1-10 馬車と優しさ
『あの大聖堂の中で、聖女になった精霊の愛し子は……一体何をしているの?』
リップルのその言葉を反芻しながら、誰もいない真っ暗な調薬室の鍵を閉める。
何故か、ざわざわとした感覚が止まらない。教会が管理する、大聖堂の中。子供の頃、一度入ったことがあるが、そこは本当に静かで、精霊は一体も見当たらなかった。
知能をほとんど持たないほんの小さな精霊は、この世界の至るところにいる。これまで、一体も目に止まらない場所なんて見たことがなかった。だから、子供ながらに恐怖を覚え、早く帰りたいと両親に泣きついた記憶がある。
清廉な、でも不気味な場所。それが、私の抱く大聖堂の印象だった。
「どうして……精霊がいないの?」
よく考えたら、精霊がいないなんてことはあり得ない。自然が息づき、生命が宿る場所には、必ず精霊がいる。大気が揺れれば風の精霊が踊り、陽が射せば陽の精霊がフワフワと微笑むのだ。
それがない場所なんて、あるだろうか。いや、大聖堂にそれが一つもないなんてことはあり得ない。じゃあ。じゃあ……
私は一つの考えに至って、ぞわりと鳥肌を立てた。
――――意図的に、精霊を、排除した場所……?
精霊の愛し子である聖女が住まう場所に、精霊がいない。その異様な組み合わせに、私は何か吐き気のようなものを催し、口を抑えた。
「……おい」
その声にハッとして振り返る。仕事が終わったばかりという雰囲気の騎士服を着崩したディカルドが、驚くほどすぐ後ろにいた。
「っび、びっくりさせないでよ!」
「何度も声かけただろうが」
「え……」
全く気付かなかった。これは怒られると思って覚悟してディカルドを見上げると、眉をひそめたディカルドはおもむろに私の頬に手を触れた。
「具合、悪いのか」
「へ?」
「ボーッとしてるし……顔色が悪い」
そう言うとディカルドは私の鞄を持ち上げた。
「馬車まで歩けるか?」
「だ、大丈夫」
「……何かあったら言えよ」
そうしてディカルドは私の手を引いて歩き始めた。
随分手が温かいなと思って、初めて気が付いた。ディカルドの手が熱いんじゃない――私の手が冷たいんだ。
は、と息を吐き出す。そう、大聖堂のことを考えたら、急に気持ち悪くなって――
血の気が引いて、足がふらついた。
「っおい、」
ディカルドが慌てたように私を支えた。揺れる視界の中、冷たい手でディカルドの腕を掴む。
「ごめん……」
「アホ、具合悪いならちゃんと言えって言ったろ」
「違う、の……」
怖い。突然、そんな思いが沸々と心の中を支配する。その恐ろしさに耐えるように、ディカルドの服をぎゅっと握った。
「……少しだから我慢しろよ」
「わっ」
グイッと足を持ち上げられた感覚がして慌てて身近にあったディカルドのジャケットに縋り付く。揺れる感覚に驚いて我が身を確認したら、ディカルドに横抱きにされていた。
「ちょ、ちょっと、ディカルド!ここ、王宮……」
「うるせぇ。少し我慢しろっつったろ」
王宮にまだまばらに残っていた人たちがこちらの様子をチラチラと見ている。恥ずかしい、けど。
気持ち悪さと目眩でそれどころじゃなくて、そのままぐったりとディカルドの胸に寄りかかって目を瞑った。
しばらくすると馬車についたのか、そっと座席に降ろされた感覚がした。
「ご、めん……」
「どこが具合悪い」
そのまま私を背もたれに持たれ掛けさせたディカルドは、私のおでこに手をやると、想像以上に心配が滲む顔で私を見下ろした。
「熱はなさそうだな」
「う、うん……」
そのあまり見ない表情にどきりとしてディカルドを見上げると、ディカルドは心配そうな表情のまま、眉を顰めた。
「ちゃんと言え。言わなきゃ分かんねぇだろ」
「っなんか、色々考えてたら、気持ち悪くなって……」
「色々……?」
「大聖堂の、こと」
ディカルドが、ハッとした表情をした。もしかして……ディカルドも、何か知ってるんだろうか。
冷たく震える手を、キュッと握りしめる。
「リップルが教えてくれたの。やっぱり、今でも、大聖堂の中には、精霊がいない」
目を見開き驚いたような表情をするディカルドを見上げる。
「あの大聖堂の中で……聖女様は何をしていたのかな――ううん、『何をされていた』の、かな……」
そんな自分の声にゾッとして、身体を丸め、両腕で自分自身を抱きしめる。何で、何でこんなに怖いんだろう。
身体が芯から冷える感じがする。あの場所に行ったらいけない。そう、心の中の何かが私に訴えているような気がした。
――ふと、暖かくなった。いつの間にか硬く閉じていた目を開く。
引き締まった、しっかりした腕が、私を包み込んでいる。顔の横には、ディカルドの硬そうな髪の毛が見えて。
私は、横からディカルドに抱きしめられていた。
思わず息を呑む。
「……そんな簡単に教会の奴らにくれてやらねぇから、安心しろ」
耳元で静かに響くディカルドの声に胸が跳ねた。
ディカルドは、そんな私の様子には気付いていないのか、私の身体を温めるように両腕で包みながら、体調を気遣うように背中をさすった。
「……少し、調べてみる」
「し、調べてみる……?」
「一応諜報も仕事の範囲内だ」
驚いてディカルドの顔を見上げると、ディカルドは眉間にシワを寄せ目線をそらしつつ、ボソリと呟いた。
「俺が諜報活動をしている事自体、オーギュスティン家の極秘事項だ。他の奴に言うなよ」
「い、言わない……」
剣ばっかり振っていると思っていたのに、そんな頭脳戦ができたなんて。イメージと違いすぎてかなり驚いた。
「なんで、教えてくれたの……」
「……お前もう身内だろ」
「み、身内……」
そう言われてみればそうなのだけど。偽装でも、身内に入れてくれたことが、なんだかじわりと嬉しく感じた。
「何ニヤついてやがる」
「え、なんか、教えてくれて嬉しいなって」
「青くなったりニヤついたり忙しい奴だな」
「なんかすみません……」
呆れられているうちに、あっという間に家に着いた。今日は自分の家の日だ。貧乏貴族の寂れた屋敷の入口に、行きの馬車と同様、今回も手を差し出されて馬車を降ろされる。
「ありがとう、もう大丈夫。ちょっと怖かっただけだから、今日ゆっくり休んで治すね」
「……ヤバかったらこっちの家にも声かけろよ」
「ディカルドが優しくて怖い」
「お前まじでムカつく奴だな」
そう不満を漏らしたディカルドは、はぁとため息を吐くと、言葉を切って私を見下ろした。
謎の沈黙が訪れる。……帰らないんだろうか。
「……何よ」
「…………一応約束したからな」
「は?」
「今日の分」
何が、という声は、不意に重なったディカルドの唇に飲み込まれた。まさかの展開に驚いて息を呑んで目を見開く。
「……おやすみ」
そう言うと、ディカルドは月明かりの中、淡々と隣の家に帰って行った。
読んでいただいてありがとうございました!
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めちゃくちゃ嬉しいです!!!
ついにディカルドが攻め始めたかも!?
「明日の分もぜひよろしくお願いします!!」と前のめりに鼻息荒くしてくださった方も、
「いや待って大聖堂の不穏さが気になってそれどころじゃない」とミステリーが気になったあなたも、
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