第二章 満足させられる少年
ウィリアム・ウィルバーフォースによれば、幸太は彼女が欲しいらしい。
来生瑠璃は、理由はともあれ、幸太の幸福のために行動している。
自分が高柳と付き合えば、より幸太のことが分かる。そして、その幸福のための行動が取りやすくなるはずだ。瑠璃はそう考えた。
「ボクの胸はそんなに大きくないけど、顔やスタイルはかなりイケテルはずだ」
人間の好みははっきり言って分からないところもあるけど、絶対キレイだ。根拠はないけど自信がある。正直、瑠璃は人間の男なんかと付き合ったこともないし、どんなことすればいいのかも分からない。でも、満足させられるはずだ。
瑠璃の告白に対して、幸太は最後まで頷かなかった。
「失礼なヤツだ。全くダメなヤツだ。どうしようもない高密度のバカだ」
こんな屈辱は初めてだった。だから、瑠璃は、幸太が自分に夢中になるよう誘惑して、堕落させてやろうと強く決意した。
「ボクなしでは一秒だっていられないようにしてやる」
瑠璃はそう固く誓った。故に幸太の都合など関係なくデートすることを決めた。
「既成事実化を謀って断れない状況に仕向けるんだ」
幸太との最初のデートは瑠璃が全部決めた。なぜなら、幸太は混乱していたから。
それに気が付いたときに、瑠璃は確信した。たぶん幸太は、瑠璃がいないと生きていけないようにしてあげれば幸せになる。自分の誓いは正しいと思った。
幸太は受動的な人間に違いない。だから、瑠璃が全部段取りをした。
「土曜日の二時、パークハイアットホテルのロビーで待ってて。プールでデートするから水着忘れないでね。ボク、招待券持ってるからお金はいらないよ」
瑠璃はそう宣言すると、質問も反論もできないようにすぐにその場から立ち去った。
幸太は瑠璃の水着姿を見たいだろうと思った。そうは言っても、まだ肌寒い季節だから、屋外プールなんてやってない。だから、瑠璃は都心の高級ホテルの屋内プールに幸太を誘った。学生には高すぎるような所だけど、逆にそれが刺激になると思った。
「だけど、これって失敗だったかなあ――」
それは高校生に似つかわしくない待ち合わせ場所から始まった。
確実に会えるようホテルのロビーで待ち合わせしたけど、明らかに幸太は浮いていた。
不安そうにきょろきょろ瑠璃を探す幸太は、不審人物以外の何物でもない。
瑠璃は舌打ちをした後小さく呟いた。
「あーあ。あの純粋バカ、何やってるんだよ。ホントにどうしようもない奴だなあ」
フロントで目配せされている。ホテルマンが声をかける前に、瑠璃は声を上げた。
「高柳クン。ボク、ここだよっ」
幸太が瑠璃に気付くと、ほっとした顔で歩いてくる。だが幸太の後ろからホテルマンが来るのが見えた。
瑠璃は幸太に聞こえないように再び舌打ちをする。
幸太が背後に気付くより早く、瑠璃は幸太の背後に回った。ホテルマンとの間に割って入って盾になる。そして、幸太の背中を押しながら言った。
「プールはこっちだよっ」
そして直後、瑠璃は背後に迫ったホテルマンを振り返った。
「ボクは来生瑠璃。支配人に確認しなよ。ボクたちを邪魔したら許さないからね」
そう小さく言って、すごみのある顔でホテルマンを睨みつけた。
一瞬躊躇したホテルマンは、それでも瑠璃に声をかけようとした。
明らかに未成年カップルがホテル施設を使おうとしている。それを看過したら管理責任を問われる可能性があるからだろう。
だが、さらにその背後からやってきた年配の従業員に、ホテルマンは押さえられていた。その年配の男は、軽く瑠璃に目配せをした後、困惑するホテルマンを連れて行く。
瑠璃はマンションに住む前、このホテルの最上階スイートに長期滞在していた。
「上客は覚えてなくちゃダメでしょ。嫌っていうほど支配人に叱られるといいよ」
瑠璃は小声で嘯いて薄く笑うと、何も気付いていない幸太の横に廻った。
幸太の腕をとって屋内プールに向かう。
「早く行こうよ」
更衣室で水着に着替えた後、瑠璃は大失敗を実感した。
ホテルのプールには胸の大きな女の子がいっぱいだった。瑠璃はちょっとだけ不愉快だった。人間の男は胸が大きな女の子が好きだと聞いた。瑠璃はここでは胸が小さい部類に入るようだ。瑠璃は周囲を見渡した後、ため息をつきながら小声で言った。
「ボクの胸はなんで大きくないんだろう?」
瑠璃が着ているのはセパレートの水着だけど、やっぱり胸が大きい方が似合うっぽい。
プールサイドのビーチベッドに腰掛けて、憂鬱そうに横のテーブルで頬杖をついた。
そんな瑠璃の様子に幸太は気がついたようだ。幸太は「どうしたの?」と聞いてきた。
瑠璃は幸太に向かって恐る恐る言った。
「ボク胸が小さいから、高柳クンが不満なんじゃないかと思って」
その言葉にびっくりしたように幸太が答えた。
「気にしすぎだろ。というか、一体、来生は俺をどんなやつだって思ってるんだ?」
瑠璃は、幸太の言葉に思わず『だってキミ、おっぱい星人だよね?』と素で返しそうになった。瑠璃は幸太がいつも如月の胸を凝視していたことを知っていたからだ。
でも、止めた方がいいと思い直した。そんなことを言われたら幸太は不愉快に思うに違いない。だから、可愛い感じで言ってみた。
「うん。ボク、気にしないことにするよ」
その後、聞きたいと思っていたことを口に出した。
「あのさ、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「今からキミのことを幸太って呼ぶことにしていい? その方が親しそうでしょ? もちろん、キミはボクのこと、瑠璃って呼ぶんだよ?」
結局、昨日の幸太は戸惑って瑠璃のことを名前で呼ぼうとしなかった。
しかし、お互いに名前で呼び合うのは、恋人同士という既成事実を推し進めるために必須の行為なのだ。瑠璃はそう信じていた。
瑠璃は昨日ウィルと作戦会議をしていた。ウィルはその時当惑していたようだ。
「この高密度のバカは優柔不断なダメ人間だから仕方ない。だから、何かきっかけが必要だ。このデートもその一つなんだ」
「そんなことに意味があるのかね? 単に肉体関係を結べばいいだけではないか。二人きりの場面を設定し、服を脱いで迫ればいいだけであろう?」
ウィルの言葉に瑠璃は呆れたように言い放った。
「バカじゃないの? それじゃボクが単にエッチな痴女になっちゃうでしょっ! きっかけがそれじゃ、幸福な恋人関係になれないよっ」
ウィルは理解できないという様子で肩をすくめた。
「そういうものかね? どうも理解できないが――」
「こういう小さな行為を一つずつ進めていって、なし崩しにこのバカを幸せな恋人関係に埋没させてやるんだ。そして、ボクなしでいられないほど幸太を堕落させてやる」
「我には良く分からぬが、それが人間には必要な行為だと言うなら仕方あるまい」
「幸太、明日からボクにデレデレにさせてやるからねっ」
瑠璃は幸太を上目遣いで見つめると、幸太は小さく頷いていた。
「分かったよ。名前で呼べばいいんだろ」
「やった。ボクうれしいよ。幸太。ほらっ、幸太もボクのこと名前で呼んでよ?」
早速瑠璃は名前を呼び捨てにしてみた。人間は環境に慣れる生き物だ。最初は照れていても、すぐになじむはずだ。幸太はちょっとだけ赤くなりながら言ってきた。
「瑠璃」
「なんか恋人同士っぽいね? 幸太」
瑠璃の言葉に、幸太はじっと見つめてから聞いてきた。
「あのさ」幸太は言いにくそうに言った。「来生は何で俺と付き合おうと思ったんだ? 突然すぎて、変だろ?」
その瞬間、瑠璃は幸太が果てしなくバカであることを実感した。世界に存在する全ての愚か者を並べたとしても、この男の左側に全て並ぶに違いない。
この純度一〇〇%のバカは、なぜさっき言ったばかりのことを実行しないんだろう?
