第六章 ウィルバーフォースの守るもの
「如月に対抗するためには、まず身を賭して戦う手駒が必要であろう」
ウィルが如月と戦う必要はない。そんな行動に意味はない。
だが、如月の行動を自由にさせてはならない。そんなことになれば瑠璃を復活させることなど出来るはずがない。
「最も適切なのは、人間の魔法使いであろうな」
人間の魔法使いには、ウィルと同様に制約がほとんどない。最高位の魔法使いであれば、天使や悪魔を制約するための魔法をウィルが指し示すことも可能だろう。その種の禁呪は、事実上人間以外は利用できない。
「例えばエドワーズウォーカー家の――」
ウィルはそう呟いた後、頸を振った。
「埒もないことを。人間の魔法使いなど、もはや期待すべくもない。なれば、力で押さえ込むほかはない」
それも天使に対抗できるほどの力があるものが必要だ。
それほどの力を持つものがいるとしたら、須藤美鈴以外にいないのは明らかだ。
「だが、この世界で、須藤美鈴がまだ存在していることがあり得るだろうか?」
瑠璃がいない世界で、美鈴がこの世界にとどまっている可能性は高くない。
幸太が接近することを禁じた状態が継続しているとしたら、元々の世界に戻っていると考えるのが自然というものだ。
ウィルはそう考えたものの、情報入手の手段としても、美鈴の住居に行くことに意味があると判断した。
美鈴の住居は、簡単に知れた。学校からほど近い一軒家であることは、特に隠されていなかったからだ。
「む、さすがに玄関からは入れないかもしれぬ」
ウィルが玄関から庭に向かおうとすると、美鈴が待ち構えるようにそこに立っていた。
「なんでこんな場所にあのウィルバーフォース家のものがいるわけ?」
美鈴の言葉にウィルはじろりと見上げた。
「ほう。そうきたか。まあ無理もあるまい。とにかくお前がここにいるとはありがたい」
「どう言う意味よ?」
「調べてもらいたいことがあってやってきた。この話はそちらにとっても悪い話ではないはずだ。私はウィリアム・ウィルバーフォースだ」
「ちょっと待ちなさい。あんたは誰の使いでやってきたの? それを聞かなきゃ協力なんてできないわ。ウィルバーフォースが自分の意思で動くなんてありえないでしょ?」
ウィルは美鈴の言葉を吐き捨てるように一喝した。
「くだらん。そんな話をしているときではないのだ。だが、須藤美鈴にとって不利益になる取引でないことと、私が仕える相手を説明したところで結論が変わらないこと、そして、全てが終わったときに理解できることを誓ってやる。それでいいだろう?」
ウィルの言葉に美鈴は困惑したようだった。
「ウィルバーフォースの名前を持つものが、そんな誓いをするとは思わなかったわ」
「御託はいい」
須藤美鈴の言葉にウィルはぶっきらぼうに言い放つと、首輪につけられたポーチから紙を出して渡した。
「この紋章が存在するとして、その解除要件が分かるかね?」
「ちょっと見せてもらえる?」
そう言った後、それを見た美鈴はぎょっとしたようにウィルに向き直った。
「これって何? まさかあんたが考えたわけじゃないでしょう?」
「ある事情で至急調査が必要なのだ」
「なるほど。これは、あんたの仕える人に対するものだからちょっぴり違うわけね」
「どういう意味だ?」
聞き返すウィルに美鈴はにこりともしなかった。そして自分のスカートをめくるとウィルを手招きをした。ウィルはそっぽを向いて宣言した。
「なんだ? 私にそんな趣味はないぞ。そういう目的なら他を当たってくれ」
この言葉に美鈴は憮然とした顔を見せた。
「あんた何を考えてるのよ? いいから、これを見なさい」
美鈴は、ウィルの首を掴むと、太もものあたりに顔を押し付けた。最初はウィルは迷惑な顔をして抗議を示したが、美鈴の足に付けられた模様を見て愕然とする。
「これは!」
「そう。似た紋章でしょ? 不思議なのよ。これ、いつからあるか覚えていないの」
ウィルは美鈴をじっと見つめて考えた。
美鈴はおそらく幸太と口付けを交わした。それがあのとき瑠璃と美鈴を戦わせた理由だろう。
