リンちゃん、異世界で空を飛ぶ。
リンは、部屋に戻るとベッドに寝転がった。どっと疲れが現れる。
あの信号機のそばで、得体のしれない何かを見た。人だ。人なんだけど、何か違う。ぶるっと体を震わせる。恐怖がまだ残っている。
「あいつは、何なの」
『イヤリングの汚れをとりなさい。落としてから映像が鮮明でなくなったわ。どちらにせよ、私もよくわからないわ。こっちで調べてみる。微かにだけど、魔力を感知して近づいてきた。透明化を指示した私のミスよ』
リンは、イヤリングをハンカチでふき、再びつける。
「ススキの丘に行くなっていったじゃない。あそこにあいつが来るのを、ようこは知ってたんでしょ」
『何が来るかはわからなかった。何かが来るのはわかっていたわ』
「なんで何かが来るのがわかっていたの?」
時計の針は、ちくたくと動く。何もことばを発しないようこに、リンは苛立ちながら言う。
「魔力を感知してるなら、今だってこっちに来てるかもしれないじゃない!」
『それは、多分大丈夫よ。至近距離にならないと感知できないはず。それよりもリン、明日の夜は学校へ行ってはダメよ』
かずまに誘われたんだ。リンは、手を握る。かずまの手の温もりが、その真っすぐな眼差しが、リンに残っていた。
「なんでよ」
『なんでもよ。あなたの身を守るためでもある』
「理由を教えて。じゃないと行く」
『どうしてもよ。さっきの少年とは、月曜日に学校で会えるでしょう』
それ以上リンはしゃべらなかった。むすっとしたまま、眠りについた。
リンは、夜中に目を覚ました。ようこの声はしない。鞄からプリントを取り出した。こっちへくる直前、ようこに渡されたプリントだった。ようこが読んでいた、地球の人が書いたであろう日記だ。目を通す。日記というより、行動記録というか、短くその日したことやちょっとした町のニュースなんかが1、2行で書かれている。ほぼ毎日。読んでいて、違和感を覚える。主語がところどころわかりにくく、何か、編集されているような感じがした。月日と地名を見るとわかる。これは、今現在この町にいる人の日記だ。日記は、11月24日までで途切れていた。つまり、地球という異世界に移動しながら、この日記の主の生きる時代に来たことになる。ふと手を止める。今日11月18日と、明日19日の日記が抜けている。それまでも時折抜けている日はあったが、二日続けて抜けていることはなかった。おかしい。ようこが日記に手を加えたに違いない。リンはプリントを鞄にしまうと、再びベッドに潜った。今日と明日、何が書かれていたのだ。ようこは、何かを隠している。
翌日、朝遅くにリンは布団からようやく抜け出した。なんだか心が重くて、布団からなかなか抜け出せなかったのである。ヒサさんの手伝いをしないと。
「どうしたんやリンちゃん。ちょっと休んどくか?」
とヒサさんは敏感にリンの異変を感じ取った。
「ううん。昨日あんまり手伝えなかったから」
とリンは団子の仕込みを手伝う。
昼前になり、お客が増えだす。
「ありがとう。今日も頑張るね」
と買い物帰りの主婦が笑顔で去っていく。
たった数日の手伝いだけど、それでも顔を知ってもらえた。
いつもの老夫婦が、ゆっくりと団子を食べ終わるとお会計に立ち上がった。にっこりと笑い、去っていく。頻繁な会話があるわけではない。老夫婦は、何かの話題が楽しくて一緒にいるんじゃないんだ。その人との空気を、一緒にいる時間を楽しんでいるんだ。一生の付き合いになる関係って、こういう関係なのかな、とリンは、去っていく二人の背中を思った。
手伝いをしていると、もやもやしている気持ちを忘れ時間が過ぎていた。客足もまばらになる。夕日がゆっくりと沈んでいく。今日は日曜日なので、学校帰りの学生客はない。