『死ねっ。死んでしまえっ! この男に生きている価値なんてない』
瑠璃は心の中で呪いの言葉を唱えた後、ふくれっ面を演出してから宣言した。
「瑠璃って呼ばなきゃ答えないっ!」
瑠璃の言葉に、幸太はちょっとだけ躊躇してから、再び聞いてきた。
「――瑠璃は何で俺と付き合おうと思ったんだ?」
「ボクは、幸太を幸せにしてあげたいんだ。そのためには、ボクが幸太と付き合うのが一番良いかなあと思った」
瑠璃が正直に言うと、幸太はビックリしたように聞いてくる。
「俺を幸せにする? 前も言ってたけど、何で? 理由は? 無かったら変だろ?」
質問に関して回答する方法って言うのはいくつかある。そして、瑠璃が学んだ限り、答えにくい質問をされた時は、一般論で返すのが良いらしい。
「誰かの幸せを願うことって理由が必要かな?」
「確かにそうだけど……」
瑠璃は困り顔の幸太の手を引っ張った。
こんな質問に答えたところで、どんな意味があるわけもない。それより、とっととこのバカを肉欲に溺れさせる方が手っ取り早い。早い内にセックスに持ち込んで、瑠璃の身体の虜にする。一度でいい。それで夢中にさせられる筈だ。
もし罰当たりなことに瑠璃の身体に飽きたとしたら、別の好みの女を捜して幸太にあてがうだけのことだ。三人でエッチしたいのなら戯れに尽くしてやるのもおもしろい。
瑠璃は冷えた笑みを浮かべたまま幸太に言った。
「それより、一緒に泳ごうよ? それとも泳げない? ボクが教えてあげようか?」
瑠璃のからかい半分の言葉に、幸太は首を振って言った。
「ちゃんと泳げるよ」
瑠璃は、プールに幸太を無理矢理引っ張っていった。
プールに入った幸太の背中に、瑠璃は胸を押しつけて聞いてみた。
「ボクの胸、ちゃんと分かる?」
赤くなった幸太を見て、瑠璃は心の中で成功を確信した。
うん、恋人らしく見える。このまま、なし崩しに行けば大丈夫。幸太は拒むことはないはず。
その日、瑠璃はプールで散々幸太にくっついた。
でもその後、瑠璃が家に誘ったら、かなり強い口調で断られた。
『それってありなのか? 理由がわかんない。このヘタレ、今になって臆病風かなあ?』
だから瑠璃は、押し捲ることにした。
「なんで? ボクのこと嫌いなの?」
「だって、きす……、瑠璃のこと、俺まだあんまり知らないだろ」
このバカ、まだ瑠璃のこと苗字で呼ぼうとしているようだった。手間のかかるガキだ。
瑠璃は心の底で呆れ果てた後、腰に手を当てて言い放った。
「だから、そのためにボクの家にくるんでしょ?」そう言ってから、幸太の手を握った。「キミに、ボクのいろいろなことを知ってもらいたいんだ」
幸太の顔がちょっとだけ赤くなるとともに、困惑の色が広がっていった。
「いや、でも……、だめだ。俺、今日はこのまま帰る」そう言って、瑠璃の手を離して言葉を続けた。「今日は楽しかった」
ちょっと強引だったのだろうか。このまま無理に進めても、たぶん『幸運の連鎖』で、うまくいくとは思えない。変な偶然で邪魔をされたらかなわないし。
『まったく仕方がないヤツだ。ダメ人間はこれだから困るんだ』
瑠璃はそう小さく呟くと、泣きそうな顔を装ってから幸太に言った。
「うん。突然ボクの家なんかに誘ってごめん。許してくれる?」
幸太は驚いたらしい。首を縦にぶんぶん振って答えた。
「当たり前だろ。ちょっとびっくりしただけだよ」
幸太が許した瞬間、なぜか瑠璃の全身に力が集まるのが分かる。
だが理由が分からなかった。当惑しながらも、言葉を継いだ。
「じゃ、じゃあ、またボクとデートする気はある?」
「別にかまわないけど」
よし。言質を取った!
瑠璃は密かに微笑むと、急いで口を開いた。
「絶対だよ。それでその後は、ボクの家に遊びに来るんだよ?」
次の機会というあやふやな状態なら約束しやすいはずだ。
そんで、その約束を盾にこのバカが瑠璃に手を出すように仕向けるんだ。
一度そうなったら、後は決壊したダムのように自分の欲望を瑠璃に向けてくるに違いない。思春期の男なんてそんなものだ。瑠璃はその欲望の全てを満たせる自信があった。
瑠璃がそんなことを考えていると、幸太が困惑したように聞いてきた。
「何でそんなに俺を家に呼びたいんだよ?」
「そんなの決まってるでしょ? 男の子が女の子を家に呼ぶときの理由と同じだよ」
幸太が真っ赤になった。瑠璃はちょっとからかいたくなった。
「なに考えてるの? ボク、料理作ってあげるよ? 外で食べるよりいいでしょ?」
「からかうのもいい加減にしろよ」
「でも、好きな人に料理を作ると幸せになるでしょ? だから、作られた人も幸せになるんじゃない?」
「あー、確かにそりゃそうかもな。分かったよ。今度、瑠璃の家に行くよ」
「じゃあ、来週の日曜日ね? いい?」
「来週? まあ特に予定ないけど」
幸太はそう言って、あいまいな回答をしてきた。瑠璃は速攻で話を進めることにする。
「じゃあ決定だ。今度は幸太がどこか行きたいとこある?」
「そうだなあ。動物園はどう?」
「いいよ」瑠璃は勢い込んで話を決定した。「じゃあ、来週の日曜日の十時、駅の近くのカイザースラウテルン広場で待ち合わせだよ? そんで動物園から帰ったら、ボクの家に来るんだからね。ボクの手料理作ってあげるからねっ! 絶対だよ!」
「わかったよ」
幸太は半分苦笑しながら頷いていた。
よし。約束成功。
瑠璃は幸太に背を向けて密かにガッツポーズをした。
今度のデートの後、家に連れ込んで既成事実だ。女の身体におぼれさせてやる。
一度瑠璃の身体を抱けばもう押さえなんて効かなくなるに違いない。
「今度こそ覚悟するんだ、幸太。もう逃げられないからねっ」
瑠璃は勝利の予感と共にそう呟いた。
月曜日、如月彩が瑠璃に聞いてきた。
「おとといデートだったんでしょ? どうだった?」
瑠璃は一瞬どうしようか迷った。だけど今までの行きがかり上、如月には話しておくべきだと思った。だから、簡単に説明することにする。
「プールに行ったんだけど、その後、ボクの家に連れ込むのに失敗した」
如月はくすりと笑って言った。
「あら、ずいぶん性急ね。いきなり家? それもあなたからなんて、信じられないわ」
如月の言葉にちょっとだけ説明した。
「ボクは、幸太に好かれて付き合い始めたんじゃない。だから、ボクは早く幸太と既成事実が欲しいんだ。セックスすればあの男もボクとの関係を真剣に考えるはずだ」
瑠璃の言葉に如月は目を丸くしてた。
「瑠璃、そんなに高柳君のこと好きなの? 信じられない。高柳君のこともう名前で呼んでるし、私、びっくりだわ」
「ほっといて!」
「瑠璃は自分から高柳君に付き合いたいって申し込んだんだよね?」
「好きになるのに理由なんて必要ない。ボクがここにいるのは幸太を幸福にするためだ。それ以外の理由なんてない。だから、そのためだったらボクは何でもする」
瑠璃はそう言って、如月とその話を打ち切った。如月はあきらめたようだった。
瑠璃は話を変えた。瑠璃にとってはもっと重要な話だ。