――全く面倒なことをしてくれるものだ。だが、使えるかもしれぬ。
ウィルは美鈴の瞳を見つめて聞いてみた。
「一点尋ねるが、時折自分の身体が何かを求めて熱くなったりしないかね?」
「ど、どういう意味よ?」
美鈴は真っ赤な顔で聞いてきた。その反応で、ウィルはそうであると理解する。
おそらく、美鈴は瑠璃の記憶が欠落した結果、それに紐付くすべてに影響し、幸太に関連した記憶も、検索するためのインデックスが作成されていないんだろう。
だから、美鈴は、自分の肉体が何を求めて燃え上がっているかわからないに違いない。
さぞ混乱していることだろう。
「そうであるなら、それが何を求めてのものであるか分かるぞ」
「どうして、あんたがそんなことを知っているの? あなたの主から?」
ウィルは薄く笑った後、尻尾を立てて美鈴に宣言した。
「全ては、この紋章について話した後の話だ」
「ちょっと違うけどこの紋章とほぼ同じね。解除条件に関してもあたしと同じだと思うわ」
「そうか。で、解除条件はどうなのだ?」
「期待に添えなくて悪いんだけど、ないのよ」
「ないとはどういうことだ? 刻んだ者もしくは刻まれた者の死を持って解除されるくらいはあるだろう」
「それもないのよ。この制約は死を持って解除されない。それどころか解除されることがあり得ない前提の元で刻まれているのよ」
「何を媒介にすればそんなことが可能なのだ? 紋章を刻んだ者と刻まれた者双方が死んでも有効な契約紋章などあり得るとは思えないが」
「これはたぶん契約紋章じゃないわ。だから解除する方法がないのよ」
「契約じゃない? では何だというのだ?」
それはウィルにとって予想外の言葉だった。
「これは誓い。誓約なのよ」
その言葉にウィルは叫ぶ他なかった。
「ばかなっ! これが誓約だと言うのか? 自覚のないまま誓約をなすだと! だとしたら私がこの紋章を――」
ウィルはそこまで言いかけて、目を閉じた。ある魔法使い(エドワーズウォーカー)の言葉が脳裏をよぎる。
――確かに貴様の言うとおり全ては太古から決められていたのかもしれぬ。
暫くそうした後、ウィルはゆっくりと目を開いた。
「そうであったか。では、それ以外の情報はないと言うことだろう?」
ウィルの態度に美鈴は眉を顰めた。
「ウィリアム・ウィルバーフォース。あんたは何を知っているの?」
ウィルはその質問を無視する。
おそらくこの紋章は前の世界における願望が誓約として具現化したものだ。だとすれば瑠璃だけでなく美鈴もウィルに関係した存在である可能性が高い。だが、そんなことを説明したところで、何の意味もない。ここは新しい世界だからだ。
単なる使い魔とは思えない迫力ある態度でウィルは声を発した。
「美鈴よ。お前が全身を焼かれるような衝動に覆われるのは、ある人間に従うことを心から望んでいるからだ」
「あたしが? あり得ないわ。七二柱の一人であるあたしが人間に従うことを望んでいるって言うの?」
「そんな地位も自負も関係ない。お前はある人間に全てを尽くして隷属することを望んでいるのだ。それが出来ないから身もだえするような焦燥に襲われるのだ」
「隷属ですって? 人間に? ばかばかしい」
「では、試しに言ってみるがいい。『あの人のものになれたらどんなに幸せだろう』と。思い出せずとも、イメージできるはずだ。お前は今は意識していないかもしれないが、その人間の奴隷になることを望んでいるのだ」
ウィルの言葉に美鈴は動揺したようだった。
「いい加減にして。そんなはずがないわ」
「では言ってみよ。自覚できるはずだ」
ウィルは挑発するように言った。それを聞いた美鈴の瞳は残忍な色に変化した。
「それで納得できなかったら、あたしを侮辱したあんたは命を失うことになるわ」
ウィルは薄く笑って即答した。
「いいだろう」
ウィルの言葉に、美鈴は拍子抜けしたようにため息をついた。
「まったく、ウィルバーフォース家のものは一筋縄でいかないわね。納得したかどうかなんて、あたししかわからないのに、よくそんなことに同意するものね」
