第四章 逃走する少年と悲しむ少女
瑠璃の言葉に俺は絶句する。
びっくりした。瑠璃の強烈な先制攻撃だ。
須藤さんは一礼すると、瑠璃の忠告などなかったかのように、優雅な動作で俺の席の後ろに座った。そして、呟くように言う。たぶん俺だけがそれを聞き取れた。
「やっと高柳さんに会えた。もう二度と会えないかと思っていたから。だから来生さんには感謝するわ」
俺はびくっとして振り返る。
「――やっと俺に会えた? 瑠璃に感謝? どう言う意味だ?」
須藤さんは俺の問いに答えようとせず、微笑むばかりだった。
鳶色の瞳と腰までの黒髮が不調和で、それがぞくぞくするような色気を放っている。モデルのように背が高くてスタイルが良い。背は俺と同じくらいありそうだ。
不思議なことに、名前は日本人だけど、それ以外は明らかに日本人じゃない。どう見ても普通とは思えない転校生だ。
誰もそのことに疑問を持たないのか? 一体なぜだ?
そして、俺の全身を何かが包んでいる。血の気が引いて、なぜか震えるのが分かる。
俺は須藤さんを見続けられなかった。そしてそれが恐怖心だと分かるのはすぐだった。
俺は目線を反らしながら、俺に軽く頭を下げた須藤さんにかろうじて顔を向けた。
「よ、よろしく」
俺が言うと、須藤さんは薄く笑って答えた。
「こちらこそ」
俺は須藤さんを見て、とても恐怖を覚えた。ただ、その理由が分からない。
須藤さんをじっと見ていると、俺は恐怖がどんどん大きくなっていくのが分かった。だから、前に向きなおって教壇に目を向けた。それに須藤さんの瞳の奥に、なんだか冷たい光を感じた。それの光は、過去にも感じたことがあったような気がする。
俺が恐怖に襲われたことに瑠璃は気が付いたらしい。振り返って尋ねてきた。
「幸太? どうかした?」
「い、いや、別に……」
俺は思い出した。同じ経験を俺はしている。
それは、あの公園。公園でカラスが飛び立つときに覚えた恐怖。
「ボクに教えてよ」
瑠璃の言葉に、心配の色があった。それが分かった。だから嘘はつけない。
「怖かった。理由は分からない」
俺が小声で正直に言うと、瑠璃は俺の目をのぞき込んで聞いてきた。
「ボクのことは怖くない?」
瑠璃はなんでそんなことを聞くんだろう?
俺は軽く笑って答えた。
「何で瑠璃が怖いんだよ? そんなこと思ったこともないし」
俺の言葉に、瑠璃は潤んだ瞳で俺を見つめて言った。
「だったらいい」
瑠璃はなんだか俺の唇を見ている気がする。
なんだろう?
そして、午前の授業を終えて昼食の時間になったとき、なんだか寒気が押さえられなくなっていた。そして俺が一瞬震えるような動作をしたとき、背後から声が響いた。
「高柳さん。お昼時で悪いんだけど、保健室の場所を教えてもらえない?」
須藤さんがそう言ってきた。
「体調が悪いの?」
「いいえ。そうじゃないけど、場所を知っておきたかったのよ。もしパンを買うんだったら、あたしが持っているお弁当を分けてあげるから……」
その言葉にぎょっとして、背後を振り返った。
瑠璃が睨んでいる気がした。だが、瑠璃はその場にいなかった。
「俺の勘って当てにならないなあ」
須藤さんは何かを言いかけて、席を立った。
「……ごめんなさい。悪いけど、早く教えてもらえると嬉しいわ」
そう言って、須藤さんは俺の手を引いた。
その手は冷たくて、だけどとても柔らかかった。
「ここが保健室だよ」
俺がそう言って戻ろうとしても、須藤さんは手を離さなかった。
「お願いがあるんだけど?」
「え? なに?」
須藤さんは、入り口に掲げられている保険医の不在カードを指さしながら言った。
「あたし、体温を測りたいんだけど、そこの在室カードだと、保険医の先生は不在でしょ? 体温計がどこに置いてあるか分からないから、おしえてくれない?」
俺だってそんなの知らない。ただ、さすがに転入生を放置していくわけにもいかない。
一緒に保健室に入ると、須藤さんは一直線に奥の棚に向かった。
そして、当然のように体温計を取り出してから、俺の方に差し出してきた。
確かその体温計は、どこに置いてあるか分からないと彼女は言っていたはずだ。
「あたしと一緒に計らない? なんか、顔色悪そうだから」
「え? そう、かな?」
俺は須藤さんの言葉に若干の違和感を覚えながらも、それに従うことにした。
そして、暫くして体温計が計測終了の電子音を発したとき、俺がそれを見る前に須藤さんに奪われた。
「やっぱりっ! 高柳さんってば四〇度近くあるじゃないっ」
須藤さんはそう叫ぶと、俺の背を押してきた。
「お、おいっ」
「高柳さん。お願いだから、そこで休んでちょうだい」
半ば強制的に奥のパイプベッドに押しやられた俺は、連続技で無理矢理シーツを掛けられた。
「ひょっとして、その為に保健室を案内させたのか?」