「それより、料理の作り方、ボクに教えてくれない? 今度、幸太にお弁当を作ってあげるんだ。でも今までボク、料理なんてしたことないから、全然うまく作れなくて困っているんだ。如月は確か料理が得意だったよね?」
如月は驚いた顔をしていたけど、頷いて言った。
「高柳君のお弁当を作るのね? いいわよ。今日、あなたの家で教えてあげるわ。でも、一度や二度で料理がうまくなるほど、世の中は甘くはないからね?」
瑠璃は如月の言葉に薄く笑って答えた。
「世の中のことはよく分かってるよ」
瑠璃の言葉に、如月は飾り気のないキャンバスノートを鞄から取り出すと、その表紙に『瑠璃の必殺レシピ』と書き込んだ。そして、その文字の周りを蛍光ペンで飾り付けた後、瑠璃の前に出してきた。
「これを使って。高柳君が夢中になるようなレシピを考えようよ」
面倒だが、ちゃんとやらなければいけない。手料理によって、どんどん理性をうち倒されていく幸太の姿が目に浮かんで、瑠璃はほんの少し笑ってしまった。
翌日火曜日。
幸太もびっくりしたはずだけど、もっとびっくりしたのは他のクラスメートに違いない。いってみれば、ある日から、甲斐甲斐しく幸太に尽くす、今まで無口でクールだった女の子というシチュエーションだから。
『恋って人を変えるんだね』という冗談だか本気だかわからない言葉がクラスに飛び交っていた。瑠璃は密かにその状況を楽しんでいた。
「ボク、幸太のためにお弁当作ってきたんだ。食べてくれると嬉しいな」
瑠璃はお昼時に幸太に話しかけた。
クラスメートの何人かが聞き耳を立てているようだ。瑠璃は、幸太の右横の席にいる。幸太を挟んで瑠璃の反対側に座っている如月は、とっても興味深そうにその様子を見ていた。こんな状況でお弁当を断れるわけがない。
もちろん、瑠璃はそれを見越してそういう状況に置いたわけだ。まあ、いつもはパンを買って済ますところだから、幸太にとってはありがたい筈だ。迷惑だなんて言葉は許さない。
「助かるけど、大変だろ?」
瑠璃は大げさに手を振ってから言った。
「全然大変じゃないから。おいしくないかも知れないけど、よかったらまた幸太に作ってあげる。とにかく食べて?」
瑠璃は結構強引に、幸太の前にお弁当を出した。
皆見てるんで、幸太にとってはかなり気恥ずかしいかもしれない。だけど、これをクリアしないと、恋人として認められないのに決まってる。瑠璃は舌を出しながら小声で呟く。
「まあ、これも、ある意味幸太に対する羞恥プレイ?」
幸太はあきらめたようだ。お礼を言ってから瑠璃のお弁当を食べ始めた。お弁当には、野菜の煮物と卵を中心にした和食風のおかずと、ご飯が詰まってた。
最初はそうしようと思ったけど、ご飯にハート型の模様がついているなんていう爆弾は込めなかった。やっぱり最初からは、やりすぎだろう。
だけど、別な物語を考えておいた。瑠璃は試しにハート模様を書いてみたが、出来てみるとハート型がとっても恥ずかしくなって、幸太の弁当に書くのをやめたというストーリーだ。だから、瑠璃の弁当の方だけにハートマークが書かれている。
それから、野菜の切り方とかをわざと不統一にして、形の悪いのとか、焼きすぎたのを自分の弁当に放り込んで、幸太の方はちょっぴり美味しいようにした。最後に、ケガもないのに絆創膏までする念の入れようだ。
そしてあえて自分の弁当箱が幸太から見えるようにした。
幸太は瑠璃の弁当に気付いたらしい。幸太はバカだから、瑠璃の偽物語を疑うこともないだろう。このバカは、仏頂面だった女の子のかわいい側面に気付くはずだ。
瑠璃は心の底で冷たい笑みを浮かべていた。もちろん、顔は少しだけ赤らめて、だ。
すると、堪えきれずに幸太が瑠璃に聞いてきた。
「瑠璃、そっちの弁当は失敗作じゃないか?」
瑠璃はもう少しだけ頬を赤らめて答えてやった。
「だって、ボクあんまり料理やったことないんだもん。だから、如月に聞きながら、一生懸命作ったんだけど――ちょっぴり失敗した。でも、次はもっとうまくなるから、幸太、見ててよ。だからまたボクのお弁当食べてね?」
そして、瑠璃は、自分の指につけた絆創膏を見せ付けてやった。お決まりの、料理のときに出来た傷ってヤツだ。
幸太が優しい目で見つめてきたとき、瑠璃は幸太の心を掴んだことを確信した。
――ふん。愚かなヤツだ。一生、その誤解の中で暮らしていくがいい。とりあえず死ぬまで幸せにしてやるからっ。覚悟しておくといいよ。
そしてデートの当日。日曜日の早朝のことだった。
「それは私の食事かね?」
瑠璃が『瑠璃の必殺レシピ』と書かれたノートを見ながら、ニンジンを切るのに悪戦苦闘していると、ウィリアム・ウィルバーフォースが聞いてきた。
「キミにはそこに猫缶があるでしょ? そんなのでも結構高いんだから、感謝して食べること。いいね?」
「高柳とはずいぶん差があるな? それには二つの問題があることを指摘しておくぞ。まず猫缶には心がこもってないな。そして猫缶は猫が開けるものじゃないという大原則を、瑠璃は忘れていないかね?」
「そんな大原則初めて聞いたんだけど?」
だけど瑠璃は仕方がないので、屈んでから、心を込めて猫缶を開けてやった。
これで文句ないはずだ。
しかし、ウィリアム・ウィルバーフォースはまだ不満らしい。贅沢な猫だ。
「何だよ? キミはまだ文句があるのか?」
「前から瑠璃に言おうと思っていたのだが、猫缶を開けてそのまま出すのは、あまりに手抜きに過ぎないか? ちゃんと皿に盛って出すのが常識だろう? そもそも、缶の端で私の舌が傷ついたらどうするんだ?」
「あー、うるさい。そこに紙の皿があるから勝手に取ればいい。紙の皿ならキミだってくわえて運べるはずだ。少しは自分で働くべきだよ。キミはボクの使い魔なんだから、ボクが使われるのは変でしょ!」
「猫は働かないものと相場が決まっているのだが……」
ウィリアム・ウィルバーフォースはぶつぶつ言いながら、紙の皿がおいてあるテーブルの上に跳んだ。そして、それをくわえると、そのまま床に飛んで戻った。そして、猫缶を器用に前足で倒して、紙の皿の上に盛り付けた。それを見て瑠璃が言う。
「やれば出来るじゃない」
ウィリアム・ウィルバーフォースは瑠璃をチラッと見た。鼻をクンクンさせて言う。
「瑠璃、何かこげている匂いがするぞ?」
「あ!」
瑠璃は、ベーコンを炒めていたことを思い出してフライパンを覗き込んだ。そこには、炒めすぎて半分堅くなっているベーコンがあった。瑠璃はそれを見てかなり落ち込んだ。
「ウィリアム・ウィルバーフォースのせいだ。キミがボクの邪魔をしたんだ!」
ウィリアム・ウィルバーフォースはテーブルの上に飛び乗った。そして、フライパンの方をのぞき込んでから、やれやれといった顔で口を開いた。
「私が何をしたというのかね? それより、焦げたベーコンは、そのまま炒めて、カリカリベーコンにするという手があるぞ。しかも、ベーコンから染み出た油をとっておいて野菜にかければ、おいしいサラダになるらしいが?」
「キミは一体どこからそんな情報を得てくるんだ?」
すっごく屈辱的だったけど、瑠璃は他の方法を思いつかなかった。だからウィリアム・ウィルバーフォースの言うとおりにすることにした。
