リンちゃん、異世界へ胸が高鳴る。
国立魔法高等学校。優秀な学生が全国より集まり、日々研鑽を積む。
昼休みの教室で、小山内リンは机に伏していた。
じとりと、額から汗が涌き出ている。蝉が、外で五月蝿い。
リンは、悶々としていた。
自分は普通じゃないと思っていた。だけど、ここに来て痛いほどわかった。自分は、どうしようもなく普通の女子高生なんだ。魔法も、勉強も、特筆すべき点はない。上には上がいる。私が、私を平凡だと理解したその瞬間から、世界も、毎日も、平凡な普通に変わってしまった。このまま、人生はあと何十年も続いていく。大人たちは、それをよしとしてこの退屈な日々を過ごしているのか。それが、リンには信じられなかった。そして、そんな大人たちに軽蔑の気持ちを持った。でも、私もそんな大人たちと同じ平凡なんだ。そんな自己嫌悪のなか、また平凡に来る朝に、心が暗澹となるのであった。
「何か、楽しいこと、ないかな」
リンのぽつりとこぼしたことばに、隣で何やら古びた冊子を読んでいたメガネの女子生徒、浦ようこが言う。
「受け身なことばね。嫌いだわ」
リンは目を細め、しかし言い返すこともできず、ただ黙った。
ようことリンは、中学のとき塾が同じだった。といっても、塾で時折テストの点数のことをしゃべる程度で、遊びにいくような仲ではなかった。高校入学で再会した。寮の部屋が同じで、しかも二人は郊外から出てきていたので知り合いがおらず、自然と行動をともにするようになった。ようこは、魔法も勉強も全国トップクラスのこの高校にあっても、その両方で上位の存在であった。しかし、リンは知っていた。ようこは、そんなレベルではない。一緒にいてわかる。読んでいる本、時折会話で示すその知識とひらめき、必死にもとれる探究心。むしろ、自分の力を隠している。明らかに、他の生徒とは、いや、教師を含めても、一線を画した存在であった。ようこの特別な、自分の持っていない雰囲気に、リンは惹かれた。一方で、そんなようこのせいで、自分はなによりも平凡だと嫌悪するのであった。だが、ようこに惹かれたのはそれだけではない。なにより、リンのかまってちゃんな性格に、ぴしゃりと歯に衣着せぬものいいが返ってくるので、それが心地良かったのである。まあ、そのようこの物言いは、しかし時々リンの心を刺したりもしていたのだが。
「彼氏でも作れば。顔は悪くない」
ようこのことばにお世辞はない。褒めるときもある。
「彼氏か。うーん」
とリンはただ机に寝そべるのみであった。彼氏のいる青春を望んでいないわけではない。ただ、漠然と、リンはもやもやしているのだ。全く受動的に彼氏ができればそれは嬉しいが、能動的に欲しいほどのものでもなかった。
「夏休みは帰るの?」
リンが問うた。明後日から夏休みである。ぎりぎりになっても授業をしているこの学校は、本当にリンには肌が合わないなとも思う。
「残るよ。リンは?」
「うーん」
とリンは悩んでいた。親はどっちでもいいよと言っていた。休み期間中も学校は開放されていた。勉強のためである。一年生対象の受験特別クラスもいくつか開講されていたが、まだまだ先の受験対策など、そんなものリンが受けるはずもなく。地元の友達にも会いたいけど、みんな、私のこと優秀だと思っている。こっちではただの凡の凡、いや、下から数えた方が早いぐらいだ。なんだか、家族にも友達にも、会うのが辛い。ようこと家族の話はしたことがなかった。中学のとき、ようこの塾の送り迎えはいつもおじいちゃんだった。それに、一時期噂が流れた。ようこに両親はいない、って。リンは、それを聞いた時、ようこをうらやましく思ってしまったのである。どこまでも特別な感じがしたからだ。それも一時期の話で、今はさすがにそんなことは思ってはいない。ただ、ようこに家族のことは触れない方がいいな、という、空気の読めないリンなりの拝領はあった。リンは、ふとようこの読んでいる冊子が気になった。いつも読んでいる分厚い学術書ではない。
「何読んでんの?」
ようこはリンの問いに答えず、冊子を閉じ、立ちあがった。リンは、さらに問う。
「次、何だっけ?」
「魔法学よ。移動教室」
「やばっ」
とリンも立ち上がった。
その日の夜。寮にて。
ようこは風呂にいっており、寮の部屋にはリンが一人いた。
ふと、ようこの、部屋の隅に置かれた小さな本棚が気になった。今日読んでいた古びた冊子はどこだろう。明らかに、今まで読んでいたタイプの本ではない。リンは、ちらりと扉を見て、ようこが戻ってこないことを確認すると、本棚のほうへ向かう。難しそうな本が並んでいる。小説が一冊もないのが、ようこっぽい。なおさら、あの古びた冊子が何なのかが気になる。しかしここにはないなとようこの机へ向かう。専門書がいくつかと、辞書、少し大きめのノートが一つ、机の上にあった。意外と雑なところがあって、ボールペンとかも乱雑に置かれている。ノートをぱらぱらと捲る。授業の範囲を超えている。ちんぷんかんぷんな数式やら記号やらが書かれている。冊子はない。どこだ。鞄を漁るか。いや、さすがにそこまでは。うーん。と悩んでいると、部屋の扉が開いた。