俺が須藤さんにそう聞くと、なぜか冷たい笑みを返された。
俺がそれを考えながら、シーツにくるまって横になる。
やっぱり体力を消耗していたらしく、俺はすぐに眠ってしまった。
そして、夢の中、不思議な呪文のような言葉が響いていた。
それが終わったとき、全身を覆っていた倦怠感がとれていた。
『こんな調子で、あの子に幸太さんを護れるのかしら』
夢の中でこんな言葉を聞いた気がした。
その後、熱を計り直してみたら、ぎりぎり平熱だったこともあり、かなり無理をして何とか授業に復帰できた。もちろん、時間ぎりぎりで瑠璃の重箱に入った弁当を苦労して平らげたことは言うまでもない。その時の一騒動は敢えて語るまい。
その日の授業が終わった後、なぜか瑠璃が担任に呼び出されていた。
そして、なかなか戻ってこない瑠璃に困惑していると、須藤さんが俺に言ってきた。
「来生さんは、今日は遅くなるから先に帰っていて欲しいそうよ」
「そうなの? だけど、須藤さん、瑠璃と仲が悪かったんじゃなかった?」
そしたら、須藤さんは微笑みを絶やさずに言った。
「来生さんじゃなくて、先生からそう伝えるように言われたのよ。だけど、来生さんっていい人ね。今日一日でそれが分かったわ。付き合ってるんでしょ?」
「ええと――」
俺が正直に答えるべきか悩んだ。だけど、俺をじっと見つめる須藤さんに気づいた。俺は必死に目をそらした。
須藤さんの瞳の奥にはなんだか触れがたいものがあるような気がする。
そのせいかわからないけど、須藤さんをじっと見ていると、恐怖心が沸き起こってくるような気がした。
何で不安になるんだろ? 俺自身その理由がわかんない。
だけど、そんなことお構いなしに、須藤さんが言ってきた。
「あたし、ちょっと方向音痴なので、帰るとき駅まで案内してくれると嬉しいな」
「そんなに迷う距離じゃないだろ」
「あたしって、信じられないくらい奇跡的な方向音痴なの。今日だけでいいから、お願いできないかなあ。後であたしから来生さんに説明してもいいよ」
そこまで言われたら仕方がない。
「分かったよ。駅までなら別にどうってこともないし。今日だけね」
俺は、心のそこで瑠璃に言い訳をしながら、帰ることにした。
俺は瑠璃がいないことに、なんだか不安を感じていた。だって、一緒に歩いてるところを瑠璃に見られたら、メチャやばそうだ。怒り出す瑠璃は想像できないけど、あのクールな瑠璃が泣き出したら、その罪悪感で地獄に行きそうな気もする。
二人で校舎から出た後、須藤さんはずっと黙っていた。
俺は瑠璃への罪悪感と、理由のない不安で須藤さんを見ないように駅に向かって歩いていく。そして途中で、いつも通る公園を横切った。
公園にはほとんど人気がなかった。この公園は登下校する夕方に人を見ることはほとんどない。昼間だったら散歩する小さな子供連れの家族がいるのかもしれないけど。
公園の中ほどに小さな噴水がある。そのそばに木製のベンチがあった。
水が流れる穏やかな音だけが流れている。
俺が視線を感じて振り返ったとき。その時だった。
すぐ後ろにいた須藤さんの唇に俺の唇がかすかに触れた。
天地神明に誓って言う。偶然だっ。ほんとにわざとじゃないんだ。
須藤さんが俺に触れそうなくらいすぐ後ろにいたんだ。背が同じくらいだから、ちょうど二人の唇が触れたんだ。
「――っ!」
俺が叫び声をあげるはるか前に、須藤さんが倒れこんできた。
それはまるでスローモーションのように、ベンチに向かって崩れ落ちたんだ。
俺はあわてて須藤さんの体を支えた。何か考えるより早く体が動いていた。
意識を失った須藤さんを抱きかかえる格好になる。俺は顔を散々赤らめた後、ベンチに須藤さんを寝かせた。
「どうしよう? 病院に連れていった方が?」
俺はあせりながら、須藤さんを見つめた。そしたら、須藤さんの胸が上下しているのがわかった。呼吸しているんだ。
だけど、安心なんてできない。俺はちょっぴり悩んだけど、思い切って救急車を呼ぶことにする。携帯を出して電話をかけようとしたら、俺にほっそりした手が伸びてきた。
俺はびっくりして顔を上げる。須藤さんが俺を見つめていた。須藤さんは上半身を起こして、乱れた制服を直しながら言う。
「あたしは大丈夫よ」
「ほんとに?」
俺の言葉に、須藤さんは小さくうなずくと、ベンチに座りなおした。
「こんなはず――ないのに……」
須藤さんがつぶやくのが聞こえる。俺は何事かと思って須藤さんの前に立った。
「どうしたの?」
「変なの。あたし、なんだか変なの。体が熱くて……それに――」
須藤さんはそこまで言って、突然自分のスカートを捲ってきた。
「え? 何で?」
俺はびっくりして、硬直する。
だって突然女の子にスカート捲られて、何ができるって言うんだ?