ウィリアム・ウィルバーフォースは調子に乗って言葉を続けた。
「そもそも、料理をするんだったら、最初にすべての下ごしらえを終えてから、炒めたりし始めるものだぞ? 料理が段取りだということを分かっていないから、そんな事になるのだ。まったくもって嘆かわしい」
ウィリアム・ウィルバーフォースは、ここぞとばかりに言いたい放題だ。少しお灸をすえてやろうかと思ったけど、それは後にすることにした。幸太への料理が先だ。
ただ、我慢しきれなかった怒りの欠片が口から飛び出す。
「うるさいなっ! ボクは料理なんてほとんどしたことないから仕方ない!」
すると、ウィリアム・ウィルバーフォースは不思議そうに瑠璃に聞いてきた。
「なぜ力を使わないんだね? そうすれば簡単においしいものが出来るだろうに?」
「まったくキミは分かってないなあ」
瑠璃は腰に手を当てて言葉を続けた。
「幸太の心を掴むには、ちょっとうまくいかないのを出してあげるのが必要なんだ。ボクが苦労しているところを想像して、幸太はボクのことを好きになっていくんだから」
瑠璃はレシピがかかれたノートを掲げながら、ウィリアム・ウィルバーフォースに力説した。ウィリアム・ウィルバーフォースは目を細めてから言い放った。
「それにしては苦戦しすぎだろう? もう五人分くらい失敗してないかね?」
「うるさい!」
ついに瑠璃の堪忍袋の緒が切れた。瑠璃はウィリアム・ウィルバーフォースに向けてお灸を据えることにする。瑠璃の指先から小さな火の玉が現れた。そしてウィリアム・ウィルバーフォースの背中にその熱い塊を飛ばす。
「む、熱い! 熱いぞ!」ウィリアム・ウィルバーフォースが大声を出した。
ウィリアム・ウィルバーフォースは体を丸めて、背中の熱い場所を冷やそうと舌を伸ばそうとした。でもウィリアム・ウィルバーフォースは、なかなか熱い場所に舌が届かずに、ぐるぐる回ってた。もう少しで童話のようにバターになりそうだ。
瑠璃はその様子がおかしくって、声を上げて笑った。
「そのお灸で、少しはキミの猫背も直るはず。ボクに感謝するんだね」
しばらくしてウィリアム・ウィルバーフォースは火傷の熱が冷めたようだった。ウィリアム・ウィルバーフォースは恨めしげな目でこっちを見ていた。
「猫背は猫の誇りなんだが……」
瑠璃は、そんな言葉にお構いなしにウィリアム・ウィルバーフォースに命令した。
「それから、今日はこの家で幸太と性行為をする予定。だから、キミはどこか外にいるか、部屋にこもって出てこないこと。ボクと幸太のセックスの邪魔したら絶対許さない」
ウィリアム・ウィルバーフォースは訳知り顔で頷いた。
「うまくいくことを祈っている」
そして、瑠璃は何とかお弁当を作り上げることに成功した。
出来上がったお弁当をしみじみ眺めてみる。結構きれいに出来ていた。
ベーコンを野菜まきにしようとしたのは失敗したので、サラダにカリカリベーコンとして使った。その代わりにニンジンを入れたハンバーグを作って、イタリアン風にチーズをかけてみた。ご飯は炊き込みご飯を作った。
「ボクの自信作だ。絶対、幸太も喜んでくれるはずだよ」
ちなみに何個か焦げ焦げになったハンバーグがあったので、瑠璃のほうに入れた。
今日は、幸太が瑠璃の家に来る予定だ。
だから、癪だったがウィリアム・ウィルバーフォースの言うとおり、夕食の料理の下ごしらえをしておいた。そして、ラップをかけて冷蔵庫にしまっておく。
瑠璃は、お弁当を丁寧に包むと、デート用の服に着替えた。
瑠璃は自分の足がきれいなことに自信があった。だから、それを見せ付けるようなショートパンツにする。
「足だけじゃ足りないかなあ。やっぱり幸太もボクの首筋とか胸を視姦出来た方がいいよね」
瑠璃はそう呟くと、髪をあげてツインテールにした。ホントだったら、胸を強調する服も着たかったけど、それは無謀な気がする。でも、屈んでブラがずれたとき、首筋から覗くと胸が丸見えになる角度を確認しておいた。
男性心理学の本によると、こういう無意識で無防備な攻撃に男は弱いらしい。
ハーフコートとニーハイソックスを着て鏡を見てみると、かなり露出度高めだった。
「この世界でこんなに自分の肌を見せる服を着るのは初めてだ」
絶対幸太は瑠璃の肌を触りたくなるに決まってる。でも幸太はヘタレだから、自分から瑠璃に触ろうとしないだろう。だから、こっちから触れていく予定だった。
「ふふ。幸太。キミは今日からボクの虜になるんだよ? もう決定だからね」
* * *
俺は待ち合わせ場所のカイザースラウテルン広場に向かった。そこは変なオブジェがたくさん置かれている広場だ。駅から近いので待ち合わせ場所にちょうどいい。
家から広場までは歩いて一〇分くらい。大体待ち合わせ時間の十五分くらい前にそこに着いた。そして俺はそこに着いたとき、びっくりした。もう瑠璃は来ていた。
「あ、あれが瑠璃? なんだか周囲が光ってないか?」
そこには、とんでもなく可愛い瑠璃がいた。最初から綺麗な子だとは思っていた。だけどそこにいたのは、アイドルやタレントでさえ嫉妬しそうなほど輝いている子だ。
しかも、瑠璃の服装はとっても露出度が高かった。とっても色っぽかった。肌見せすぎだ。おへそどころか、ほとんど腰全部見えてる。無防備にも程がある。
真っ白い肌は、俺にとってあまりに扇情的だ。しかも狙ったようなツインテール。
「ヤバイだろ。なんだよ、あの格好? いったい何を企んでるんだよ?」
俺は顔を赤らめるしかなかった。
周囲を見渡すと、瑠璃を観察している若い男がたくさん発見できた。一人や二人ではない。
「幸太! やっときてくれた」瑠璃は俺を見つけると、手を振ってから声をかけてきた。
「さっきまで、いろんな人に声かけられて大変だったんだ。幸太が来てくれてよかった」
そのあと、俺は周囲からの視線が痛いほど突き刺さった。
痛い。ホントに視線が痛い。高出力レーザーのような視線だよ。
「待った?」
俺が聞くと、瑠璃は首を横に振ってから満面の笑みで答えた。
「ううん。恋人が来るのを待つのは楽しいんだ」そう言って、瑠璃は俺の手に触れた。
「今日、ボクは早起きして幸太のためにお弁当作った。絶対おいしいよっ。ボクの自信作なんだ。一緒に食べようね」
瑠璃は俺の手をとると、体全体で俺の右腕を抱え込んだ。俺の腕全体が瑠璃の体に触れる。胸やら腰やら瑠璃の肌のあちこちに俺は触れることになった。それはとっても気持ちよかったけど、俺は再び赤面してしまった。
元々染み一つない真っ白でキレイな肌だけど、なんだか、柔らかくて、俺は触りたくなる衝動に襲われた。
俺は慌てて首を振って煩悩を振り払う。頭の中で超高速で鐘が一〇八回鳴り響いた。
そして照れるように、瑠璃から微妙に視線を逸らして言った。
「それじゃあ、いこうぜ」
俺の言葉に頷くと、瑠璃は俺の腕を抱きしめたまま、俺を引っ張って行った。
そこから動物園までは、電車で一五分くらい。その後ちょっとだけ歩く。俺は瑠璃の荷物を持ってあげた。俺たちが動物園に入園したのは、十時半くらいだった。