ヒサさんは、常連の主婦との会話を終え暖簾をしまう。
少し心配そうな顔でリンに言う。
「リンちゃん、昨日ススキの丘のほう行ってたやろ?大丈夫やったか?変な人見たりしてへんか?」「う、うん。何かあったの?」
「いやな、さっきの奥さんが言ってたんやけど。昨日の夜ススキの丘近くで不審者情報があったんやと」
「ど、どんな?」
「何をしたってわけではないんやけどもな、フード被って、ふらついたように歩いてたみたいや。夜はあん
ま出歩かん方がええで」
「う、うん。ありがとう」
リンは、片付けを終え、部屋へと戻った。
日記のコピーを取り出す。やっぱり、昨日と今日の日記が抜けているのに違和感を覚える。
「ようこ。いるんでしょ。昨日と今日の日記が抜けてる。何かしたでしょう」
『リン。あなたにまで危険が及ぶ可能性がある。やめなさい』
リンは、傘を持った。かずまは、もう学校へ行ってしまっているのだろうか。削られた日記。ようこの様子だと、今日、学校で何かが起きる。
『リン!』
リンは、イヤリングを取り机に置くと、そーっと部屋を出た。ヒサさんにばれないように家を出る。
傘を差すと、透明化し、浮遊する。星がちらちらと空にあった。
夜に落ちた学校は、いつにも増して不気味であった。
かずまは、どこに。屋上にはいない。リンは、前にかずまが出入りしていた一階の窓へ向かった。窓が、少し開いている。もう来ている?今まさに階段をのぼり屋上へ向かっているかも。わからない。沈黙する学校を見上げる。
猫の声が、校内に響いた。
何か、中で物音がする。
胸騒ぎが押し寄せる。
かずまが中にいたら、今にもあのフードの男に襲われていたら。誰か呼ぶ?間に合わないかもしれない。イヤリングを外さなければよかった。ようこ。ようこならどうする。再び猫の声。少し唸ったような。聞き覚えがある。懐いてくれていた、あの黒猫の鳴き声に似ている。そうだ、黒猫が何か、帚かなにかを倒しただけかもしれない。浮遊して屋上へ向かおうか。いや、とリンは辺りを見渡す。静かだけど、学校のそばにフードの男がいたら。ようこは、あの男がそんな広範囲の魔力感知はできないと言っていたけど、実際はどうなんだろう。今は、魔法を使わない方がいいか。リンは、折りたたみ傘についた紐の輪っかををしっかりと腕に入れ、大きく息をはくと、窓から校内へと入っていく。猫がいるだけだ。あの黒猫が、校内に忍び込んだだけだ。そう言い聞かせて。
月明かりが微かに廊下に入っている。かかとからついて、つま先へ。どれだけ静かに歩こうとしても、足音が漏れ出るようにする。心臓の音がうるさい。ピリピリと空気が痛い。今にも走り出したい衝動を抑える。大丈夫。ゆっくり、屋上へ向かおう。
下駄箱の並ぶ玄関に差し掛かった。びくりと、リンは体を仰け反った。全身が総毛立つ。なんで。嘘。怖い。立ちすくんでしまう。廊下の奥。大柄な男の影があった。暗闇の中で、何かを探すように俯き気味であった。はっとリンを見つけると、向かって走り出す。昨日の夜、ススキの丘のところにいたフードの男。目は血走り、口角が凶暴に上がり、獲物を追うようにリンに向かってくる。全身が硬直する。動かない。怖い。どうしようもなく、怖い。涙がとめどなく溢れる。怖い。怖い。怖い。
「リン!」
背後から、声がした。
リンは、なんとか「か、、かずま!」と声を振り絞ると、ようやく足を動かす。震えながらも、かずまのほうへと走っていく。二人は走った。階段を駆け上がる。男が追ってくる。かずまが、階段の上にあった机を落とす。男は姿勢を崩し、なんとか避ける。そのうちに二人は、屋上まで逃げ込んだ。
金網に囲まれた、屋上。
扉が、どんとひらいた。
フードの男が、のしりと歩いてくる。
逃げ場はない。いや。