須藤さんの真っ白な太ももが俺の脳裏にこびりついた。須藤さんはじっと自分の足の付け根を見つめている。
俺は呆然としながらも、そこから目が離せなかった。
やわらかそうでほっそりした足だった。そして、黒いレースの下着が見えている。
扇情的だ。少なくとも学生がつけるような下着には見えない。そして俺が下着から視線をそらしたとき気づいた。須藤さんの太ももの付け根の辺りになんだか模様がある。
丸い円のようなものが書かれていた。
「なにそれ? 痣?」
そして、そのときになって、やっと俺は女の子がスカートを捲った下を覗いていることの意味に気づいた。あわてて背を向けて言う。
「ご、ごめん」
須藤さんはじっと何かを考えているようだ。しばらくしてから、口を開いた。
「あの。ちょっぴりお願いがあるんだけど……」
俺は不思議に思って、須藤さんを見つめて驚いた。
なんだか、目が潤んでいる。それは何か求めている瞳だ。
――あれ? こんな感じの目を、俺はどっかで見たことが……。
俺は警戒しながらも、聞いてみた。
「お願いって?」
俺の質問に須藤さんは答えなかった。
ただ行動に移してきたんだ。突然、須藤さんは俺に覆いかぶさってきた。
「なっ!」
俺は何にもできなかった。襲われるように押し倒された。
須藤さんに押された勢いで、俺はベンチにへたりこむ。須藤さんは俺の隣に滑り込んで、腕を伸ばしてきた。
あっという間に、俺は須藤さんに抱きすくめられていた。俺の首筋に須藤さんの唇が当てられたのがわかる。俺は目をまん丸にして再び硬直するしかない。
そして、小さな声で須藤さんが呻いた。
「こんなこと、あたし信じられない――」
そして須藤さんはしばらく俺の首に唇を当てていた。なんだか首筋を吸われている気がする。
「なんで? 何が起きてるの? 何が信じられないんだよ? あっ、今舐められたっ!」
大混乱する俺をよそに、須藤さんは首筋から唇を離した。そして、次の瞬間、後頭部をがしっと掴まれて、唇を合わせてきたんだ。
それは甘いキスじゃなかった。須藤さんは貪るように俺と唇を合わせている。
しばらく俺は呆然としていたけど、離れようとして腕に力を入れた。だけどだめだ。須藤さんが俺の頭を力いっぱい抱きしめているせいで、俺は顔を左右に振るくらいしかできない。須藤さんはうっとりした目をしている。そして、なんだか右手を掴まれて、柔らかいものの上に移動させられた。
「うわっ。これってひょっとして、あの? 胸?」
しばらくそうしていると、須藤さんが俺の唇に舌を挿し入れようとしてきた。
それができなかったのは、誰かが、強烈な勢いで二人を引き離してきたからだ。
俺は目を閉じていなかったので、須藤さんがベンチの端に振り回されるのが見えた。
須藤さんを悪鬼のような目で睨んでいる女の子がいる。黒髪が逆立っている気がした。
それは瑠璃だった。瑠璃が須藤さんを力任せに振り払ったんだ。
「幸太から離れろっ!」
瑠璃が怒鳴ったとき、須藤さんは制服のボタンがばらばらとはじけ飛んでいた。俺が掴んだままだった胸は、振り回されるときに布が破れ、ボタンがちぎれたようだ。大きな胸があらわになっている。俺は思わず、須藤さんの柔らかそうで染み一つない真っ白の胸に目が釘付けになった。
俺が凝視するのを須藤さんは気付いたようだ。うっすら頬を染めて、俺に呟く。
「あたし、もうだめかも。高柳さんが――」
須藤さんはそこまで言った後、胸を隠すように、空ろな目で自分の胸を腕で抱えた。
瑠璃は激高していた。
「泥棒猫っ! キミはボクの警告を無視した。ボクはキミを許さない」
いったい何のことだ?
その瞬間、周囲の色が灰色に固まった。人影のない公園でそれは始まった。
それは恐怖の祭典だった。
* * *
瑠璃は手のひらの上に、小さなエネルギー弾を作ると、それを須藤美鈴をかすめるように投げた。髪を焼くくらいで済ませようと思ったからだ。その理由は寛容ではない。
幸太だ。幸太の目の前で派手な殺人を犯したくないからだ。
そんなことをしたら嫌われてしまう。
幸太にほんの少しでも嫌われるなんて、悪夢以外の何物でも無い。
本当は、幸太を引きはがした後、そのまま二人で立ち去ればよかったのかもしれない。理性的な行動はむしろそっちだ。そして、誰も気付かぬうちに殺すことがベストだっただろう。
だけど許せなかった。須藤美鈴は大切な幸太の唇を奪った。
幸太に抱かれる時の、狂おしいほどの快感と幸福感。
頭を真っ白に焼き尽くす、幸太に抱かれたときの満たされる感覚。
「あれはボクだけのものだっ」
そう叫んだ瑠璃を、驚愕する光景が襲った。
須藤美鈴が、その光を手の甲で払っていた。払われた光の玉が轟音とともに地面をえぐっていく。そして、瑠璃はやっと気付いた。
この女は魔法使いだ。しかも高位の。
だが、それはこの女にとって不幸なことに違いない。
瑠璃が手加減する必要がないことを意味しているからだ。
瑠璃は幸太を振り返ると、叫んだ。
「幸太。この女は危険だっ。ボクがキミを守るからっ」
幸太は理由がわからぬまま小さく頷いてくれた。瑠璃は幸太の元に走り、抱きしめる。
幸太を抱いたまま、瑠璃は空を飛んだ。ほぼ同時に須藤美鈴が宙を舞うのが見える。
瑠璃は、一三個の火の玉を同時に作り出して、周囲にばらまいた。
この火の玉は追跡弾だ。徐々に加速しながら、須藤美鈴をいつまでも追いかける。