まあ、カップルが動物園でやることなんて決まっている。
いろんな話をしながら動物を見るんだ。それだけなんだ。それだけのことなのに、なぜかとっても楽しかった。
「実はハシビロコウを見るって俺は決めてたんだ」
「ボクはゾウガメが見たい。ハシビロコウのすぐ近くの建物だから、その後見ようよ」
その言葉に頷くと、瑠璃は豆知識を披露してきた。
「ゾウガメって一二〇年くらい生きるらしいよ。ここで一番年寄りらしいんだ」
瑠璃はそう言って屈むと、俺の瞳をのぞき込んでいた。俺が目を反らしたとき、瑠璃の首筋から柔らかそうな小ぶりの胸が視線に入った。ブラがずれて胸全体が見えている。
「あ……」
俺が当惑して足をもつれさせると、瑠璃は俺の手をしっかり握って支えてくれた。
「だ、大丈夫? 幸太?」
瑠璃は、いつも俺のことを見ている。そして、それをきっかけに瑠璃は俺から手を離さなかった。俺はどんどん瑠璃を好きになっていることを理解していた。
でも、同時に俺はそれがとっても不安だった。
瑠璃がどうして俺に好意を持っているのか分からない。最初はからかっていると思ったけど、そうじゃないのが分かった。
いくら何でも、瑠璃だってそんなに暇じゃないだろう。
それに、瑠璃の瞳を覗き込んだときにちらちら見える、心のそこまで冷えるような光。
それがとっても気になる。だから不安だったんだ。
「だって、ありえないだろ? 突然すぎるし」
俺は小さく呟いていた。
お昼時になって、動物園の中にある広場に向かった。
俺たちは運良くテーブル席の一つを使うことが出来た。瑠璃は俺の向かい側じゃなくて、隣に座ってきた。そして、瑠璃は、待ってましたとばかりに弁当を出してきた。
それを開けてみると、サラダとイタリアンハンバーグ、そして炊き込みご飯が入ってた。チーズが載ったハンバーグと炊き込みご飯は、俺の大好物だ。
「瑠璃? なんで俺の好物知ってるんだ?」
「クラスメートに聞いた」瑠璃はちょっとだけ頬を赤らめていた。「今日のデート絶対失敗したくなかったんだ。食べてもらえる?」
「うん。これ、俺スキかも。ありがとう」
そして、二人で弁当を食べ始めた。ちょっと瑠璃の弁当を覗いてみたら、やっぱり瑠璃のハンバーグはちょっとだけ焦げてた。
瑠璃は俺の目線に気がついて、あわてて弁当を隠す素振りをした。
「ボクのお弁当見ちゃだめだ」
俺は瑠璃の様子がかわいくて、つい笑い出した。そのことに瑠璃は頬を膨らませて抗議した。
「何だよ。ボクの何がおかしいの?」
瑠璃が作ってくれた弁当はとってもおいしかった。
弁当を食べながら、どうやって作ったか瑠璃は話してくれた。
「最初はベーコンの野菜まきを作ろうとしたんだ。だけど、ベーコンが焦げちゃったから、仕方なく、サラダに使うことにしたんだよ」
昼食を食べ終わって弁当箱をしまっていると、俺は再び周囲の目が瑠璃と俺に集中していることに気がついた。瑠璃はやっぱり目立つようだ。俺は小声で瑠璃に言った。
「やっぱり瑠璃は人目を引くなあ」
「え? そうかな?」
瑠璃は意識していないらしい。俺は苦笑して言った。
「そりゃ目立つよ。先週プールに行ったときだって、めちゃくちゃ視線を集めてたじゃない。気が付かなかった?」
俺がそう言うと、瑠璃は目を輝かせて聞いた。
「ボク、綺麗? 幸太はそう思う?」瑠璃はちょっとだけ明るい顔になって聞いてきた。
「じゃあ、ボクと付き合ってくれる? ボクの恋人になってくれるよね? ちゃんとオッケーもらってなかったもん」
上目遣いの瑠璃の破壊力は抜群だ。こんな子が俺に迫るなんて、二度とない経験に違いない。
それは例えて言えば手榴弾を握りしめながら「つきあってくれないと信管抜いちゃうぞ」と迫られたときに近いだろう。「わかったよ」といって小さく頷くほかない。
「外見だけで決めたわけじゃないからな」
言い訳がましい台詞とともに俺が頷いたのを見て、ぱあっと周囲が華やぐような笑みを瑠璃が浮かべた。
「ほんとに? じゃあたとえばボクの背中に黒い翼があってもいい?」
「なんだそりゃ? コスプレかよ?」
俺はきわどい衣装をまとった小悪魔スタイルの瑠璃の姿を想像してみた。
「問題ない。というか、結構いいかもしれない。いや、むしろ好きかも」
評価がアウフヘーベンしていく俺の言葉に、瑠璃が小さく声を上げた。
「やったっ! ボク、幸太と付き合えてうれしいよっ。幸太は?」
「そりゃ、嫌ってことはないけど……」
俺がそう言うと、瑠璃は俺の手を引っ張った。
「じゃあ、ボク達は二人とも幸せということで、午後も楽しくデートしようよ」
俺たちは、午後の動物園を回ることにした。
午前中よりも、午後のほうが楽しかった。午前中よりも、俺は瑠璃のことが好きになっていた。そして、楽しい時間はすぐに終わるものだと知った。
* * *
瑠璃は心の中でひそかに凱歌を上げていた。
「もう幸太はボクへの好意が固定されたに違いない」
いろいろ小手先の技を使ったけど、ここ一週間で急激に幸太の瑠璃に対する感情が好転したはずだ。もう幸太は瑠璃といるだけで幸せになっていると思う。
「これから先は肉欲に向けた一本道だ。ボクは初めての経験に戸惑いながら、幸太とのセックスの快感に夢中になっていく状況を装えば、長期間幸太の支配欲を刺激できる」
瑠璃はその時のシミュレートをしてみる。
『ボ、ボク、変なんだ。頭がぼーっとしておかしくなりそうなの。こんなの初めてで、どうすればいいのかわかんないの』
『ボク、欲しい。何でもするから、幸太の言うとおりにするから。だから――』
そこまで小さい声で甘く囁いてみて、その茶番劇にくっくっと瑠璃は薄く笑った。
最後の関門があるが、たぶんもう大丈夫。気持ちが傾いていれば、既成事実なんて簡単に作り出せるはずだ。男というものは愚かで性欲に弱いものだ。
「ボクは清純を装って、だけど幸太を失う不安から身体を差し出した形にすればいい。表面的な態度はどうであれ、心の中では大喜びでボクを抱こうとするだろう」
動物園でのデートは瑠璃としてはどうということもない。確かにこの世界の動物が一堂に見られるというのは興味深いことだ。しかし、今回はデートだ。瑠璃には幸太を楽しませるという神聖な義務があった。だから、瑠璃は楽しむどころではなかった。
瑠璃はデートの間、幸太の一挙一動をずっと見ていた。
「瑠璃? なに見てるの?」
「別になんでもないよ」
そう言ってから、瑠璃は幸太の腕にしがみついた。
「ボク、もっと深くキミを知りたい」
瑠璃は、幸太の胸に手を触れてみた。そして、その日何度目かの上目遣いで言った。
「ボク、幸太がいなくなるんじゃないかってとっても不安なんだよ? だからボクの家で、キミの事をもっと教えて欲しいんだ」
幸太の心臓がバクバク鳴っているのが分かった。
大丈夫だ。幸太も受け入れてくれるだろう。そしてたぶん既成事実が出来れば、もう幸太は自分から離れられない。簡単に虜にさせられるだろう。
動物園から帰るとき、瑠璃は努めて明るく振舞った。幸太に警戒されると全てがおじゃんになるからだ。