かずまの手が、温かかった。微かに震えている。そうだよね。怖いよね。でも、強く、私の手を握ってくれている。
「ごめんね、かずま」
「な、なにが?」
「昨日、嫌な態度をとっちゃって」
「そうだっけ?」
「うん。あと、ありがとう」
「え?」
「昨日も、今日も、助けてくれて」
とリンは、空を見上げる。
星が綺麗で。月が綺麗で。
今度は、私が、助ける番。
「行くよ!」
とリンは、傘をばさりと広げる。
フードの男が、走ってくる。
来る。だけど、集中して。
ふわりと、浮く。浮ける。大丈夫。
どこまでも続く、空へ。
がくりと、かずまが重い。
落ち着け。大丈夫。私は、飛べる。
「う、うわあ」
かずまがぶわりと浮く。
襲い来る男の手をかいくぐり、なんとか夜の空へと飛ぶ。
かずまは、ぎゅっと手を強く握っている。ない足下を歩くように動かしている。
リンは、不安定ながらも、かずまと飛んだ。
どこまでも大きな空の下、小さくて、大きな町を見た。ヒサさんが、たまちゃんが、みさきちゃんが、みんなが、住んでいる町。何してるだろう。ご飯食べ終わったかな。
かずまは、少し慣れてきたのか、リンを見た。
リンは、にこりと笑った。
かずまは、
「ふふふ、うううう、ふわはははははは、なに、これ!はははははっは」
と大声で笑った。
「馬鹿、声を落として。バレたら大変なんだから!」
透明化していない。ようこにどやされる。いや、かずまの前で空を飛んだ。かずまと、空を飛んだ。もうどやされるどころではない。まあ、いっか。いや、ダメか。
「ほら、あれ」
とかずまが指を指す。
田んぼが見渡せる、町の端にある家。
「あれが、何?」
「僕んち」
「どうでもいいよ!」
「そうだね、ふふふ、ははっは」
なにが面白いのか、かずまは笑った。リンもなぜか釣られて、笑った。本当に、何がおもしろいんだろう。でも、おかしさが無性にリンにこみ上げてくるのであった。
人のいない森のそばに降り立つ。
「リン!君って」
かずまのことばを遮るように、リンは言う。
「絶対人に言わないで。絶対よ」
うんうん、と何度もかずまは頷く。
ヒサさんにいないのがばれたら、心配するかもしれない。早く帰らないと。
「もう、行くね」
「ま、待って。また、会えたら」
「でも、私は、もう魔法を使わない」
「魔法なんて、どうでもいい。君と、また、会いたいんだ」
「学校で、ね」
「夜の屋上?」
「怖いからいや。明日、普通に、会おう。同じ学校なんだから。じゃあね」
「うん、また、明日」
リンは、それこそ天にものぼる気持ちで、家へ帰った。さっきまであれだけ怖い体験をしたのに、この高揚感には勝てなかった。なんとかヒサさんの目を搔い潜り、部屋に戻る。
机に置いたイヤリングを見て、どきりとする。怒ってるかな。怒ってるだろうな。イヤリングをつけ、恐る恐る言う。
「よ、ようこ?」
『帰ったのね』
とようこは、息をついた。
「怒ってる?」
『無事で良かったわ』
リンも、息をついた。
かずまの話をうまく避けながら、リンは学校での出来事を話した。
『とにかく、無事で良かったわ』
とようこは再び言った。
「もう、むちゃはしないよ」
とようやく、学校での恐怖をリンは思い出した。とにかくあいつに会わないように、魔法を使わず、もとの世界に戻る日までは静かに暮らそう。でも、あいつを地球に放置していいのだろうか。あいつは、魔法を感知することができて。でも、私が何かできるわけでもないし。少しのジレンマを感じながら、リンは訊ねる。
「もうすぐだよね、そっちに戻るの」
『3日後ね』
寂しさが、リンの胸を突刺した。
たまちゃん、みさきちゃん、ヒサさん、そして、かずま。
その日、リンは、しくしくと泣きながら、いつのまにか眠りについていた。




