その3。
これまでも僕は、休憩時間に先輩や同僚からいろいろな話を聞いてきた。
入社間もない頃に聞いた申込受付のW先輩の話は参考になったので今でも覚えている。
結婚詐欺にあった男性からの申込の話だ。
「犯罪被害者の記憶って、被害者本人が辛いからといって、全部が全部、消していいものじゃないんだよね」
と、W先輩は言った。
「結婚詐欺にあったある男性がね、詐欺にあったことを思い出すだけで辛いし、女性不信になりかけているので、特別コースで忘却したいと言ってきたんだけど、門前払にしたんだ。なぜだかわかる?」
「いえ」
「まず、特定の人物を忘れるためには、その人の名前や写真が必要なんだけど、詐欺師は偽名を使うのが常套手段で、自分の写真を残さない」
僕は頷いた。
「でも、それだけじゃない。写真があったとしても、施術はできない。忘却してしまうと再び同じ相手に騙されてしまう危険があるからだ。いくら記憶を消しても、詐欺にあう人間の本質は変わらない。一度詐欺にあった人は何度でも騙される可能性が高いから、防犯の意味でも記憶を消しちゃいけないんだ」
「なるほど」
「問題はまだある。詐欺によって失った金銭に関する矛盾が生じるってことだ。その案件の男性は、警察に被害届を出していないし、親や知人に結婚詐欺にあったことを伝えていなかった。結婚詐欺に限らず詐欺被害にあった人間は、誰にも相談しないことが多いんだ。そうなると、失った金銭に関してつじつまを合わせることが困難となるから、結局、記憶の消去はできない、門前払いしするしかないんだよ」
W先輩の話に納得した僕は、それに倣って、詐欺被害の特別コースの申込は、特別な例を除いては門前払いにすることにした。
先輩は更に言った。
「詐欺被害を忘れたい、というのは、どっちかっていうと、詐欺にあった自分を恥じて忘れたいっていう本人の自尊心の問題のが多いから、さほど気にならない。辛いのは、本当に忘れさせてあげたいことを門前払いにすることだ」
その時はよくわからなかったが、今では少しわかる。時々そういった申込に遭遇するからだ。
親の虐待などがそうだ。
親から虐待を受けて育ち、それがずっと心の傷となり残っている人がいた。自分もまた子供を虐待してしまうのではないかと、家族を持つことを恐れていた。
僕は、その親の存在を全て忘れさせてあげたかった。でも技術的に不可能だ。その人は、心の傷を抱えたままずっと生きなければならない。かわいそうだが僕にできることは何もない。
この会社の忘却システムが生まれていない頃には、皆、自分で耐えて生きてきたのだから仕方がない、と割り切るしかないのだ。