「理解していないな。その言葉を発することで、お前は甘美な魂の隷属を自覚してしまう。納得などする必要はないのだ。それを覚悟した上で言うがいい」
美鈴はウィルのその言葉を挑発と思った。
「いいわ。『あの人のものになれたら――』」
だが美鈴はそれ以上言えなかったらしい。
美鈴の全身が震えていた。それだけではなかった。両腕で自分の胸を押さえている。
劣情を抑えきれないようだった。ウィルは冷たい瞳で美鈴を見据えていた。
「ダメ。あたしに何が起きているの? 今あたしの脳裏を貫いた人は? あの人は誰?」
美鈴はウィルをにらみつけてきた。
「教えなさい。あの人のことを。知っているんでしょ?」
「あの男の奴隷になりたいだろう?」
ウィルは嘲笑するように言い放った。
その言葉に、美鈴は一瞬だけ躊躇した。だが、小さく首を横に振る。
「そんなことないわ。ただ知りたいだけよ」
「では『あんな男なんてどうでもいい』と言えるかね?」
再びウィルは挑発するように嘯いた。
「そんなこと、言えるはずが……」
即座に言った後、美鈴はその意味に気付いて首を横に振った。
「わかったわ。あたしは欲望に忠実なの。あの人に犯されたくて我慢できないわ。一瞬であたしの身体があの人を求めて潤んでしまったもの。いいえ。あんたの言った通りよ。あの人の奴隷になりたくてたまらない。こんな気持ち初めてよ」
「だからこそ、お前はこの世界にとどまっていたのだろう。無意識かもしれぬがな」
「あの人はどこにいるのよ?」
「それを知らせるには条件がある」
「言いなさい」
美鈴は急いでそう言った。既に自分の欲望を抑えきれないのだろう。今までわからなかった自分の焦燥の理由が明確になった。
美鈴は決壊したダムのように自分の性衝動を押さえきれなくなっているに違いない。
「今、あの男は不幸の最中にいる。それを救いたいのだ。協力してくれ」
「それなら文句なんてあるわけないわ。どうすればいいの?」
「如月彩を知っているな? 如月が自由に動けないように抑えてくれ。半時間程で良い」
「なんで? それは簡単だけど、どういう意味があるの?」
ウィルは難しい顔をして説明した。
「如月彩は熾天使で、御前の七天使のひとりだ」
「まさかっ。あたしが今までそれに気づけなかったっていうの?」
「それには幾つか理由があるのだが後で説明する。とにかく魔法を抑えこむことが必要だ」
「御前の七天使の一人を抑えこむの? それは命がけね。もし戦いになったらどちらかが致命傷になるまで続くわよ。本気でやるの?」
「それは相手次第だ。如月が本気になるのであれば、そうするしかあるまい。だが言っておくぞ。如月はあの男を一度殺している。それを防ぐにはお前が盾になるしかない」
ウィルの言葉に美鈴は蒼白になっていた。美鈴はもはや幸太のことに関して冷静でいられないようだ。
「あの人が? け、怪我をしたって言うこと?」
「殺されたといっただろう。私が見た時は、あの男は心臓を失い、頭部を破壊され――」
ウィルが言いかけると、美鈴が叫んでいた。
「やめてっ! そんなこと想像したくもないっ」
美鈴はそう言って耳を抑えた後、ふと気づいたようにウィルの方を見てきた。
「わかったわ。あんたの主はあの人を助けたのね。ウィリアム・ウィルバーフォース。あんたは、その主が陥っている苦境を助けようとしているんでしょ? だけど、心臓を失って頭部を破壊されたのなら、それを助ける方法なんてないわよ」
ウィルは自分が話しすぎたことを理解した。
「ふん。受け入れがたい事実というものもあるものだな」
「いいわ。あの人を守るためなら喜んで身を投げ出してあげる。そのかわり、それが終わったらあの人に会わせてもらうわよ」
「もちろんだ」
「ふふっ。熾天使ね。それも、御前の七天使なんて、相手にとって不足はないわ。あの人を襲うというなら手加減する理由もないしね。それより、早くあの人に会いたいわ」
「ほお? 勝てるかね?」
「あたしが悪魔として行動するなら、負けるなんてあり得ない。ただ、あの人のことだけが心配よ。だからやり過ぎることが危険なくらい」
――悪魔として行動だと? それはまずいっ!