そのまま投げないのは時間稼ぎのため。
須藤美鈴は瑠璃から二〇メートルくらい離れたところに浮かんでいた。
その姿は瑠璃に違和感を覚えさせる。空中浮揚の詠唱が聞こえなかった。どれだけ小声であろうと、呪文詠唱は空間に直接響き渡る。聞き逃すはずがない。
魔法使いが呪文詠唱無しに空中に浮揚する方法。何らかのアイテムを利用しているということに違いない。だとすればランキングクラスの可能性もある。
特に高位の魔法使いは、特殊な方法で史上における順位を計られる。史上一〇八位までの魔法使いは、過去五〇〇年間変動したことはない。そこまでの魔法使いとは考えられない。だがそれでも、ランキングを計測された事実は、現世最強の証といっていい。
「現世最高位に近い魔法使い? まさかエドワーズウォーカー一族の末裔? だけど――」
瑠璃は薄く笑うと、周囲一〇メートルほどに魔力を展開しはじめた。それは瑠璃の得意とする空間操作に関する呪文の一つ。もちろん瑠璃には詠唱なんて不要だ。
須藤美鈴は徐々に加速して追いかけてくる火の玉を器用に避けていた。
でも、それが時間稼ぎだと気が付いたんだろう。
突然、強力な魔力でその火の玉を一つ一つ消していった。
ただの腕の動きだけでその膨大な魔力が行使されていく。
その行為に瑠璃は強烈な違和感を覚えて、須藤美鈴に向けて叫んだ。
「呪文の詠唱がない。ありえないっ」
そして、残りの火の玉が五つになったとき、瑠璃に向かって須藤美鈴は強烈な光の矢をなげてきた。瑠璃がかろうじてその矢をよけきると、それはベンチ近くの地面に直撃する。
雷が落ちたときのような甲高い音の後、低い轟音が何度か鳴り響いた。土煙がもうもうと上がってくる。そして、そこをちらっと横目で見ると、直径数メートルの巨大な穴ができていた。深さは全然底が見えないから分からない。
そこに至って、瑠璃は理解するしかなかった。
「キミは誰? 魔法使いであるはずがないっ。呪文詠唱無しに魔法を使える存在は……」
そして、瑠璃が須藤美鈴を睨む。
ぼんやりと、しかし確かにその背中に黒く大きな翼が見えている。
「キミは悪魔だっ!」
瑠璃がそう叫ぶと、須藤美鈴が言い返した。
「あたしは悪魔じゃない。魔王よ」
その言葉とともにはっきりした黒い翼が現れる。それも四枚。
「まずいっ」
本性を現した魔王に、このまま対抗するのは危険だ。
須藤美鈴の宣言に瑠璃が本能的な警戒体制をとった。
その時、瑠璃は幸太が発する甲高い悲鳴を聞いた。
「うわあああああっ!」
幸太が恐慌状態で叫んでいる。普通なら無理もないと思うところだ。
だけど、明らかに幸太の様子が変だ。看過出来るはずがない。
「幸太っ!」
瑠璃は、すぐに幸太を抱きしめる力を強めた。幸太は須藤美鈴に視線が釘付けになっている。瑠璃が幸太の頭に触れると、幸太の方も瑠璃にしがみついてきた。
「ああああ」
幸太は言葉にならない声を出し続けている。
瑠璃は慌てて地面に向かった。そして、幸太は地に足をついた瞬間、瑠璃から半歩離れた。そして心を落ち着けるために深呼吸を繰り返していたようだった。
そして、幸太が青ざめた顔のまま微笑もうとして、凍り付いていた。
「瑠璃っ! 一体それはっ?」
幸太は瑠璃を見ていた。瑠璃を見つめるその目には恐怖が満ちていた。
それに気が付いたとき、瑠璃は衝撃を受けた。
「――幸太はボクのことを怯えているの? ボクが怖いの?」
その瞬間気付いた。さっき瑠璃は須藤美鈴に対して本能的に警戒態勢をとった。瑠璃の背中には、今、黒々とした翼が見えているはずだ。
悪魔の証としての翼が。
幸太は、そのまま後ずさりながら、悲鳴を上げた。
そして、鞄を放り投げて、そのまま公園から逃げ去っていった。
瑠璃を置いて。
それに気付いたとき、瑠璃は自分の全てが崩れ落ちた音を、確かに聞いた。
そして瑠璃は自分が涙を流していることに気が付いた。
「幸太はボクを恐れているの?」
それは瑠璃にとってとても悲しい現実だった。
瑠璃が幸太のことをそんなに気にするようになったのは、一体いつからだろうか。瑠璃は快感を得るために、そして幸太を幸せにするためにいろいろなことをしてきた。それだけのはずだ。瑠璃の行動には感情なんて全然こもっていなかったはずだ。
だけど、今、瑠璃は幸太に嫌われることをとっても恐れている。
「ボク、幸太に嫌われたくないよ。そんなの嫌だっ」
それは単に瑠璃の目的に支障があるからじゃない。
だから、瑠璃は恐怖の目で自分を見た幸太のことを思い出すと、とても心が痛んだ。
瑠璃の目からたくさんの涙が流れていた。
「戦いは終わり、よね?」
背後から須藤美鈴がそっと近づくと、確認するように聞いてきた。瑠璃は振り返りもせずに声を上げた。
「幸太に近づくな。幸太はキミを恐れてる。次に近づいたら今度こそボクはキミを殺す」
瑠璃の言葉に、須藤美鈴は怒りに震えるように言い返した。
「あんただって怖がられているのは同じでしょ? 悪魔を恐れているみたいだから」
「ボクは違うっ! ボクは幸太に怖がられてないっ」
ぼろぼろあふれる涙が瑠璃の本心を示しているようだった。
須藤美鈴はその様子を見て、ゆっくりと呟いた。
「悪かったわ。あんたが大切にしていたものをあたしは台無しにしてしまったのね」
須藤美鈴の言葉を無視するように、瑠璃は宣言した。
「ボクは幸太のところに行く。幸太の鞄持ってかなきゃ。もし邪魔をするなら――」
