第三章 史上初めてデレデレになった少女の瞳に写るもの
「キミもこの紋章がなんだか調べるのに協力するんだよ」
瑠璃は使い魔のウィリアム・ウィルバーフォースと協力して、自分の首筋に記された紋章を書庫の資料を使って調べてみることにした。
「だけど、ここにはそんなにたくさんの本を持ってきてないしなあ。こんなケース聞いたことがないから、調べても何も分からないかも――」
瑠璃が不安そうに言うと、突然ウィリアム・ウィルバーフォースが話しかけてきた。
「私は思うのだが、この紋章に似ているものがある気がするぞ」
ウィリアム・ウィルバーフォースは瑠璃の首筋をしげしげと見つめた。
「似ているもの? 何に似ているんだ?」
瑠璃の問いに、ウィリアム・ウィルバーフォースはつぶやくように言う。
「私も持っている使い魔の紋章だ」
瑠璃は、鏡を二枚使って紋章をよく見てみた。
「たしかに、全体の文字構成とか使い魔の紋章に似ているかも。だけど、使い魔の紋章には五芒星が含まれていなければならない筈だ」
使い魔の紋章の場合は必ず五芒星の模様が含まれなければいけない。だけど、この紋章にはそんなものどこにもなかった。
するとウィリアム・ウィルバーフォースはふと気がついたように、瑠璃の首に記された紋章を凝視していた。そして、突然何かを思い出したらしい。
ウィリアム・ウィルバーフォースは呆然としているように見えた。ウィリアム・ウィルバーフォースは珍しく慌てたように声を上げた。
「私が違和感を覚えた理由が分かった。瑠璃、こいつはまずいぞ! その紋章の右下にある模様を見てみろ。小さいけど、これがなんだか分かるかね?」
瑠璃は鏡をちょっと傾けて、そこを見てみた。そこにはやや細かい星型の模様が書かれていた。でも、それは五芒星じゃない。
瑠璃が苦労して星形の頂点の数を数えてみると、それは七つあった。
「頂点が七つ? ということは――」
星型の模様で使われるのは普通五芒星。用途によっては向きを変えて逆五芒星にしたりもするけど、これが基本の星型の模様だ。そして、頂点が六つある六芒星もある。別名ダビデの星だ。三角形を二つ組み合わせた六芒星は、五芒星よりもっと強力なことにも使えるけど、コントロールが難しい。だから六芒星は特別な場合にしか使わない。
でも、ここに書かれているのは、それとも違う。これは――。
「七芒星?」
七芒星なんて、瑠璃はほとんど聞いたことがない。そもそも、七芒星は普通の方法では正しく書くことすら困難だ。円周を正確に七つに分けることは出来ないからだ。
ウィリアム・ウィルバーフォースはゆっくりとつぶやくように言った。
「そうだ。これは七芒星だ。もしこれが正しく機能しているなら、おそらく魔王だろうと神だろうとお構いなしに、効力が発揮されるだろうさ。私も初めて見たよ。七芒星の意味は不可能を可能にすることだからな」
ウィリアム・ウィルバーフォースの話には説得力があった。
ウィルが続けた言葉は、瑠璃が呆然とする内容だった。
「少なくとも、これは今のような世界が出来るずっと以前から決められた、本当に太古の時代の拘束に違いない。瑠璃、これを強制的に解除出来るなんて思わない方がいいぞ? 解除条件を探すほうが安全だ」
「待つんだ。ボクがそんな拘束を受ける理由がない。ボクがこの紋章を受けたのは……」
瑠璃はそう言って、もう一度思い出した。
首筋に紋章を受けたとすれば、幸太と最初のキスをして、気絶した後?
その後、瑠璃は自分が首筋に痛みを感じた覚えがあることを思い出した。
「あの時?」
そして、二度目のキス。
瑠璃はその時のことを思い出すと、とっても胸が苦しくなった。
瑠璃は、あんなに幸せだったことはなかった。
そして、幸太と離れた時のこと。あれほど悲しかったことはなかったと思う。記憶の彼方にある遠い記憶を除けば、本気で泣いたのは生まれて初めてだったような気がする。
なんで、あんなに幸せだったんだろう?