ウィルは知っている。美鈴が悪魔として行動し全てを賭けて攻撃したら、確実に如月に勝てるに違いない。だが、それはこの世界の崩壊をも意味する。それは直ちに高柳幸太に影響を与えるであろう。それは瑠璃に致命的な変化を与える筈だ。そんなことさせるわけにはいかない。
ウィルは注意深く言い放った。
「くれぐれも自重することだ」
「自重? なぜ?」
「おそらくお前が怪我をすれば、あの男は同じくらい傷つくからだ。それはお前にとっても本意ではあるまい」
それはウィルの一つの賭だ。美鈴がそれに乗ってくるかどうかわからなかった。
だが、ウィルの言葉に美鈴は驚愕し、そして深く頷いた。
「それは――もし本当なのであれば、あたしの全てを賭けるに値する言葉よ。だったら、あたしは悪魔ではなく、自分の意思として戦うわ。そうしなければ、その言葉に応えられないもの」
「悪魔でなく、自分の意思で? それでは――」
ウィルは心の底で冷徹な言葉を紡いでいた。賭に勝った。だが……。
――おそらく、美鈴は助かるまい。すまぬ。瑠璃を助けるためにやむを得ないのだ。だが、先ほどの私の言葉は、むろん嘘ではない。
「今見えたわ。あたしがあの人に会える未来が。そして抱きしめられるの。なんて素敵な未来かしら」
美鈴は未来予知が出来る。だからそれは事実だろう。
ただ、それは間違いなく、美鈴が死ぬときの姿だ。だから、自分が見えていない。周囲の姿しか予知できていないのだ。だからウィルは美鈴に聞こえないよう小さく呟いた。
「我も最期はそのような幸せの中にありたいものだ」
* * *
俺が携帯を手に持ったまま家に向かって歩いていると、何かがが足元にぶつかってきた。パランスを崩しそうになる。
「――おいっ」
地面に目をやると、ぶつかってきたのは黒猫だった。しっぽを踏みそうになるのを避ける。なんとか尻餅をつかずに済んだ。ただ、よろけて転びそうになった拍子に携帯から手を離してしまった。
そして、その携帯のストラップをジャンプした黒猫が器用にキャッチした。
俺が感嘆する前に、その黒猫は、俺の携帯を咥えたまま走り去ろうとする。
「え? ちょっとまてよ!」
慌てて追いかけると、黒猫は俺の数メートル先で振り返った。
俺は一度深呼吸をしてから、黒猫のもとに全力疾走をする。だけど、そのタイミングに合わせて黒猫は移動していき、結局距離が縮まらないまま追いかけ続ける形になった。
暫くそれを続けたあと、ふとばかばかしくなった。
なんで、俺はこんなに必死に猫を追いかけているんだろう?
俺があきらめかけて走る速度を落とすと、何故か黒猫も歩みを緩めてくる。
「何だよ」
俺がそれを見て走ろうとすると、黒猫も全身を使って走りだした。
それはまるで……。
「ついて来いって言ってるのか? そんなはずないよな」
疑いながらも、携帯電話を猫が持っている以上、追うしかなかった。
一〇分ほど追って、全身から汗が吹き出して、諦めたほうがいいかもと思い始めた頃、変化が訪れた。
目の前に高級そうなマンション、それもオートロックのかかった建物があった。
黒猫はロックの掛かったドアの前に立つと、俺の携帯を床においた。そしてドアの横の植え込みから、手馴れたように細い定規のようなものを取り出してくる姿に驚愕した。
「な、何だ、こいつ? このマンションに住んでるのか?」
俺が立ち尽くしている間に、入り口の扉の下の隙間にその定規を器用に通した。
魔法のようにドアが開く。
そして黒猫は再び携帯を咥えて、俺を振り返りまるで手招きするように顔を振った。
「マジで?」
俺はそのとき、強烈な不安が襲ってくるのがわかった。
だけど、好奇心に勝てない。この黒猫は何なんだ?