「悪趣味ね、リン」
髪の毛のまだ濡れたようこがそこに立っていた。ボタンも中途半端で、ブラジャーが見えている。
「あ、いやあ、その」
とリンはようこの机の前で立ち尽くす。ようこのノートは、リンによって開いたままであった。「ごめん!なんか今日変な冊子読んでたじゃん!あれが気になって。でも、鞄とか引き出しは漁ってないよ!ほんと!」
と言い訳がましいリンをようこは呆れたように見て、言う。
「鞄に入ってるわよ。別に隠してるわけじゃない」
ようこは、鞄から古びた冊子を取り出した。
「あんたでも読める平易な文よ」
とナチュラルに見下げるようこだが、リンはもう慣れっこであった。
「どんな内容なの?」
「『地球』って知ってる?」
ようこの問いに、リンは少し戸惑った。いつものようこなら、めんどくさそうに、読んで確認すれば、と言っていただろう。
「いや、知らない」
「地球は、遥か昔には交流があった別の世界よ。その冊子は、比較的最近書かれた地球に住むものの日記。地球での生活が書かれている」
「異世界ものじゃん!私大好きだよ、絶対!」
異世界転生。主人公が違う世界になんやかんやと移動し、そこで全く違う人生を歩むという、最近の漫画やアニメの流行である。リンはそれが大好きで、いつもこことは違う世界に夢を馳せるのであった。
「生活が書かれてるっていっても、日記主ベースだからわからないことだらけよ。それに、これは本物の日記。小説じゃないわ」
「ほ、本物?別世界に行くのって、禁止されてるんじゃ」
「そうね。そもそも、別世界への移動魔法は、戦争による破壊でその術式の解明ができなくなった。いくつかあるロストマジックの一つだと言われてる。でも、この日記の主は、確かに地球にいた。実際の小説やアニメみたいないいものではないでしょうけどね」
リンに、高揚感が沸き上がる。なんだ、何か、不思議なことがそこにある。
「すごいじゃん!何その日記!なんでそんなもの持ってるの!?」
「それはまあいいでしょ」
また何か隠しているが、ようこは問いただして吐くような人ではない。言わないと決めたら言わない人だ。しかし、ようこが異世界もののようなファンタジーに興味があるとは。
「異世界もの、私大好きだよ!」
「知ってるし、二回目も言わなくていいわ」
「ようこも見るの?異世界もの」
「少しはね。『異世界見聞録』はよくできていたわ。架空の世界の生活様式や食事、言語、つまり一つの文化を作り上げ、それぞれの文化に個性はあっても、優劣はない、と比較文化論的な答えに物語をまとめあげていたわね。しかも説教臭さがなく、シナリオの無理がなかった」
「あれ、あんまり売れなかったやつじゃん。1話で切った」
「馬鹿の流行はわからないわ」
「うっ。でも、不思議な日記だね。現代でも、異世界に行った人がいるんだ。私も誰かに連れてってもらいた
いものだね、異世界に」
「本当?」
ようこの鋭い問いに、リンはまたしても違和感を覚えた。リンの軽く言ったことばが、ようこの何を突き動かし、語調を鋭くさせたのか。
「まあ、うん。なんか、別の世界に行けたら楽しそうだし」
「本当に?」
とようこはずいとリンに近づいてくる。
珍しくも、ようこがわかりやすく熱い感情を発している。
若干引きながらも、リンは思案する。異世界に行けたら。流行の異世界ものを思い出す。そこでは私は、すごく特別で、超優秀で、それこそ素晴らしい人生が待っているのだ。私は、異世界ものが大好きだ!ようこの熱に負けてはいけない。
「うん!行けるのなら、行ってみたい!」
ようこが、さらにずいと踏み出し、リンの肩に手を置く。
「本当に?」
一度はようこの熱に対抗しようとしたリンであったが、土台相手が悪かった。やはり若干引き気味になりながらも、しかし前言撤回するのもあれだしなと、
「う、うん。本当」
と返した。
ふしゅうと鼻から息を吐き、ようこは言う。
「明日、行くわよ」
「へ?」
「明日、学校が終り次第、決行よ」
「は?」
リンにも、とてつもない高揚感はあった。しかし、反面、開けてはならない何かを開けてしまったような、とてつもない不安もまた、リンにのしかかったのである。これ、乗ってしまっていいのだろうか。だが、珍しくも目を爛々と輝かせるようこに、リンの不安は吹き飛んだ。ようこがいるなら、大丈夫だろう、と。退屈で平凡な日常。私は、特別じゃない。でも、今、特別なことが、起きようとしている。そんな予感にリンは胸を膨らませ、その日はほとんど眠れなかったのである。