そんな瑠璃の様子を不審に思ったのか、幸太は瑠璃が住む建物の玄関で聞いてきた。
「家族はいないの?」
「うん。ここにはボクとウィリアム・ウィルバーフォースしか住んでない」
「ウィルはどうやってこの建物に入るんだ? 庭から? だけど、もし瑠璃の部屋が一階なら鍵かけないとちょっと不用心だよな」
「ウィリアム・ウィルバーフォースはこのマンションではペット扱いなんだ。だけど、それにプライドが傷つけられたらしくて、わざわざ一階の庭付きにしたのに、ウィリアム・ウィルバーフォースは玄関から堂々と入ってくるんだよ。だから窓には鍵はかけてる」
「へ? ウィルってどうやって入ってくるの? 入口から入るの無理っぽくない?」
このマンションは建物の入り口で暗証番号を入れないと扉が開かない。中から出てくる人がいればそのタイミングで扉が開くけど、毎回そう都合良くいくはずがない。
「玄関横に、細長い板を置いてあるみたい。それを扉下の小さな隙間に通してセンサーに反応させて玄関を開けるんだ。幸い今までは住人に見られたことはないらしいよ」
瑠璃はそう言いながら廊下を進むと、瑠璃のマンションの部屋のドアを開けて、幸太を手招きした。瑠璃は小声で幸太に宣言した。
「今日は、途中で二人っきりの時間を邪魔されないよ」
瑠璃の言葉に、幸太はからかうように言ってきた。
「耳掃除とかする気?」
瑠璃はその言葉に絶句した。あまりに大胆な台詞だ。
何で? どうして幸太は、セックスどころか瑠璃ですら抵抗がある積極的で奔放な提案をしてくるんだろう。
瑠璃が言葉を失っていると、幸太が言葉を継いだ。
「だけどウィリアム・ウィルバーフォースがいるだろ?」
「――残念でした。ウィリアム・ウィルバーフォースは今日帰ってこないように命令してる」
瑠璃がそういうと、幸太はちょっとだけ赤くなっていた。
「手回しいいなあ。瑠璃は」
「そう。だから、今日作る料理の下ごしらえ、実はもう済ませてあるんだ。ちなみに飲み物作るけど、コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「コーヒーがいいな」
瑠璃は、幸太を居間に案内してから、そこにコーヒーメーカーを持っていった。そして、そのスイッチを入れてコーヒーを作りながら幸太に提案してみた。
「まだご飯は早いから、ちょっとだけ居間で休もうよ」
幸太が頷くのを確認してから、瑠璃はこれからが正念場だということを感じていた。
その時、テーブルの上に置いてあるノートを幸太が拾い上げてきた。
「これ何?」
飾り気のないキャンバスノートに、蛍光ペンで飾り付けられた『瑠璃の必殺レシピ』という文字が躍っている。近くにはペンも置いてあった。
うっかりしてた。料理レシピの本を置き忘れてたらしい。
一瞬どうしようか考えたが、いい手を思いついた。
瑠璃が幸太のために努力しているシーンがアピールできるはずだ。幸太は勝手にまめまめしく自分のために料理の準備をしている瑠璃の姿を想像するだろう。
幸太は馬鹿だから、好意を持たせるための姑息な手段とは思いもしないに違いない。
「ボク、幸太のために料理の勉強してるんだ」
幸太はノートをぱらぱらとめくった。
「まだあんまり書かれてないけど」
「だって、ボク達が付き合い始めてまだそんなに経ってないもん」
瑠璃が抗議するように口を尖らした。すると幸太はペンを握ってなにやら書き込んだ。
「悪戯書きしちゃ嫌だよ」
「そんなことしないさ」
幸太はそう答えると瑠璃にノートを返してきた。瑠璃は幸太の書き込みを探したけど、なかなか見つからなかった。
「何書いたの? 教えてよ」
「後で探せば良いだろ」
なぜだか幸太は目線を反らしてそう答えてきた。
――面倒なガキだ。どうせ男なんだから、目的は一つのくせに。とっととボクの身体を求めればいいんだ。
瑠璃はそう思いながらも、「分かったよ。後で探すね」と可愛く微笑むことにした。
コポコポというコーヒーメーカーがコーヒーを抽出する音が聞こえる。瑠璃は幸太のすぐ隣に座って、体をピッタリくっつけた。
そして、瑠璃が話を切り出そうとしたけど、幸太に先を越されてしまった。
「ウィルって変な猫だよな?」
幸太は、かなりウィリアム・ウィルバーフォースのことが気になっているらしい。
「――なんだよ? ボクより猫のことが気になるっていうの?」
微妙にウィリアム・ウィルバーフォースに嫉妬している自分に気がついて、瑠璃は慌てて言い訳をした。
「ウィリアム・ウィルバーフォースはボクが世話してる猫だ。生意気だけど役に立つよ」
ペットとか言うと、ウィリアム・ウィルバーフォースは目をむいて怒り出すので、瑠璃は慎重にその言葉を回避した。
瑠璃の言葉に、幸太は真剣な目で聞いてきた。
「ウィルは何でしゃべることが出来るんだ?」
「長生きしている猫だからだよ」
瑠璃がそう答えると、幸太はため息をついてきた。
「ウィルと同じこと言うなよ」
「え? でも、本当のことだけど?」
瑠璃がちょっとだけ当惑して言うと、幸太は質問を変えてきた。
「それじゃあどこでウィルを手に入れたっていうんだ?」
瑠璃は幸太に嘘をつくことは出来ない。ただ、質問に答えないことは可能だ。
「幸太。ボクは、ウィリアム・ウィルバーフォースに関してあんまり話したくないんだ。秘密にしていいかな? いずれは話せると思うんだけど……」
「そっか。まあウィルのことだから、いろいろあっても仕方がないか」
そうこうしている間に、コーヒーが出来上がったようだった。瑠璃は、コーヒーカップと下に敷くソーサーを居間の食器棚から取り出した。そしてカップにコーヒーを注ぎ込んで、幸太と自分の前に置いた。
瑠璃は一口だけコーヒーを飲んだ。幸太もそれに習ってコーヒーカップに口をつけた。
――よし。今こそ、やるぞ。
コーヒーカップを置いた瑠璃は気合を入れて、幸太に迫ることにした。
「幸太は、コーヒーに砂糖入れないの?」
「俺は砂糖を入れないなあ。昔は入れていたけど」
「コーヒーの後味を甘くする方法って知ってる?」
「チョコレートを食べるとか?」
幸太の答えに瑠璃は軽く微笑むと、首を横に振る。
「こうするんだ」
そう言って、瑠璃は目を閉じて幸太の唇にキスをした。長いキスをするつもりだった。瑠璃は出来れば幸太に舌とか入れてやろうと思ってた。
だけど触れたのはほんの一瞬だけだった。瑠璃はすぐに唇を離してしまった。
そんなつもりはなかったのに!
「ああっ!」
その声を出したのは幸太じゃない。瑠璃が小さく悲鳴を上げていた。
瑠璃は自分がぐるぐる回っていくような感覚を覚えた。眩暈がして、何が起きているのか分からない。首筋に痛みが走る。
瑠璃はそのまま力が抜けて倒れた。
その時、幸太に抱きしめられていた気がする。
そして、瑠璃は自分が意識を失っていくのを感じていた。
瑠璃が目覚めたのは、居間のソファの上だった。そこに横たわっていたようだ。
すぐ横に幸太が心配そうに見ているのに気がついた。瑠璃は飛び起きて聞く。
「ボク、どれくらい気絶してた?」
幸太はちょっとだけ腕時計を見て答えた。「五分くらいかな?」
体調は?
