、何かは分からないけれど。このままじゃいけない。それだけは、いつも感じていた。
「……何か足りないみたいで。何だか分からないんですが、それを見つけたいです」
『…………』
そう答えると、男は黙ったまま、少し切ない表情で笑った。
『……変わらないね、ずっと』
「え?」
『分かったよ。待っていて、探しものを連れてくるから』
そう言うと男はふっと消えてしまった。
よく分からないまま、ぼんやりと水の流れに目を向ける。
気持ちの良い、美しい場所。息を吸うたびに生命力が満ちていくのを感じる。
それなのに、何かが足りない。ここではない。帰りたい。良く分からないその気持ちが、心を満たす。
「――アニエス?」
ふと、誰かが私を呼ぶ声が聞こえて振り返る。
小麦色に近い、硬そうな金の髪の毛。少し鋭い、赤銅色の瞳。運動が得意そうな靭やかな筋肉のついた、同い年ぐらいの男の人。
なんとなくその低い声とその姿に見覚えがあって首を傾げる。
なんか、落ち着くし、好きだな。
不意にそんな気持ちが湧き上がってきて、何故かどうしようもなく嬉しくなって、男に笑いかけた。
「こんにちは」
そう声をかけると、男は少し息を飲んで、ショックを受けたような表情をした。
どうして、そんなに悲しそうな顔をするの?
不思議に思って男を見上げる。
その男は、引き寄せられるように私に近づいてきた。
「えぇと、何か用?どうしたの?」
そう問いかけると、男は愛おしいものを見つめるような、でも切なそうな表情で、私をじっと見つめた。
どうして?
その憂いのある表情に、もっと幸せそうな顔をして欲しいと、そう願う。
「……今、幸せか?」
ふと、そう問いかけられた。……私のこと?
うん、私は大丈夫だよと、安心して欲しいと笑みを浮かべる。
「うん、もちろん、幸せだよ」
「……そうか」
安心させたかったのに。
憂いの増したその表情に、椅子から立ち上がり男に近づく。
どうして?なんで、そんなに辛そうなの?
少し俯いた男の目から、ぽたりと一粒涙が落ちる。驚いて、男の頬に手を伸ばした。
「どうして泣いてるの?」
そう、語りかけたと思ったときには、私は男の腕の中にいた。
思ったよりもしっかりとした、硬い腕の中。それなのに、びっくりするほど優しくて、温かい。
「好きだよ、アニエス」
まるで、私の存在を確かめるように抱き寄せるその腕に、どうしようもなく愛おしさがこみ上げてくる。
そうか、探していたのはこれだった。
急に満たされた気持ちになって、見つけたことが嬉しくて、男の背中に手を回して抱きしめ返した。
男の少し硬い髪の毛が、私の柔らかな髪にすりより、混ざり合う。
「ずっと、好きだ」
低音の、でも優しく響くその声に蕩けそうになる。ほんの少しだけ身体が離れて、男の硬い手が、私の頬にそっと乗せられた。
そうだ、あの頃からずっと変わらない。
私の、一番大切な人。
柔からな口付けが、私を優しく包み込む。
「……ディカルド?」
自然と、その言葉が口からこぼれだした。
男は、その私の呼びかけを聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
――ありがとう。
確かに、そう口が動いたのだけど。
大好きなその声色は聞こえなかった。
さぁ、と風が吹いて、男の姿が見えなくなる。
目の前には、苔生した豊かな森。涼やかな清流の音。
私は、その場にドサリと膝をついた。
「――――や、だ」
いない。どこにもいなくなってしまった。
私の、大好きな人。
「い、かないで……」
震える手で顔を覆う。
「やだ………嫌だ!!」
そう、私のいる所は、ここじゃない。ここじゃなかったはずだ。
私を、待ってる人が、いる。
「――――帰り、たい」
悲痛な声が美しい森に響いた。
『――ごめんね、お姉様』
美しい薔薇色の髪の乙女が私の前に降り立った。そして、優しく手を差し伸べる。
『ほら、行こう?』
言われるがまま、震える手で、そっとその手を取る。
気がついたら、真っ白な世界だった。ぺたんと座ったその横には、先程の薔薇色の髪の美しい乙女が倒れている。
「――――っリップル!?」
そう、この女性はリップルだ。いつも見ていた可愛らしい小さな姿じゃないけれど。慌ててゆすり起こすけど、固く閉じられた瞳は開かない。
『大丈夫、眠っているだけだよ。……人の身体を人間界と精霊界の間で行き来させるのは、かなり力を使うからね』
その声にハッとして見上げると、少し前に編まれた椅子のある場所へ連れて行ってくれた、白銀の髪の男がいた。
男は少し切なさのある表情で、にこりと笑った。