なんで、あんなに悲しかったんだろう?
そして、なぜ今、自分のそばに幸太がいないんだろう。
あの時のことを思い出すと、瑠璃の頭の中は、幸太のことでいっぱいになった。その思いは、あれから時間が経つほどに強まっていった。
「何で幸太を帰しちゃったんだろう」
瑠璃の心の中で後悔がどんどん強まっていった。
――絶対変だ。何で自分はこんなに幸太に夢中になるんだろう?
たぶん、この紋章に関係がある。一回目のキスでそれが刻まれて、その紋章で瑠璃は幸太の虜にされたんだろう。もう幸太と離れられないと思った。
「ボクに対して、誰であろうと故意の謀をかけることなんて出来るはずがない。だから、ボクはウィリアム・ウィルバーフォースの言うとおり、昔からある決まり事の罠に嵌ったんだろう。それはたぶん恐ろしく複雑で、そして希な太古の決まりに決まってる」
瑠璃は幸太の虜になる代償として、至上の快感を与えられたに違いない。今はまだ瑠璃は時間をおけばまだ冷静でいられる。だから、この快感はまだ序の口だ。
あの時の感覚は、瑠璃にとって信じられないほど幸せだった。だけど、もし幸太とあれ以上の行為をしていたら、瑠璃はもう幸太に奴隷のように尽くすほかなかっただろう。全てを投げ捨てて、幸太の命令に従うことしか考えられなくなる。
「分かってる。だけど、そうなりたい自分が止められないよ」
でも、それでもいいかもしれない。幸太は人間だ。寿命というものがある。幸太に夢中になっている時間は、自分の人生の中ではほんの一瞬のことでしかない。
「――だからその間、幸太との快楽に溺れてもいいよ」
瑠璃とウィリアム・ウィルバーフォースは、書庫を片っ端から調べて、付けられた紋章に関する情報を探していた。
「やはり、どこにもこんな紋章に関する資料はないな。瑠璃に聞きたいのだが、この紋章の発動は、高柳との口付けなんだな?」
瑠璃はウィリアム・ウィルバーフォースの方を向いて頷いた。
「ボクから幸太にキスした。そしたら、ボクは気を失ったんだ。その時、ほんの少しだけど首筋に痛みを感じたから、そのときに発動したんだと思う」
「口付けで発動する制約か。悪いが、そんなもの聞いたこともない。人間に迫ることはそう珍しくもないことだ。もし、本当にそんなのがあるなら、一部の悪魔は大変だろう」
瑠璃はウィリアム・ウィルバーフォースに簡単に説明した。
「それだけじゃないんだ。ボク、また気絶するか確認するために、幸太にもう一度キスしてもらったんだけど……」
ウィリアム・ウィルバーフォースは瑠璃を興味深げに見た。前足をぺろりと舐める。
「どうだったというのだ?」
瑠璃はちょっとだけ赤くなった。
「ボクは幸太の虜になったみたい」
ウィリアム・ウィルバーフォースはしなやかに跳躍して、瑠璃の肩に乗ってきた。耳元で聞いてくる。
「どういうことかね?」
瑠璃は、そのときのことを思い出しながら、状況を冷静に話そうとした。でもそれは、とんでもなく困難なことだった。それでも何とか深呼吸してから、ゆっくり口を開く。
「言葉に出来ないよ。痺れるような快感で、あんなの絶対忘れられられない。幸太とキスしたときの絶頂感は――今でも、ほんの少し思い出すだけで、体が熱くなって――たまらないんだ。ボクは、もう幸太から離れられない」
瑠璃は幸太のことを考えてみた。そしたら理性が吹き飛んで、幸太が欲しくてたまらない衝動で一杯になった。
「今すぐ幸太の元に飛んで行きたい。幸太にボクのすべてを捧げたくてたまらない。幸太に抱かれたい」
それはとっても素敵なことに思えた。幸太とのキスを反芻すると頭が真っ白になりかける。
幸太の命令に従う。そして、ご褒美に蕩けるような快感を得る。
それはとても幸せで、何物にも代え難い大切なことのように思えた。
その様子に、ウィリアム・ウィルバーフォースはため息をついた。
「重症だな」
ちょっとだけ興奮した瑠璃は、再び深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。
瑠璃はどきどきしている胸を押さえながら言葉を続けた。
「ボクは、この欲望に耐えられないと思う。幸太が欲しい気持ちは時間が経つごとに強まってる。早く何とかしないと、ボクは幸太の奴隷になっちゃうかも。幸太が幸せになれるなら、それでもいいんだけど――どうかな?」