黒猫を追って歩いて行く。もう走って追いかけるつもりはなくなっていた。
この猫は明らかに俺を誘導している。携帯は目的地に着いたときに返してくれるだろう。
俺を振り返りつつ、黒猫は一階のある部屋の前に立った。表札はない。
猫はドアに手を遣った。
「ドアを開けろって言うのか? くろすけ」
黒猫は不満そうに「にゃあ」と鳴いた。
手を伸ばしてノブをずらすと簡単にドアが開いた。
「鍵かかってないけど、人の部屋に入るわけには――」
そう言いつつ中を覗いてみた。荷物らしきものが一切ない。靴箱も空っぽだ。
空室らしい。不思議と、中に入ることに抵抗がなかった。
入り口のすぐ側のがらんとした空き部屋に黒猫が向かう。
覗くと、そこには備え付けのテーブルしかなかった。
俺がその後をついて行くと、黒猫は黒い羽を咥えていた。
「カラスの羽?」
だけど、それにしては大きすぎる。
「何だっていうんだ? 戦利品の自慢か?」
猫は自分の獲物を人間に自慢すると聞いたことがある。
そして黒猫は俺の携帯電話を床に置いた。
そして、携帯のストラップのプラスチック板にその羽を合わせてきた。
不思議だった。そうなるのが自然な気がした。そして心が何かで震えるのがわかった。
「一体何だ? 何で俺は、こんなに衝撃を受けているんだ?」
俺が硬直していると、今度は黒猫が部屋のどこからか蛍光ペンを咥えて来た。
そして、テーブルの上のノートを器用に開くとペンを振って落とした。そして、ぷいと部屋を出て行く。
部屋に残された裏返されたノート。
「なんだ? なんのノート?」
開いてみると、不自然に歯抜けになった女の子の文字が並んでいる。
その文字は見た覚えがある。暫く考えて思い出した。クラスメートの如月彩の文字だ。日誌で何度か見たことがある。クラスメート一の達筆だから覚えていたんだ。
どうやら、それは料理のレシピを記載したノートらしい。
そこには所々如月のかき込んだアドバイスがあった。
だけど、そのアドバイスの元の文章がない。変だ。
それはまるで、見えない何かに対して補足事項を書いたようだった。
そして、最後近くのページに言葉が残されている。それは明らかに俺の文字だ。
「いつも俺のことを考えてくれて有り難う。絶対に俺は□□のことを忘れないよ」
空白には鮮やかな蛍光色が塗られていた。傍らには蛍光ペンが落ちている。
さっきの黒猫が塗ったんだろうか。
「俺ってこんな言葉書いたっけ? それに誰に向けた言葉だよ? きざっぽいなぁ……」
塗られた色を見つめる。
「マーカーは綺麗な青――いや、これは瑠璃色だな」
その瞬間、俺の脳裏にある女の子の姿が過ぎった。
「え?」
慌ててノートの表紙を見る。
『□□の必殺レシピ』と如月の文字で書かれていた。
「俺は今なんて言った? どんな名前を呼んだ? どうして思い出せないんだ?」
そして、女の子のことをほんのわずか思い出す。それは数瞬だけだ。
だけど、それで十分だった。
「俺は、何であの子のことを?」
必死に思いだそうとする。だが、自分に残された記憶はほんの一部だけだ。
「俺は心を込めて祈った。そして何かを願ったはずだ」
自然に涙があふれていく。
「あの女の子は、俺のために必死になってくれた」
俺にとって、まるで天使のような存在だった。
「なんで名前が思い出せないんだ。あんなに大切な女の子を――」
背後に気配を感じた。
俺が振り返ると、黒猫は小さな声で何かを呟いていた。
そして、不意に世界が真っ白に変わる。
その瞬間、俺の周囲を眩しい光が覆っていた。何が起きたのかわからない。
そして俺の前に、あの少女の姿が現れていた。
俺と少女の周囲を光が覆っている。そして、俺はやっと思い出した。
「そうだ。瑠璃だ。俺は瑠璃に謝りたかったんだ」
瑠璃がゆっくり瞳を開いた。
* * *
ウィルはその光の塊を凝視しながら呟くようにいった。
「失われた記憶は本人が自ら取り戻す必要がある。それが世界に不整合を認知させるのだ。そして、世界自身が修復の是非を判断するだろう」
そして、ウィルは世界が作り出した瑠璃の幻影を睨んだ。
現在と異なる唯一の存在が瑠璃である以上、世界がその改変の是非を決定するために、瑠璃を顕在化させるのは当然だ。
それはまさに新しい世界の創世と言っていい。この禁呪は術者の意思に基づく世界の改変を許さない。その改変は世界そのものの意思となる。だからこそ世界の理を変更できる。
「それがこの魔法、アカシックレコードの再構築だ」
なぜ改変しなければならないか、世界に納得させるのは、幸太にしか出来まい。
だが、その膨大なエントロピーの増大は、直ちに如月に知られることになるだろう。
「世界の再構築は禁忌だ。全ての天使はそれを排除しようとするだろう。この一五分間は全てを賭けても確保しなければならない時間なのだ。そして、これに失敗すれば二度と世界を修復する機会はない。それは熾天使なら知っている筈だ」
