第七章 天使の護るもの(中編)
ウィルは振り返って絶句した。
美鈴の綺麗な羽が一枚を残して全て折れている。
それどころか命に関わる傷を負っているように見えた。
美鈴の予想外の行動に、ウィルは言葉を失う。
だが、表情はいつもの余裕のあるものだった。それがウィルの心を揺さぶり、呪文を唱える妨げとなった。
「美鈴……」
「あの人を守るのはあたしの神聖な行為なの。あとは任せなさい」
そのとき、ウィルの刻印は再び五芒星に戻っていく。
そして、ウィルの横に立った美鈴は、聞き取れないほどのスピードで空間に干渉する隔絶、分離、飛散の呪文の平行詠唱を行った。その速度と効果はウィルをしのいでいたかもしれない。それは美鈴がその系統を得意にしていたことと、今それが幸太を護るために必要であると確信して、全てを賭けているからだ。間違いなく、その行為は美鈴の命と魔力を削り取っている。
そして、それらをまとめて実体化を試みる天使にぶつけようとした。
ウィルはそれをサポートすることに集中した。それが指数関数的な相乗効果を生む。
「あたしの意志に従う隠れた変数に命ずる。この空間をデュラックの果てに飛ばせ。そして、世界をあるべき姿に戻すことを願う」
それは偶然だったかもしれない。
同じ意思を持ち、同じ方法で大天使を飛ばそうとした。
ウィルが始めて美鈴が実行した。
世界の全てが真っ白で覆い尽くされた後、それが一〇メートルほどの空間に集中していく。ふたりの膨大な魔力の全てが、攻撃ではなく空間転移のために集中した。
不安定になった空間は、根こそぎ切り取られて、この世界の外に飛ばされた。
半径十メートルほどのその場所は、全てが失われた。空気もだ。
猛烈な勢いで、風が大天使がさっきまでいた場所に吹き込んでいく。ウィルは必死にその風に抵抗していると、美鈴がウィルを抱き上げた。
磨き上げたかのような球形の空間がそこに出来上がっていた。
思い出したかのように、一部を切り取られたベンチと、軸の一部を失った照明が地面に崩れ落ちる。
そしてウィルの世界が揺れた。
ウィルが振り返ると、自分を抱いていた美鈴が崩れ落ちている。
「美鈴っ!」
ウィルが美鈴の側によると、美鈴はふらつきながらも、身体を起こした。
「あたしは大丈夫。如月は私の制約魔法で一時的に移動できなくなっている。あんたの派手な魔法で、別な天使が来ることがわかったから、防ぐために来たのよ。あの人を護るためには必要だと信じたの。まさかあの大天使だとは思わなかったけど」
「そうか」
美鈴はウィルをじっと見つめて聞いてきた。
「あんたこそ、あんな魔法を使って大丈夫? あたしでも手に余るような魔王レベルの極大呪文を連発したでしょ? それどころか、最期にとびきり強烈なのを使ったよね。あんたが唱えたから、あたしは一番大変な部分を唱えていないんだけど――」
「あの程度、ウィルバーフォースの力の一端に過ぎぬ」
ウィルはそう言い放った後、美鈴を見返して続けた。
「ウィルバーフォースは主に命じられぬ限り感謝などしない。だから、お前の行為を忘れないことを宣言しておく」
ウィルの言葉に美鈴は薄く微笑んだ。
「ウィルバーフォースらしい言葉ね。そういうの好きだよ。だけど、あたしはあの人のことしか考えていないの。だからそれでいいわ」
そして、ウィルに背を向けると続けた。
「まだあたしがすべきことは終わっていない。あの熾天使を防ぐのはあたしの役割」
「そうであったな――」
美鈴はウィルの言葉を待たずに、再び消えた。
ウィルが幸太の元に戻ったとき、最終フェーズが完了しつつあった。
そして、全ての記録が整合的に連携していく。
だが、ウィルにとって予想外の事象が始まっていた。
世界を覆い尽くす力が突然現れる。それはあり得ないほどの量だ。その量は四大天使を全て合計したよりも大きいほどだ。
「何が起きている? この力は何だ?」
床に不思議な模様が現れつつあった。
それが徐々に拡大してあっという間に世界に広がり見えなくなる。
ウィルはその模様が何であるか一瞬で把握した。
七芒星。
これは太古の制約の発動だ。
ウィルのアカシックレコードの再構築は無効化された。世界の全てが上書きされる。
そして瑠璃が復活することが決定づけられたのがわかった。
ただ、それはおそらく以前と違う姿で。
そして古い世界が滅びていく。
やがて幸太を覆う光が消える。
そして、そこに当たり前のような現実が現れた。
高柳幸太。そして、そこに寄り添う来生瑠璃。
ウィルは一瞬で空間走査をして確認した。二人とも既に固定化されている。
これを否定するのは世界の否定に等しい。
つまり、二人の存在はもはや天使にとっての既定事実と化している。
だからウィルは愉快そうな顔をして呟くことにした。
「世界というものは――もっと劇的に崩壊するものだと考えていたのだが」
ウィルの言葉でやっと幸太の記憶がつながったようだ。
「ウィル。お前は瑠璃を復活させようとしたのか?」
「ふん。それは私が必要だからしただけだ。それに、まだ終わってないと思うが?」
「終わってない?」
「如月の記憶は、瑠璃の復活に伴って復元している筈だ」
「え? そうなのか?」
「少しは考えてみるがいい。お前の記憶が回復したのに、如月がそうならないわけがないだろう? 気付かなかったのか?」
幸太はその言葉の意味を理解して愕然としたようだ。だが、幸太の右に立った瑠璃が微笑んでいた。
「ウィリアム・ウィルバーフォース。幸太が心配する必要なんて全然ないよ」
ウィルは瑠璃の言葉に薄く笑った。
「そうだな。確かに如月の最も恐るべき御技はもはや使えぬであろう――」
ウィルの頭をコツンと軽く叩いてから、瑠璃は幸太を見上げた。
「違うよ。ボクは、もう何も怖くないんだ。だって、ボクは幸太の右にいて、いつも赦して赦されていられるんだから」
瑠璃の言葉にウィルは気がついた。
「そうか。あの言葉で世界が変わったのは――。太古の誓約とは、その関係が生まれることを意図してのことか……」
ウィルは知っている。たぶんそれは史上最高の魔法使いの最後の願いだ。
そして、心の中で呟いた。
――それは、我と同じことを繰り返さぬためだな。
だからウィルは複雑な表情で幸太と瑠璃を見つめるしか無かった。
――やっと貴様の願いが叶ったのか。我には出来なかったことが。
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ほぼ同時進行で、「猫耳娘が大切にする宝物と、 狼少女の優しい嘘」も投稿しています。もしよろしければそちらもご覧いただければ幸いです。