瑠璃の問いに、ウィリアム・ウィルバーフォースは困ったように答えた。
「高柳のことかね? 瑠璃が自分の奴隷のようになったら、かなり当惑するであろうな」
「いっそのこと、幸太が奴隷を望む主人になるよう逆調教すればいいのかな? ボクを弄ぶことに喜びを感じるようにするとか、さ」
瑠璃は天を仰いだ。よく考えてみると、それはそれで幸せのような気もする。
瑠璃の言葉にウィリアム・ウィルバーフォースが呆れたようだ。
「馬鹿で無茶なことを言うな。そんなことするのは契約で禁止されてるぞ」
「とにかく、資料を調べるから、キミも協力するんだよっ」
瑠璃はウィリアム・ウィルバーフォースに宣言した。
結局、その日深夜まで調べたけど、何も分からなかった。
諦めた瑠璃は、寝室で横になることにした。だけど、一人で部屋に横になると、幸太のことが自分の頭を過ぎって止められなかった。幸太をほんの少し考えるだけで、身体が火照るのが分かる。そして無理矢理目を閉じても、なかなか寝付けなかった。
ただ、瑠璃の身体が幸太を求めて燃え上がっていた。
寝付けなかった瑠璃は、ほぼ徹夜で幸太の弁当を作っていた。今回の弁当は三段重ねの大作だ。何しろ四時間ほどもかけて作ったんだから、無理もない。「必ず味見をするのよ」っていう如月の言葉を受けて、全部おいしいことを確認済みだ。
そして、例のレシピ本には詳細を記載しておくことにした。
失敗を繰り返さず成功を確実なものとする。そのためのレシピだ。気合いが入ってる。
それを気だるそうに見ながらウィルが言い放ってきた。
「前にも言ったが、魔力を使えば簡単においしい弁当が作れるだろう? 無意味な努力に見えるのだが――」
ウィルの言葉に瑠璃は振り返りもせずに言い放った。
「そんな弁当は偽物だよ。ボク自身が自分で作りたいんだ。もし失敗したとしても、ボクは自分の思いを入れたいんだから」
まさに全身全霊と愛情を込めた弁当だ。比べてみると、前に作った弁当は打算と失敗の固まりだったような気がする。
瑠璃の言葉にウィルは肩をすくめたようだった。
「だったら、別なものに魔力を込めるといい。いくら何でも危険だ。今の瑠璃は無駄に精神力を高めすぎだからな」
ウィルはそう言ってから、少し考えたようだった。
「たとえばあの者に渡すランダウアーの護符はどうかね? 純粋な防護魔力の実体化は見たことがないが、今の瑠璃ならそれが出来るかもしれぬ。もし出来たとすれば、お前の気持ちを示すことになろう」
瑠璃は一瞬目を輝かせたが、すぐ不安そうな目に変わった。
「幸太は喜んでくれるかな?」
「断ったりはせぬだろう。それに、あの者を必ず守ってくれるに違いない」
瑠璃は頷くと、眠れずにいる時間の全てを費やして御符に集中した。半時間ほどでそれは水晶として実体化し、そして輝きを増していった。
やがてそれはYの字型のペンダントに変わっていく。
その様子をウィルは奇跡の工程を見るように凝視していた。
ウィルは瑠璃の魔力と精神力が暴発しないように誘導したに過ぎなかった。ランダウアーの御符とは理論上の概念であり、実体化に成功した事例をウィルは寡聞にして知らなかった。
「まさか、真に純粋な魔力だけから御符の実体化をなし得るとは……」
御符というものは、何かの媒体に祈りや魔力を込めるものだ。同じ魔力を使うのであれば、媒体に魔力を込める方が効果が高い。ただ、もし媒体そのものを実体化できるのであれば、それは圧倒的な魔力を込めることが可能な物体を作り出せるだろう。魔力だけから御符を実体化させることは理論的には可能だが、それを現実にするとは、ほとんど奇跡の業といっていい。
魔力の物質化は、命と引き替えに得るレベルのものであって、単に祈るだけで作られるはずがない。つまり、瑠璃と幸太の間にはウィルの知らない何かがあるのだ。間違いない。
「これほどの思いを瑠璃は――単なる魔法の影響とは到底思えぬ」
そして、ランダウアーの護符を見つめた。
「そして、これほどの魔力が集約されていれば、恐らくあの者はあらゆる災厄、そして攻撃から守られるに違いない」
そして、待ち遠しい朝。
瑠璃はかなり早い時間に家を出ることにした。
待ちきれなかった。
だから、翌日、幸太の家まで行くことにした。一刻も早く幸太に会いたい。
幸太の家まで小走りで向かった。家の手前まで着いた時、瑠璃は自分の息が切れているのに気付いた。
早歩きだったから?