「邪魔なんてしないわよ。だけど覚えておいて。もし高柳さんが、どうしても悪魔を受け入れられないようなら、あたしも困るの。だから、そのときは協力するから」
「ふざけるなっ!」
瑠璃が叫んだのを合図に、今まで白黒だった世界が色を取り戻した。
美鈴は瑠璃の怒りを受け流すように言葉を続けた。
「今回のことはあんたへの借り。高柳さんに、取り返しのつかないことをしたかもしれないから。だから今日は引き下がる。あんたの邪魔はしない。だけど、明日からは違うわ。高柳さんに嫌われないよう共同戦線を張るか、よく考えておくことね」
瑠璃は返答せず、振り返りもしなかった。
そして、そこから逃げるように走り出した。
途中で下校途中の如月がいた。
如月は声をかけてきたけど、瑠璃は無言で駆け抜けていった。
* * *
「瑠璃ったら、まるで誰かと喧嘩した後みたいじゃない。高柳君と?」
如月彩がそう呟いたとき、瑠璃の反対方向に須藤美鈴がいることに気付いた。
「まさか二人が喧嘩したわけじゃない、よね?」
そう呟いた後、如月は微笑んだ。
「二人が喧嘩して、高柳君が困ったっていうところかしらね。ふふ」
如月は背中で両手を絡めると天を仰いだ。
「それにしても、この二人が高柳君のせいで喧嘩するなんて、一体何が?」
その言葉を発した直後、如月を光が包み込んだ。
『七二柱と接触したことで、どんなことが生じるか予想しがたいが、その原因となった要素は排除すべきだ。それは予測不能な範囲を拡大させることになりかねぬ』
その言葉は如月の頭の中に直接語りかけられてきた。
「単に危険になる可能性があると言うだけで、ですか?」
それは、他から見れば、まるで如月が独り言を呟いているように見えたに違いない。
如月の質問に、再び光の中の言葉が語りかける。
『正しい行いには周到な準備と警戒が必要だ。それはそこにお前がいる理由であろう?』
それはまるで師が弟子に語りかけるような口調だった。それは如月の琴線に触れた。看過できないと判断して、きっぱり不満を口にした。
「危険になりそうだと言うだけで排除するというなら、それは危険に際して私が対応できないと言うことになりますね。そうおっしゃっていますか?」
如月はすごみのある顔でそう小さく声を発した。それはまるで一触触発する爆弾のような危険性を孕んだ口調だった。暫く時間を空けてから、如月に声が響いた。
『――いや、最強の絶対禁呪を持つお前にこの件は任せている。助言と理解せよ』
如月は、その言葉を聞いて微笑んだ。だが如月は追求を止めない。皮肉めいた口調で天を仰ぎ見た。
「そうですか。安心しました。しかし、もしそうでしたら、なぜ秘密裏に貴方が招集をかけているのか、ぜひお聞かせいただきたいものですね」
『知っていたか。だが、招集はこの件と全く別の話だ。看過できぬ相手を確認したからに過ぎぬ。余計な詮索は止めよ』
「看過できぬ相手? 貴方がですか? 招集が必要なほど?」
『いささか因縁のある相手でな。だが、お前が気にする話ではない』
如月はその言葉に不信を抱いて空を見上げた。だが、もはや続く言葉はなかった。
* * *
俺が公園から逃げ帰っていく間、町中は全て灰色だった。それがあるタイミングで突然色を取り戻したんだ。そして、当然のように辺りに人があふれていた。
俺は震えながらも、何とか家まで逃げ帰ることができた。それが二時間前のことだ。
それからずっと俺は、自分の部屋で毛布にくるまって震えていた。
たぶん瑠璃は俺を守るために戦っていた。でも、瑠璃の黒い翼を見たとき、俺はどうしようもなく怖かった。
今俺はほんの一部の記憶を思い出した。
俺は黒い翼が怖いんだ。
「俺は最低だ」
瑠璃は俺を守っていた。なのに、俺は恐怖に駆られてしまった。
黒い翼を持っているのを見たとき、俺は瑠璃にも恐怖した。俺が瑠璃をどんな目で見たかは瑠璃も分かっていると思う。俺が恐怖の目で瑠璃を見たとき、瑠璃はビックリした顔をしていた。でも、その後、とても悲しそうな表情をしていた。
「俺はどうすれば良いんだ? 何で須藤さんと瑠璃は何で黒い翼を持っていたんだ? なんであの二人は戦ったんだ?」
分からないことばかりだ。
そして、まだ震えている俺のいる部屋のドアがノックされた。
「幸太、来生さんが来てるんだけど、部屋に通すよ? 鞄を持ってきてくれたみたい」
母だった。俺は震える声で答えた。
「ごめん。ちょっと体調が悪いので、今日は帰ってもらうようお願いできないかな?」
「あのね、幸太。来生さんはわざわざお前の鞄を持ってきてくれたんだよ? そのまま帰ってもらうなんて、できないでしょ。ちょっとでも良いから会ってお礼を言いなさい。なんならリビングの方に通そうか?」
母がちょっとだけ声を高めて俺を叱った。その正論を俺は受け入れるしかない。
「分かったよ。この部屋でいい」
母が部屋を遠ざかって階段を下りていく音がした。そして、しばらくして、階段を上がっていく二人分の足音がする。ノックされてから、俺の部屋のドアが開いた。
俺はまだ頭から毛布をかぶっていた。
母は瑠璃に簡単にお礼を言った後、そのまま階下に降りていった。
「入るね?」
瑠璃はそう言ってから、ゆっくりと俺の部屋に入ってきた。
俺は震えが止まらなかった。それでも、ゆっくり瑠璃の方に目を向けた。