『どう?人の記憶は戻ってきた?』
驚いて頭の中を探る。
そうだ私は、教会に囚われて――聖術をかけられて、操られそうになって。それで、ディカルドが助けてくれて――――
「っディカルドは!?」
『大丈夫、元気だよ。ちゃんと元通り人間界に帰っただけだから』
そう言うと、男はそっと私に問いかけた。
『アニエス。人間界に、戻りたい?』
すぐに頷いた私に、男は少し寂しそうな笑顔を向けた。
『きっと、このまま人間界に戻ったら、アニエスは精霊の愛し子だと持て囃され、注目を集め、再び利用しようと近づいてくる者が現れる。幸せに暮らせるかどうかは分からない。――それでも、人間界の、あの男の所に戻りたいんだね?』
「はい、戻りたいです」
そう即答する。確かに、きっと辛いことも沢山あるだろうなとは思う。それでも、戻りたい。その気持ちしか無かった。
『……君が愛し子であることは、どうしても変えられない。君が――愛し子として、生を受けてしまったから』
男は寂しそうにそう答えた。
『それでも、大丈夫?』
「……はい、大丈夫です」
悲しそうな男にそう答える。なぜだが、私もとても悲しくなってきて。私はいつの間にかその男の手を取っていた。
「私は、愛し子であることを、嫌だと思ったことは一度もありません」
『……本当に?』
希望を宿したような男の灰青色の瞳を見返す。
「もちろんです。リップルや精霊たちのこと、大好きですから」
『生まれながらにして、愛し子である事の責を負ってしまったのに?』
「うーん……そんなの、誰しも何かしらは不平等を背負って生まれますから」
貧乏貴族に有力貴族。生まれながらに持つ男女の性。顔つきや体型、障害や身分に貧富の差。生まれた国の違い。
私達は、平等には生まれて来ない。
だけど、皆それと共に生きる。それに向き合って、手を取り合って、前に進む。
愛し子である事も、同じだと思うのだ。
「私はこうして精霊の愛し子として生まれたことを、嬉しく思っていますよ」
『――ありがとう』
男は微笑むと、私の頭を愛おしそうに撫でた。何故か、泣き出しそうなぐらい安心して。男の胸に飛び込んで、ぎゅっと抱きつく。
『……リップルも、じきに目覚めるから。少ししたら、人間界で負担のない、幼体の身体でアニエスに会いに行くと思うよ』
ぽんぽんと私の頭を撫でる男の手は、どこまでも優しかった。
『いつか帰ってきたくなったら、いつでも帰っておいで。長い時の中で、精霊界で待っているから』
不思議に思ってその顔を見上げる。
包み込むような優しい表情。
男は、ふわっと私を抱き上げた。
『もう時間だ。ここに長くいてはいけない』
キラキラと辺りが輝いて、男の手が私の身体から離れる。
『さぁ、帰りなさい』
「待って!」
慌てて男に手を伸ばす。
「っあなたは――――」
優しい表情が、光の彼方に消えていく。
ドサリと尻餅をついた。
「…………帰って、きた」
真っ暗な、私とディカルドの、夫婦の寝室。夜風がテラスへと続く窓から流れ込み、カーテンが暗がりのなか、ふわりと揺れる。
その向こう側に、ディカルドの背中が見えて、ふらりと立ち上がった。ディカルドは、手すりに預けた両腕に顔を埋めて、何かを考えているようだった。
「――ディカルド?」
ディカルドは、何も答えない。
吸い寄せられるようにそちらに近づいて、風に舞うカーテンをどけて、テラスに出る。
「ディカルド……?」
ディカルドの背中が、ピクリと動いた。そして、ゆっくりと顔を上げ、ゆるゆるとこちらを振り返る。
「アニ、エス……?」
呆然と私の姿を眺めるディカルドの、恋しくて堪らなかったその姿に、私の視界がぼやけていった。
「――っ、うん」
ゆっくりと、確かめるように、一歩を踏み出す。
それから、愛おしいその姿に、ニコリと笑いかけた。
「――ただいま!」
その次の瞬間には、私はもうディカルドの腕の中にいた。
あったかくて、硬い腕の中。そう、ここが、私の帰る場所だった。
ずっと、帰りたかった場所。
私は、ディカルドの背中に手を回すと、その愛おしい背中を、ぎゅうぎゅうに抱きしめた。
読んでいただいてありがとうございました!
帰って来れました(´∀`*)ホッ
「おかえりぃぃぃアニエスぅぅぅ!!!」と涙ながらに大歓迎してくれた素敵な神読者様も、
「よかった、よかったねディカルド(;_;)!」と待ち続けた健気な夫を労ってくれた優しいあなたも、
今回はなにかしらで応援してくださると感無量です(笑)
あと残り数話、最後までぜひお楽しみください!
※一話増えて、全37話に更新しております!