「いや、違う」
瑠璃の心臓の鼓動が高鳴っているのは、幸太の家の近くに来たからだった。
今、門の手前にいる。もう少しで想像ではなく本物の幸太に出会える。
そう考えただけで、瑠璃の心の底から歓喜が押し寄せるのが分かった。
ドキドキする瑠璃が、幸太の家のチャイムを鳴らした。
インターフォンから女性の声が響いた。
『はあい』
「あの、ボク、来生瑠璃っていいます。幸太――高柳君の同級生です」
瑠璃は一瞬幸太って呼んでしまった。だけど、さすがに家族にそう伝えるのはまずいかもしれない。だから、高柳って呼ぶことにした。
『来生さん? 同級生の?』
「はい。ボク、こ――高柳君と一緒に学校に行こうと思って来たんです」
『ええっ? ホントに? 幸太と?』
語尾を上げた質問攻めが来た。
そしてその直後、なぜだか背後でどたどたという騒がしい音が響いた。そして、小声で大論争が起きている。
何だろう?
瑠璃は怪訝に思いながらも、幸太が現れるのを心から願っていた。
* * *
食卓には例外が満ちあふれていた。
食卓に両親と姉の美香を含めた四人が、落ち着いた雰囲気で朝食を取っている。
朝は落ち着いて食事をしてから、速めに登校する。
そのためにちょっぴり早い時間に起きるべきだ。
いつもそう思っているが、なかなか、そんな風にうまくはいかない。
その日はまさに例外的に早く起きることが出来た。正直を言えば、気持ちよく目覚めたわけではない。何だか頭が痛くて、眠りが浅かったこともある。
起きたら全身に汗をびっしょりかいていた。
だけど、そんなことは些細なことだ。事実は早起きした。それだけだ。姉を起こしに行く時間すらあったというのは、まさに画期的だ。ただ、その時俺の目に入ってきた姉の部屋は荒れ放題だったが。
ともかく、早く起きた。だから当然落ち着いて食事が出来る。そのはずだった。
それが出来なかったのは、朝から例外的なインターフォンが鳴ったからだ。
俺はどうせ宅配業者かなんかだろうと思って、無視してトーストを食べていた。
だが違ったらしい。お袋がインターフォンを取り落としていた。
そして、どたどたと俺の前にやってくる。
「幸太っ。今、女の子が家の前にやってきてるんだけど?」
俺はお袋の言葉に、頬張っていたパンを飲み込んだ。
「はあ?」
「同級生の来生って女の子みたいよ。お前ってば、今日はずいぶん早く起きたから、何かって思ったけど、そう言うことだったのねぇ。お前も、女の子と一緒に行くならもう少し早く起きなさいよ。彼女、待たせちゃうでしょ?」
「いや、待ってよ! そんな約束してないよ?」俺はそこまで言ってから、突然気付いた。
「い、今、来生って言った? 瑠璃がやってきた? 何で?」
確かに昨日の瑠璃は変だった。だけど、いきなり朝からやってくるなんて予想外だ。追い返すわけにもいかない。一緒に登校する以外の選択肢が封じられている。
俺の慌てた様子に、美香が長女らしくお姉さんぶって聞いてきた。
「その来生さんが例のデートした相手? ホテルのプールに誘われたんだっけ」
「なっ、何で知ってるんだ?」
「女子大生を甘く見るものじゃないわ。私は、姉として幸太の彼女の全てを知っておく必要があるのよ」
信じがたい。美香の調査能力を甘く見ていた。女性の勘は鋭いと言うが、女子大生の捜査能力は、男子高校生を遙かに凌駕しているようだ。
「そんな必要、どこにあるって言うんだよっ」
俺はそう言いながら、食事を残したまま立ち上がった。家族に瑠璃を見られるのは避けたい。面倒だし恥ずかしい。俺の行動に最近髪が後退しつつある父親が目線をあげた。