そこにいる瑠璃には黒い翼はなかった。俺は少しだけ安心して布団から出ることが出来た。
瑠璃は俺の顔を見たとき、安心したような、それでいて泣きそうな顔をしていた。
「幸太、鞄を忘れていったでしょ? ボク、持ってきたんだ」
俺は瑠璃から鞄を受け取った。
「わ、わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「気にしないで」
瑠璃はそう言った後、俺の瞳をじっとのぞき込んできた。
俺は全てを見通すような瑠璃の瞳に、誤魔化すことは出来ないことを理解した。
「瑠璃、俺は言っておかなきゃならないことがあるんだ」
瑠璃は、ふと目線を上げて俺の目を見た。俺は言葉を続けた。
「俺は黒い翼がとても怖いんだ。だから逃げ出したんだ。瑠璃が怖かったんじゃない。俺は黒い翼が怖かったんだ」
俺の言葉に、瑠璃は聞いてきた。瑠璃の言葉が震えているのが分かった。
「幸太は、まだボクと付き合ってくれる? もし無理ならそう言って。ボクは別にキミを恨んだりしない、よ……」
「正直、今俺は混乱しているんだ。ちょっとだけ待ってくれないか。だけど一つだけ教えてくれ。あの黒い翼は何なんだ?」
瑠璃は、しばらく黙っていたけど、やがて思い切ったように聞き返してきた。
「幸太は、ボクの外見にこだわらないって言ったよね? 今でもそれは変わらない?」
俺は瑠璃にゆっくりと説明し始める。
「だいぶ昔のことなんだ。俺が小さかった頃、すごい恐ろしい思いをしたことがあるんだ。今まで忘れていたよ。ホントに怖かったんだと思う。たぶん思い出したくなかったんだ。そのときに見たんだ。黒い翼の人を」
俺は、悲しそうな目をする瑠璃に心を痛めた。でもどうしようもなかったんだ。
「たぶん、その時に俺は黒い翼の人に何か酷いことをされたらしくて、黒い翼を見るとどうしようもなく怖くなったんだ。
そんなことは瑠璃には関係ないのは分かってる。でも俺自身どうしようもなく怖いんだ」
瑠璃はゆっくりと口を開いた。瞳が涙でにじんでいた気がする。
「それは、ボクでも同じ? ボクは、幸太のこと傷つけたりしないよ? 幸太のこと守ってあげるよ? もうボク、絶対黒い翼なんて出さない」
俺は、そんな瑠璃を見て、逃げ出すことは出来ないと思った。怖くてどうしようもないけど、こんなに悲しんでいる瑠璃を見捨てるなんて出来るわけがない。
「たぶん大丈夫だ。ほんの少しだけ待ってくれ。瑠璃だったら俺は怖くないと思うんだ」
瑠璃はちょっぴり安心したようだった。その言葉で瑠璃は俺のそばに寄ろうとした。
だけど、それに気がついて、俺はビクッと震えていた。
そのことが瑠璃をとっても悲しませたようだった。
瑠璃は少し離れた場所にもどった。そして、そこから俺に話し出した。
「ボクの黒い翼は、昔からあるんだ。でも、ボクだけじゃない。実は他にもたくさんいるんだ。美鈴もその一人。ボクたちが、全力で自分の能力を出すときに、あの黒い翼が見えるようになるんだ。公園でボクと美鈴が戦っているのを見たよね? 美鈴は短時間だけど全力を出したんだ。だから黒い翼が見えたんだ」
俺は、人間の形をしていて黒い翼を持っている伝説上の生き物を知っている。誰だって知っているはずだ。それが白い翼なら天使。黒い翼なら……。
そして、俺は瑠璃にそのことを問おうとした。
「瑠璃と須藤さんはひょっとして……」
それはとっても困る。
俺の彼女が悪魔? あり得ない。
だけど俺は、瑠璃が俺を幸せにしようと努力していることを知ってる。
「ボク、幸太のことをサポートする。幸太が幸せになるように一生尽くすつもりだ」
瑠璃は断言した。俺は、瑠璃がそこまでいうとは思ってなかった。ちょっとだけ苦笑しようとして失敗した。あの翼を思い出して震えるのが止められなかったんだ。
瑠璃を傷つけないように、出来るだけ見ないようにした。
恐らく瑠璃は俺がそうしていることに気付いているだろう。
だけど、本当は違う。俺のやりきれない思いは、そんなことが原因じゃない。
俺は瑠璃を恐れている自分自身が許せなかったんだ。
* * *
瑠璃は家に帰る途中、幸太の家を何度も振り返った。
「ボク、ホントにいっぱい我慢したよ。死にたくなるくらい心が痛かったもん」
涙がでそうだ。とっても悲しかった。
幸太の部屋まで行ったんだ。それなのに、何にも出来なかった。あれから一日しか経っていないのに、瑠璃は自分の欲望の制御が出来なくなりつつある。
幸太の悲しそうな目が、幸太を抱きしめようとする瑠璃の衝動を何度も止めた。瑠璃は変なことなんて何も言ってないはずだ。それなのに、言葉を交わすたびに、瑠璃は幸太と気持ちが離れていく感じがした。今思い出しても涙があふれそうになる。
「ボク達、悪魔は人間に悪意があるから存在している。ボクは、その変化を調べるためにこの世界に来たんだ。それだけだった。そして――」
悪意のない社会は、悪魔のいない世界と同義だ。そして、悪意は増える一方で減ることはない。なぜなら、天使が悪魔に堕落することはあっても、その逆はないからだ。
「――キミはボクの依り代を望んでくれた。だから、ボクはこの世界に顕現できた。ボクがキミの幸せを願ったのは、その代償でしかなかった、その筈だった」
瑠璃は自ら人間界に行くことを望んだ。
悪魔が自ら現世に現れるためにはいくつかの制約がある。