だからこそ、全てを賭けてこの時間を守護する者を確保した。
「如月は甘くない。いまこの世界で如月に対抗できるとしたら美鈴か、もしくは――」
ウィルは美鈴の言葉を思い出した。
「あの者は自分の意思として戦うと言った。それは正しい。おそらく悪魔として戦ったなら、召喚を行うだろう。美鈴は七二柱の二柱を部下として召喚できる。如月一人では相手にならないであろう。だが軍団全てが現世に召喚されたなら、如月だけでなくこの世界の大半をも滅ぼしてしまうに違いない」
その場合、瑠璃が復活したとしても高柳幸太の心が持たない。精神を病んだ幸太は、結局瑠璃をも滅ぼすだろう。
だが、美鈴一人で戦うとしたら、それは両腕を縛られたまま戦うようなものだ。
単に魔力を比較するならいざ知らず、純粋な戦闘を考えたなら美鈴の分が悪い。如月は破壊と死を主な属性にしているからだ。
それでも美鈴は、自分の全てを賭けると言った。
「我も、瑠璃のために全てを賭けるとしよう」
* * *
如月彩は教室ですぐにその波動に気付いた。
「これは――。いったい誰が?」
禁呪の中の禁呪。既に失われて久しい魔法だと聞く。
もはや御前の七天使ですらこの魔法を使えない。
「伝説のアカシックレコードの再構築を使えるものが?」
心当たりがない。悪魔でも存在するとは思えなかった。そもそも何のためにそんな魔法を使うのか理由がない。戦時ならいざ知らず、この平安な世界、しかも現世で唱える必然性がない。
「いずれにしても、この一五分で制圧する必要があるようね」
如月が校舎を出ようとしたとき、突然、魔法結界が周囲に張られたのに気付いた。
それは如月を制約すると言うより、現世に影響を与えないためのものに見える。
「ふふ。来たわね」
如月が薄く笑いながら振り返ると、そこに美鈴が立ちはだかっていた。
「待ちなさい。あんたを行かせないわ」
如月はその言葉に意外そうに聞き返した。
「へぇ、あなたが私を止めるわけ? 理由は?」
「それをあたし自身も知りたいのよね」
「私が御前の七天使だと知っていて、あなたが襲う訳?」
その言葉に、美鈴は目を細めて聞き返した。
「あたしがあんたに劣るとでも?」
美鈴の言葉に、如月は警戒するように首を横に振った。
「いいえ。あなたが悪魔の意思を持って戦うならおそらく最強に近いことを知っているわ。あなたは世界を変えるだけの勢力を従えている。でも、見たところ、あなたは悪魔ではなく、自分の意思で動いているようね。だから召喚もしていないでしょう?」
如月の言葉は疑問に満ちていた。言葉を続ける。
「単独なら、そして悪魔の意思を持たないなら、あなたは私に勝てない。私が疑問なのは、なぜそんな選択をしたかということよ。あの魔法と関係するわけ?」
「あたしの理由は、善を執行する天使にはわからないでしょうね。戦いに負けた堕天使となって初めてわかることもあるのだから」
その言葉に呆れたように如月が宣言する。
「勝てない戦いをする理由なんて――」
* * *
「勝てない戦いをする理由なんて――愚かすぎて私は知りたくもないわ」
美鈴はそれを聞いて、如月を悲しそうに見つめていた。
「大切なものを護る戦いを知らないなんて、あんたは哀れね。あんたは勝てそうな戦いだけしかやらないわけ?」
そして語気を強めて重ねて尋ねる。
「――あんたは、そこに大切なものがあっても、負けそうなら戦わないの?」
渾身の力を込めて自分が持てる全ての魔力を集積させながら、美鈴は言葉を継いだ。
「だったらあんたに教えてあげる――」
未来の予知が出来る美鈴は知っていた。
自分は助からない。
考えられる最悪の結末を迎えるだろう。
全てを失い、そして何も得られない。
「ふふっ」
美鈴は声を上げて笑っていた。
そうだとしても、それが何だと言うんだろう。
悪魔として戦い、そのために召喚をすれば確実に勝てる。それは契約違反ではない。
それでも、一人で戦う必要があった。大切なあの人にかける思い。会ったこともない。どんな人かも知らない。そんな人のために全てを賭けるんだ。
それは自分の思いに他ならない。自分が今まで大切にしてきた願いと祈りだ。
そして理解していた。かつての自分と同じく、今、美鈴は真実の側にいる。
悪魔としての召喚をすれば勝利の代償としてそれを汚し、台無しにしてしまうだろう。
だから、自分だけで戦う。そうしなければ自らの想いを示せないから。
それは美鈴が自らに課した覚悟だった。
「教えてあげる――。あたしの戦う意味と、そして全てを賭ける覚悟をっ!」
如月は美鈴の全身を覆う強烈な力を感じて、その迫力に数歩退くほかなかったようだ。
そして、自分も全てを賭けなければ勝てないことを理解したようだった。