俺は何か言われる前に、鞄を持って慌てて玄関先に走る。歯磨きの時間すら惜しい。
だが、美香は俺の行動より数瞬早く動き出していた。そして、縮地と呼ばれる瞬歩の手段、あるいは瞬間移動に近いスピードで玄関先に向かった。
恐ろしい女だ。いかなる手段を講じても瑠璃を見ようという強い意志が感じられる。
「何を目論んでる?」
俺が小さく美香に声をかける。美香は振り返ると、いやらしい笑い顔で答えた。
「弟の彼女がどんな子か興味があるのは、世界共通でしょ?」
「はあ? そんな心配する前に、自分の部屋キレイにしろよ! 起こしに行ったとき覗いたら、酷い有様だったぞ」
「あなたは何にも分かってないのね」
俺の言葉に、美香は悠々と応える。
「部屋が汚いんじゃない。そこにいる私がキレイだったのよ」
俺はその言葉に絶句する。それでも、何とか俺が言い返そうとした時、背後に気配を感じた。振り返ると、両親がそこにいた。にこやかに微笑んでいる。
「長男の彼女がどんな子か興味があるのは、世界共通よねぇ」
「息子の彼女がどんな子か興味があるのは、世界共通だな」
馬鹿両親だ。話にならない。
いらついた口調で父親に声を上げた。
「そんなバカな心配しているから、最近髪が後退してるのが分かってるのか?」
「おまえは何も分かってない」
父親は眉一つ動かさずに言い放った。
「髪が後退しているのではない。私という存在が前進しているのだ」
再び絶句する台詞が放たれた。
ダメだ。この家族と来たら、究極的に話にならない。
「そういうお前は数学の単位を落としそうだと聞いたぞ? まず自分を省みた方がいい」
父親の言葉に俺はあきれるしかなかった。俺は正論を発する。
「何も分かってないな。単位を落とすんじゃない。俺が天に向けて向上しているんだ」
俺は決めぜりふを放ちながら、絶句した父親を置いて玄関に向かう。
そして、運命の玄関が近づいた。
そこには、鞄と手提げを持った女の子がいた。瑠璃だ。
瑠璃が俺を見て、顔をほころばせていくのが分かった。
「こ、幸太。ボ、ボク、来ちゃった。だって、恋人同士って一緒に登校するものでしょ?」
家族の視線が痛い。一番最初に大声を上げたのは美香だった。
「ちょっと! 幸太ったら、どんな言葉でこんな綺麗な女の子誑かしたのよっ?」
誑かした? 酷い言いぐさだ。
俺が知る限り、瑠璃が俺を口説いたことはあっても、その逆はなかったはずだ。
だけど、世間一般の常識からすれば、そう思われるものらしい。
「馬鹿言うな」
俺の言葉に、瑠璃はキョトンとしたようにフォローにならない説明をしてきた。
「そうだよ、ボクが幸太を口説いたんだから」
「何でっ?」
美香の驚愕は頂点に達しつつある。
無理もない。逆の立場なら、俺だって信じられないだろう。だが、瑠璃は頬を染めて俺を見つめた。
「だって、ボク、幸太を幸せにしたいんだ」
「馬鹿言うなっ」
全く、瑠璃と来たら何をしたいんだろうか。こんな場所でこんなことを言って、どう収拾をつけようっていうんだ。
驚愕した父が、母に向かって叫んだ。
「母さん! い、今の聞いたか? 最近では、女の子が男を幸せにするらしいぞ? いやあ、俺もこんな時代に生まれ――」
「馬鹿言うな――」
俺が言い終える前に玄関に鈍い音が響き渡った。母がにこやかな顔で拳骨を握りしめている。
「馬鹿言ってると殴るわよ?」
既に殴られているように見えるが、たぶん母の行動は正解だ。