人間に召喚される場合とは違う。召喚は人間が望むから、呼ばれた悪魔は縛られない。相手を破滅させることも出来る。
しかし、自ら現世に実体化を望む場合は、悪魔がコストを支払う必要がある。
現世に自分を示す依り代を持ち、それが人間に望まれなくてはならない。その依り代は、悪魔においては大抵忌み嫌われる類いのものになるだろう。そして、依り代が人間に望まれたとき、実体化できる代償として、その媒介となった人間を幸福にしなければならない。
「ボクの依り代はカラスだった。カラスは嫌われ者だよね。だから――」
瑠璃は、ほとんどの人間から悪意を受けると思っていた。
そして、瑠璃は幸太から助けられた。
「だから、ボクは助けてくれた幸太の生涯を幸福にする義務を負ったんだよ」
「そうだ。瑠璃の意思は単なる義務でしかない」
涙目の瑠璃が顔を上げる。いつ現れたのか、ウィルが瑠璃を責めるように見つめた。
「そうだよ。そのはずなんだ。だけど――」
「幸運の連鎖はその為の手段だったはずだ。だからこそ、我はそれに協力したのだ」
幸太は『幸運の連鎖』という強力な幸福への拘束を受け続けていた。これは、魔王クラスでも発動が困難な、永続的な幸運の連鎖反応を生み出す契約魔法だ。
瑠璃はウィルのサポートを受けてそれをやってのけた。
だけど、それだけでは足りなかった。幸太には決定的な何かが欠けていた。幸太を幸せにするためには、常に瑠璃が関与しなければならないことがわかった。
「恐らく幸太に関係する特殊な要素が、別な影響を生んでいるのだろう。我が実施した記憶改ざんは適切ではなかったかも知れぬ」
ウィルは、瑠璃に関連する事実について関係者の記憶に介在した。
美鈴が転校生としてやってきたのは、ウィルが実施した術式が排他的な記憶改ざんだったからだろう。
ウィルは不可逆な記憶崩壊を防ぐために、記憶の再変更に制約を与えさせた。
そして、それが幸太に関連する瑠璃の存在を知らせ、美鈴に人間の世界に舞い戻ることをさせたんだろう。
「ウィルのせいじゃないよ。だけどボクはいつも幸太の側にいたいのに……」
家に戻ると、居間には予想外の侵入者がいた。
須藤美鈴だ。
瑠璃は一瞬かっとなって叫んだ。
「キミが変なことをするから幸太がボクから離れたんだ! キミは何しにきたんだっ?」
瑠璃のけんか腰の言葉に、美鈴は神妙な顔で言い放った。
「高柳さんのことで一つだけ教えられることがあるのよ」
瑠璃は美鈴をじっと見て続く言葉を待った。美鈴は注意深く続けた。
「最初に言っておくわ。これは今回の件とは無関係。今回の話が起きる前のことだから、あんたがあたしに怒りをぶつけるのは筋違いよ?」
瑠璃は、美鈴が持って回った言い方をするのにいやな予感を覚えた。
「キミは何が言いたいんだ?」
「あたしは黙っていることも出来るわ。でもあんたに教えてあげるのは、好意からよ。だから、今から話すことであたしと争わないと誓って」
瑠璃は一瞬躊躇したけど、頷くほかはなかった。そうしなければそもそも情報を得ることも出来ない。
「――誓うよ。ただし、現時点から幸太に悪影響を与えない前提を置くけどね」
瑠璃の言葉に小さく美鈴は頷いた。
「あたしがこの世界に来たのは七年前のことよ。既にあたしを召喚できるランキングクラスの魔法使いは現存していなかった。だから、現世には依り代を使った実体化しか方法がなかった。あんたもそうでしょ?」
瑠璃がいらいらとした顔で頷いた。美鈴は言葉を続ける。
「あたしの依り代は狼だった。そこで一人の男の子と出会ったわ。あたしはその子によって実体化が出来た。だから、その男の子を幸せにする必要があったの。わかるでしょ? だけど、あたしはある事故で、翼を見られてしまった。まだ子供だったその子は、恐怖で心を閉ざしてしまったの。そして、黒い翼を持つあたしが側によることを禁じた。あたしはそれを守るしかなかったんだ」
瑠璃は美鈴を怒りの目でにらみつけた。それはきっと……。
「その子供は高柳さんよ」
瑠璃はテーブルを思い切り叩いた。ドンという大きな音が部屋に響いた。もし誓いをしていなかったら、瑠璃は再び美鈴に戦いを挑んでいただろう。
瑠璃は美鈴が許せなかった。
「キミが原因だったのか!」
そして瑠璃の怒りは涙に変わっていた。涙が止まらなかった。
「ボク、幸太から嫌われちゃった。もう幸太と会えない。ボクを怖がっている幸太なんて、とても見てられないもん。ボク、一体どうすればいいんだろう?」
ぽろぽろ涙を流す瑠璃に美鈴は神妙に説明する。
「あんたが、動物園のデートで黒い翼でも気にしないっていう言質を取ったから、あたしは再び高柳さんの側に現れることが出来たのよ。感謝してるわ」
「あんなこと聞かなければよかった。ボクがあんなことを言ったせいだったなんて、幸太にあわせる顔がないよ……」
ぼろぼろ泣く瑠璃を見て、話しかける声があった。
「最初に瑠璃が感じた羨望の気配は、美鈴だったと言うことか――」
ウィリアム・ウィルバーフォースだ。相変わらず偉そうな言葉を放っている。
「――ならば仕方がない。私が取り持ってやるとしよう。その代わり、高柳と再び仲良くなることが出来たら、もう二度と猫缶なんて私に出さないこと。分かったかね?」
瑠璃は何度も頷いて、ウィリアム・ウィルバーフォースの頭をなでてやった。
* * *
瑠璃が家を去ってからも、俺は身体の震えが収まらなかった。
瑠璃が悪魔の眷属?