瑠璃はピシピシ掌で頬を叩いて確認してみた。もう全然平気そうだ。
――一体なんだったんだ? あんなの初めての経験だ。
「気を失っている間に、ボクに何かエッチなことした?」
瑠璃が冗談めかして言うと、幸太は涙目になっていた。
「冗談言うなよ。大丈夫か?」
瑠璃は頷いてから、自分の唇を触ってみた。とっても熱かった。
なんだか、すごく変な気分だった。どこかにぶつけたのか、首筋にかすかに痛みがある。瑠璃はソファの上で正座して、小声でお願いした。
「あのさ、お願いがあるんだけど……」
幸太は、瑠璃を見て頷いた。
「何でも言ってくれ」
「今ボクが気を失ったのは、キスのせいじゃないと思うんだ。だから、それを証明するために、もう一度ボクとキスしてくれない?」
幸太はびっくりした顔をした。瑠璃はかまわずに目を閉じて、幸太の唇を待った。
これを確認しなきゃ、絶対にまずい。
もしもう一度気絶するなら、後で文献を調べて理由を探さなきゃなんない。
幸太が戸惑いながらも、自分の方に近づいてくるのを感じた。
そして唇が触れた。
今度は眩暈は起きなかった。その代わりに、今度は何か別なものがやってきた。
なんだ? 何が起きているんだ?
なんだか熱いものが唇から瑠璃の全身に広がっていく。
全身に熱いものが行き渡ったとき、それが何であるかに瑠璃は気がついた。
それは強烈な多幸感だった。強烈な麻薬のように抵抗できない幸福な気持ちの嵐に、瑠璃の体が包まれていた。あまりの快感に声も出せない。
頭が真っ白になって、瑠璃はもう何も考えられなくなっていた。
幸太が唇を離そうとする。その瞬間、信じられないくらいの喪失感に襲われて、瑠璃は泣きそうになった。それはまるで、自分の大切にしているものを根こそぎ奪われる気分だった。だから、瑠璃は幸太を力いっぱい抱きしめて放さなかった。
そして、瑠璃は夢中で幸太の唇を貪っていた。
「んっ。んんっ」
その時、瑠璃にとって人生で最高の幸福な時間だった。
そして、今度は瑠璃は必死に幸太の唇に縋った。幸太の口に舌を差し入れる。
幸太と瑠璃の舌が触れたとき、瑠璃は最初の絶頂感に襲われた。
全身が硬直して、身体が自分のものじゃなくなったような感覚だった。痺れて、自分の身体を蕩けるような快感と多幸感が覆い尽くす。何も考えられなかった。
それは、瑠璃か今まで経験したことのないような、魅惑的で、幸せで、すべてを投げ捨てたくなるような大切な感覚だ。瑠璃は蕩ける感覚に溺れながら、幸太を見つめる。
幸太はぼうっとしたように視線が泳いでいた。それを見たとき、瑠璃の下半身が恥ずかしいほど潤むのが分かった。唇を離すと、幸太を熱く見つめながら囁く。
「ボ、ボク、変なんだ。頭がぼーっとしておかしくなりそうなの。こんなの初めてで、どうすればいいのかわかんないの。だけど、幸太。ボク、幸太が欲しい」
瑠璃が幸太を上目遣いで見つめたとき、幸太に抵抗の意思がないことを理解する。
その瞬間、瑠璃の全身が熱く高鳴った。歓喜で震えながら幸太のズボンに手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと」
幸太はズボンを脱がそうとする瑠璃に抵抗しようとした。
瑠璃はそれに気付いて涙が溢れそうになった。
「ボ、ボクのことが嫌いなの?」
瑠璃がすがるように見つめると、幸太は茫然としたようだった。
思考を取り戻した幸太は、どうやら瑠璃に抵抗する方法を見つけたらしい。
それは離れようとするのではなく、瑠璃を力一杯抱きしめることによってだ。
瑠璃は蕩けるような快感とともに、幸太に抱きしめられることで、ほんの少し肉欲が満たされるのを感じていた。
そして僅かに残された冷静な思考力が警告する。
ダメだ。幸太とのセックスは、ダメだ。抱きしめられるだけでこれだ。
そこにあるのは快感だけじゃない。途方もない幸福と、永遠に続く絶頂感は瑠璃の理性を一瞬で破壊するだろう。
「ダメ、ダメだよっ。ボク、おかしくなっちゃうっ」
瑠璃が幸太を必死に抱きしめながら叫んだ。
幸太はその言葉で、びくっとして、抱きしめる力を緩める。
「ご、ゴメン」
瑠璃は、幸太の身体を全身で縋り付きながら小さく叫ぶ。
「離しちゃダメっ」
違う。ホントにまずいことはそんなことじゃない。
ダメだ。この人とセックスしたら、もう戻れない。
それは最悪で取り返しがつかなくて、そして極上の快楽を与える麻薬だ。
一度でも身体に、そして無防備の肉体で受け止めたら、もはや幸太に対しては自分の意思なんて吹き飛ぶだろう。そのためであれば、どんな命令でも躊躇無く従う奴隷になる。
だけど――。
ほんの少し想像しただけで頭が白くなる。
幸太の命令に従って、その代わりに身体を好きにしてもらう。
それは何物にも代えがたい大切な行為に思えた。どこにためらう理由があるんだろう。
瑠璃の全身が震える。身体全体の毛穴が開いたように、毛が逆立った。必死に幸太を抱きしめようとするけど、身体がびくびく痙攣してうまくいかない。
それでも何とか幸太に唇を合わせることが出来た。
瑠璃は幸太の口内を震える舌で探る。幸太の唾液が舌に触れたとき、瑠璃はそれが自分の求めていたものだと分かった。必死に舌で幸太の唾液を絡め取ろうとする。
――もっと、欲しい。幸太のものなら、全部欲しい。
瑠璃の舌が自然に幸太に伸びる。幸太と舌を重ねながら、だ液を必死に絡め取ろうとした。そして、だ液を嚥下した瞬間、理性が吹き飛んだ。
だ液を飲み干した快感と、これから来る極上の悦楽の予感に全身を震わせながら、瑠璃は幸太の耳元で小さく懇願した。
「ボク、欲しい。何でもするから、幸太の言うとおりにするから。だから――」
瑠璃がそう囁いた瞬間、幸太が瑠璃を抱きしめる力が強くなるのがわかった。
それに気付いて瑠璃は幸福感で一杯になる。
幸太に感謝の言葉を言おうとして気付いた。
全ての理性と思考力が快感と絶頂感で真っ白に塗り重ねられていた。
言葉が出ない。もう何もわからない。何も考えられない。ただ幸太が欲しい。幸太のすべてが欲しい。だから、必死に幸太を抱きしめた。足を幸太の腰に絡めた。
幸太が腰を離そうとするのに必死に抵抗した。出ない言葉で必死に懇願した。
「ボク、キミが欲しい。お願い。ちょうだい」
* * *
その言葉を聞いた瞬間、もう少しで俺は理性が吹き飛びそうになった。
こんなキレイな子が必死に自分にすがりついて、そして自分を求めている。
だけど、心の底で史上最大級の警告が発せられている。
どうしてこんなことになっているんだ?
それを理解せずに瑠璃とエッチなことをしたらとんでもないことになる。
いや、というより、この状況で瑠璃を求めない方がバカ?
瑠璃の頭が俺の頬に当たっている。
そして瑠璃は、俺を必死に抱きしめながら震えていた。
震えている? いやいやいや。
瑠璃の吐息は震えているときのそれではない。たぶん性的な興奮による何かだ。
やばい。このままだと、俺自身が耐えられない。
行くところまでいって、そして、とんでもないことになる。
離れなきゃ。
俺は瑠璃の肩を掴むと、力を込めて瑠璃を離した。すると瑠璃の顔が目の前に現れる。
瑠璃は俺を期待に満ちた瞳で見つめていた。瞬き一つもせずに。
そして、俺が何か言う前に、瑠璃の唇で俺の口が塞がれていた。
* * *
しばらく幸太は瑠璃にされるがままにしていたようだった。
だけど、突然幸太は瑠璃の肩に手をやって、力任せに瑠璃から身体を離した。
瑠璃は力が抜けていてそれを止められない。
二人の唇の間に唾液のアーチがかかった。
それが切れたとき、瑠璃はその喪失感に驚愕した。
――何でやめちゃうんだろう? そんなにボクから離れたいのかな?