だが、どう考えても収拾が付かない。だから、鞄を右手に、そして瑠璃の手を左手に、家を飛び出すことにした。
* * *
幸せだった。
めまいがしそうな程の快感が、瑠璃の脳裏を焼いていた。
幸太と触れている右手から全身に幸福感が押し寄せてくる。蕩けそうな感覚だった。
瑠璃は幸太に指を絡めて、その手を絶対に離さないことに決めた。
幸太は、何度か瑠璃の手を離そうとしたようだった。でも、瑠璃はそんなことを許さなかった。絶対にそんなことさせない。命に代えても。
だから、瑠璃は反対の手を幸太の目の前に差し出した。
「幸太に持っていてもらいたいものがあるんだ」
そう言って、瑠璃はお弁当とY字型のペンダントを渡した。
「弁当は分かるけどさ、こっちの方は?」
「ボクの想いを実体化にしたもの。ランダウアーの御符って言うんだ」
「十字じゃないんだ?」
「うん」瑠璃は頷いてから幸太の顔を真剣に見つめた。「あのね。もしも、仮にこのペンダントから紅い光が出たら、絶対にその場から逃げ出して欲しいんだ」
「逃げ出す?」
「うん。ボクの想いがキミを守る。だからその間に逃げてね。絶対だよ」
「それどういうこと? 守るとか逃げるとか。まるで俺が襲われるみたいじゃない?」
幸太が不思議そうに質問する。瑠璃はにっこり笑って答えた。
「うん。ボク、キミがいないと生きていけない。だから、これを作ったんだ」
「わ、わかったよ。よく分からないけど、いつも持っていればいいんだろ?」
「うん。絶対だよ。もし争いになったらどんな酷いことをしても、ちゃんと生きて帰るんだよ。後でボクが何とかするから」
瑠璃の言葉に幸太は暫く考えているようだった。そして小さく瑠璃に言ってきた。
「大丈夫。俺、ちゃんと瑠璃を守るから」
瑠璃にとってそれは予想外だった。嬉しくて悲しい言葉だった。
思わず瑠璃の目に涙で一杯になる。
「だ、ダメだよ。そんなのダメだよ。ボクは生きて帰ってってお願いしたのに、守るなんて返したらやだよ――」
瑠璃はそこまで言って堪えきれずにぼろぼろ泣きだした。
「だって、そんなのってまるで命を失うみたいだもん――」
幸太はその様子を見て慌てて謝ってきた。
「ゴメン。悪かったよ。でも瑠璃も乙女っぽいところがあるんだね」
「何だよ、それって? ボク、女の子だよ」
瑠璃は目を赤くしたまま不満そうに言い返した。
ただ、瑠璃自身気がついていた。
手を握るだけで耐え難い衝動が襲ってくる。身体全体が幸太を求めていた。心の奥底の欲望が、もっと刺激を求めている。
幸太の肌にもっと触れたい。幸太と唇を合わせたかった。
あの時、幸太と舌を絡めた時の絶頂感は、言葉に出来そうもない。ほんの少し思い出しただけで、ふらついて頭が真っ白になりそうだ。
それを強靱な精神力で支えて、何とか瑠璃は教室までたどり着けた。
そして、席の前にたどり着いた時、瑠璃は渾身の精神力を込めて握りしめた手を離すことに成功した。だがそれは瑠璃にとって拷問に近い行為だった。
それまで感じていた甘美な感覚が消失する瞬間であった。
強烈な性衝動が自分を襲うのが分かる。
幸太をこのままどこかに奪い去って、めくるめく快感と共に欲望に身を任せたい。
その誘惑は強烈で、瑠璃は振り返ると、実際、腰を浮かせてそうしようと試みかけた。
それを妨げたのは、教室に突然入ってきた人物の存在だった。
もちろん瑠璃の背後に目があるわけではない。だけど、瑠璃は背後に人がやってきたことを幸太の目線から知った。雰囲気からすれば担任がやってきたんだろう。
瑠璃は気配でそれが分かった。