あり得ない。だけど違うとしたら、あの翼は一体何だって言うんだ。
ひょっとして俺も悪魔に関係する何かなのか?
それとも、まさか瑠璃にだまされているのか? だとしたら何が目的なんだ?
俺がそんなことを考えていると、窓をノックする音が聞こえた。
窓? 窓ってノックされるものなのか?
「ノックされたら返事をするのが礼儀ではないか?」
窓から偉そうな声が響いた。ウィルだ。俺は、ほんの少し躊躇してから言い返した。
「窓をノックするというルールはない」
そしたら、窓を開けて、ウィルが勝手に入ってきた。
「む? そうは言っても、猫が玄関から入って、ドアをノックするわけにもいかんだろう? そうは思わんかね?」
なんだかよく分からない理屈だけど、とりあえず説得力はあった。俺はウィルをにらみつける。そしたら、ウィルの背中の毛並みの一部に、焦げ目があるのを見つけた。
「おい、ウィル、お前なんか背中にやけどしていないか?」
ウィルは不機嫌そうに答えた。
「瑠璃にお灸を――。いや、何でもない。ほっておいてくれ」
「で、どうしたんだ? ウィル」
「瑠璃のことだが……」ウィルはそう切り出した。「今、瑠璃は家で泣いているぞ?」
「え? 何で?」
俺はびっくりして聞き返した。ウィルはゆっくりと言う。
「それは、高柳が瑠璃に冷たくしたからだろう? 黒い翼が怖いからといって、自分を守ってくれた女の子に冷たくするのは、恥ずかしくないかね?」
俺はウィルに返す言葉がなかった。ウィルは言葉を続ける。
「高柳が黒い翼を嫌いになった理由は、須藤がきっかけだったそうだ。二人は知り合いだったからな。瑠璃は高柳に会わせる顔がないと言って、ぼろぼろ泣いていた。私は瑠璃が泣くのを、お前のこと以外では見たことがないぞ?」
「いや、でも……」
「須藤美鈴と瑠璃が争ったのだって、高柳を取られまいとしてのことだ。まさか、瑠璃に戦うべきじゃなかったなどと言うのか?」
ウィルの言葉に、俺は何も言い返せなかった。ウィルは容赦なく責めた。
「高柳は、瑠璃のことが本当に好きなのかね? 言ってみたまえ」
だが俺が口を開く前に、ウィルは言い放った。
「ただし、その言葉は最初に瑠璃に言うべきだ。今まで私は高柳を見てきたが、一度も瑠璃にその言葉を言ってないんじゃないかね? まったく礼儀知らずにもほどがある」
「ウィルの言う通りだ」
俺は、瑠璃に何にも言っていなかった。俺は何も話していなかったんだ。俺はただ瑠璃からいろいろな幸福をもらっていただけだ。俺は自分から瑠璃を理解しようとしていなかった。
瑠璃が俺のことを理解するのが当然だと思っていた。
「俺は最低だった」
恐怖で逃げ出した俺を見て、瑠璃はどれだけ悲しかっただろう。どれだけ涙を流したんだろう。全部俺の責任なんだ。
瑠璃に会いたい。
瑠璃に会って、まず謝りたい。そうしなければ、俺は、次の一歩が踏み出せない。
「ウィル。ありがとう。俺は、今から瑠璃のところに行くよ」
「礼には及ばない」ウィルは軽く首を横に振ってから、窓から出ようとした。「ただ、瑠璃は純情なところもある。だから、乱暴なことはせず、大切に抱きしめてやってくれ」
ウィルはそう言ってそのまま部屋を出て行った。
そして、俺がウィルがいた場所を見ると、そこに一枚の黒い羽があった。
俺は、少しだけ躊躇したけど、そっとそれを掴んだ。
これはたぶん――瑠璃の翼の羽だ。
「俺は、これをいつも持つことにする」
俺はそう決めた。俺はずっと黒い翼を恐れていた。
だけど、瑠璃を怖がったりしたくない。その意思を示すんだ。
たしか、携帯のストラップのプラスチック板があった。それに挟み込むことにした。
* * *
幸太の家から出るとすぐに、ウィルは何かに違和感を覚えた。
「何だ?」
周囲を見渡したが、異常はない。だが、これは悪い兆候だ。
ウィルの感覚は間違えることがない。つまり、目に見えぬ何かの変化があるのだ。
「ふん。当然瑠璃を詮索していた気配の方の持ち主であろうな。我も嘗められたものだ」
ウィルは念のため幸太の側にいるか、それとも瑠璃のもとに向かうか迷った。
「我はどちらを守るべきだ? 瑠璃か? 高柳幸太か?」
そう自分に問いかけた後、薄く笑いながら断言した。
「それは自明だな」
ウィルはまるで音を失ったように静寂に包まれた住宅街で声を上げた。
「ウィルバーフォースが宣言する。あの者に手を出すものは後悔することになろう」
そして、ウィルは瑠璃の元に走った。
これは正しい選択だ。ウィルはそれを知っていた。
だが、誰にとって正しい選択なのだ?
その答えはすぐに、自分自身で痛いほど理解することになるだろう。
序章を追加しました。