瑠璃は涙でいっぱいの目で幸太を見つめた。
それでも、何とか瑠璃がそれに耐えられたのは、瑠璃に絡め取られた幸太のだ液が、まだ自分の口内に残っているのが分かるからだ。幸太と唇を離した後、瑠璃は喪失感に耐え切れずに、その唾液を喉を鳴らして飲み干した。それは、まるで強烈な麻薬のように、瑠璃の身体を快感で潤していくのがわかる。
それまでの強烈な快感を失う代わりに、喉の奥からじんわりと痺れるような多幸感が全身に広がっていった。
「ああ……」
瑠璃は、思わず声を漏らした後、幸太を上目遣いで見つめた。
「な、何で離れるのさ? ボク、涙が出ちゃうんだけど?」
潤んだ目つきで瑠璃は幸太を責めた。
幸太は信じられないような顔つきで、瑠璃を見ていた。そしてあわてたように言う。
「な、なに言ってるんだよ! 五分くらいしてただろ。そ、それに、何で泣くんだ?」
瑠璃は、ぼろぼろ涙を流しながら言った。涙が止まらない。
幸太と触れあえないのが辛くて堪らなかった。
「何でだろう? 幸太と離れるのが、とっても辛くて、悲しいの」
瑠璃の涙が止まるまでしばらく要した。そして瑠璃は幸太の唇から目が離せなかった。
――欲しい。もう一度あれが欲しい。もしまた幸太とキスできるならボクどうなってもいい。
じーっと幸太の唇を見ていると、もうそのことしか瑠璃の頭になくなっていた。幸太もそれに気がついたみたいだ。避けるように瑠璃に背中を向けてから言った。
「瑠璃、なんか変だよ。一体どうしたんだ?」
しばらく深呼吸すると、瑠璃は少しだけ落ち着くことが出来た。
幸太に言われるまでもなく、確かに変だ。
瑠璃の心臓は、まだすごいどきどきしていた。一体何でだろう?
「なんだか、ボク、感情が抑えられなかった。こんなの、初めての経験だ」
その時、幸太が振り返って瑠璃の首筋を見て言ってきた。
「なんか首筋に痣みたいなのが出来てないか?」
瑠璃はそういわれて、鏡を持ってきた。そして首筋を見てみる。
文字のようなものが見えて、瑠璃はびっくりした。
「ありえない」
瑠璃の肌に傷をつけたり、文字を書いたりなんて出来るはずがない。おそらく魔法による紋章だろう。だが瑠璃の意に反してそんなものを書く呪文なんて、聞いたことない。
「――ボクに何が起きているんだ?」
その後、瑠璃は幸太に夕食を作ってあげた。癪だったけど、ウィルの言うとおり、瑠璃は下ごしらえを終えていたので料理はスムーズに出来そうだ。
後でウィリアム・ウィルバーフォースを褒めてあげなきゃいけないかも。
だけど、瑠璃は気づいていた。幸太の一挙手一投足から目が離せない。幸太のすべての行動が瑠璃を魅了している。特に、幸太の唇に目を奪われた。見ていると、また唇を合わせたい衝動が何度も襲ってきた。
瑠璃は自分の意志がこんなに弱いなんて思っても見なかった。
幸太からほんの少し離れるだけで、全身が切ない叫びを上げるのが分かる。
「幸太が欲しい」って。
だけど、瑠璃は自分の意志を総動員して、なんとか料理を作り上げた。和風パスタだ。
最初にご馳走する夕食として、如月の一押しだった。麺の茹で時間さえ間違わなければ、大失敗するはずがないからだ。少し早めに鍋から麺を引き上げて、下ごしらえした材料と混ぜ合わせた。
いい匂いがする。幸太は喜んでくれるだろうか。
ドキドキしながら、幸太の前に山盛りのパスタを置いた。
幸太を見つめる。それだけで瑠璃の全身が幸福で満たされた。
幸太は瑠璃のことを心配しながらも、料理を食べて、そして褒めてくれた。
「瑠璃の料理、おいしかった。瑠璃は料理好きなの?」
幸太の言葉に、瑠璃は蕩けるような幸福を感じる。頭の奥が痺れた。
――おかしい。何でボクは幸太に褒められただけで、こんなに幸せな気持になるんだ?
瑠璃にほんの少し残された冷静な部分が、警告を発している。
「一人だったら作らないよ? だけど、幸太のために作るのは好きだ」
幸太はそんなことを言われ慣れていないんだろう。すぐに顔を赤くした。
「今日は楽しかった。動物園で食べた弁当も、今のご飯もとってもおいしかったし。今度、何か御礼をするからな」
「御礼なんかしなくていいから、またボクとデートしてよ?」
瑠璃の言葉に幸太は頷いてくれた。そして、すまなそうに言ってくる。
「まだ時間は早いかもしれないけど、さっきのこともあるから、今日はもうこのへんにしておくよ。あんまり長居して、また瑠璃の具合が悪くなったら悪いしな……。またデートすればいいだろ?」
瑠璃は不承不承ながらも、幸太の言葉に頷くしかなかった。
本当なら、その後、瑠璃は幸太といろんなことをする予定だった。
そして、幸太とエッチなことをしたくてたまらない自分もいた。さっきの蕩けるようなキスから瑠璃は幸太の身体に触れたくてたまらなかった。おそらくエッチなことをすれば、さっきよりはるかに幸せで、大きな快感を味わえる。それは、他のどんなことよりも素晴らしいことに思えた。それをほんの少し想像しただけで、瑠璃の身体が震えた。
瑠璃の身体が幸太を望んでいる。抱かれたくて堪らなかった。
だけど、今、瑠璃に何が起きているのかを知るのが先だ。それに、自分の欲望を正面から幸太にぶつけたら、幸太に嫌われてしまうかもしれない。それは想像を絶する悪夢だ。
瑠璃は自分自身に何とかそう言い聞かせた。
幸太は、今日は早く寝た方がいいって言って、しばらくすると帰ろうとした。
瑠璃は、そのまま幸太を帰したくなかった。だから、幸太が帰ろうとするときに、玄関でお願いをした。今作った、瑠璃の家の新しいルールだ。
「ボクの家にはルールがあるんだよ」瑠璃は幸太をじっと見つめてから言った。「ボクの恋人は、ボクの家から帰るときに、ボクを抱きしめてキスしなければいけないんだ」
瑠璃はそう言ってから、目を閉じて幸太を待った。
瑠璃に幸太が近づくのを感じる。そして、瑠璃は幸太に抱きしめられた。
瑠璃はびっくりした。抱きしめられるだけで、とっても幸せな気持になれたんだ。
そして、瑠璃の唇に幸太がほんの少しだけ触れた。それはとっても短い時間だったので、瑠璃は不満だった。だけど、ほんの少しの間、体を貫くような幸福感に包まれた。だから、瑠璃はとりあえずそれで満足することにした。
「うん。これでいいよ。だって、長いことキスなんかしたら、また泣きそうだし」
「今日は無理しないで早く寝てくれよ」
そして、幸太は玄関から出て行った。
幸太が家を出ていくのを見つめると、瑠璃の心の中で何か違和感があった。
それは、何で幸太はここから出て行くんだろうという疑問だ。
そして、自分は幸太についていかなくていいんだろうかという不安だ。
そんな疑問と不安が湧き上がってくるのが、瑠璃にはとっても不思議だった。
そして、やがて瑠璃は気づいた。
幸太を夢中にさせるどころか、自分が幸太に夢中になっていることを。