瑠璃は別に、誰が教室に入ろうと、無視するだろう。
だがその後、クラスに一瞬どよめきが走った。何かあったんだろうけど、瑠璃には関係ない。そう思っていた。だけどそんな簡単な話で終わらなかった。
幸太の様子がおかしい。目を見開いた後、呆然としている。
そして、瑠璃の目線に気付いて、明らかに不自然な表情で微笑んだ。
瑠璃はハッとした。幸太が瑠璃の背後の人物から必死に目線を反らしていた。よく見ると、幸太が震えている。瑠璃は一瞬で激高するのが分かった。
「――幸太を不安にさせてる?」
瑠璃が目に怒りを込めて教壇の方に向き直った。教壇には担任が立っていた。
「――コイツか? どんな威嚇をしたんだ! ボク、絶対許さないぞ」
瑠璃が怒りを向けようとして、不意に気付いた。
背後に誰かがいる。よく見ると、教壇には担任と共に一人の女が立っていた。
幸太が目線を反らしたのは、どうやらそいつのようだった。
「一体誰だ?」
じろじろ見てみた。制服を着ているからには生徒なんだろうけど、周囲に纏った雰囲気に色気がありすぎだ。瞳が鳶色だから外国人か、少なくともその血が入っているだろう。
長い黒髪は、細い腰のあたりまである。整った目鼻立ちは、幸太以外の男子生徒全員の視線を集めているようだ。ただ、背が高い。一七〇センチを優に超えている。
もちろんクラスにこんな女はいない。
そして、恐らくFカップを超える巨乳だ。この胸の迫力が幸太を脅えさせたのだろう。瑠璃のような控えめでない胸の持ち主は等しく幸太を脅えさせる存在に違いない。
幸太のために巨乳は全て滅ぼす必要があるかも知れない。
絶妙なタイミングで担任が須藤美鈴という転校生の来訪を告げた。
「突然だが、諸般の都合で今日から登校することになる。場所は、そうだな、高柳の後ろに席を作ることにする」
担任の言葉に須藤は微笑んだ。その微笑みが瑠璃の記憶を刺激した。
――この女、知ってる! この女はボクの敵だっ。
瑠璃は一瞬で気付いた。だけど、気配を隠していて誰だか分からない。
ただ、隠しようのない雰囲気があった。
須藤は一礼してから口を開いた。
「須藤美鈴です。親の都合で、突然の転校になりました。よろしくお願いします」
「なぜ、幸太の後ろの席が指定されるんだ?」
瑠璃が小さく疑問を呈した。空いている場所なら、窓際の方にある。なのに、なんでわざわざ何人も席を移動させて、幸太の席の後ろにするんだろうか。
幸太の後ろの席の奴らがぶつぶつ文句を言いながら移動を始めた。そして席に空きができたのを確認してから、須藤は優雅な動作で瑠璃の横まで歩いてきた。
「来生、さんよね? これからよろしくお願いするわ」
須藤はそう言ってから、瑠璃にしか聞こえないくらい小さな声で付け加えた。
「長いつきあいになるかもしれないし」
「どういう意味? それに、何でボクの名前を知っているんだ?」
瑠璃は不審に思って聞いてみた。するとからかうような調子で答えてくる。
「だって、来生さん、噂になってたから……。そっちの高柳さんとのことで」
そう言って、幸太を指差してきた。瑠璃はその指を遮った。
なぜだか瑠璃は無性に腹が立っていた。
「幸太を指差すなっ。失礼だろっ」
幸太の方を見てみる。すると、幸太はなぜだか真っ青な顔をしていた。
絶対この女のせいだ。間違いない。そして許せるはずがない。
「キミに忠告しておく。幸太に手を出さないこと。そして、近づくなっ。この忠告に従わないようなら、命を含めて全てを覚悟するんだね」
瑠璃は幸太と須藤の間に立ちふさがると、そう宣言した。