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天使が守るもの  作者: 亜本都広
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第一章 幸運と幸福と計算高い少女

 俺の背後で、電車の扉が閉まる。

 今日はいつもより一本早い電車に乗れた。故障で電車がちょっぴり遅れたらしい。

 そして、人混みに押されて電車の中ほどまで移動する。そしたら、俺の前に座っている人が次の駅で降りた。ラッキーと思いつつ、席が確保できた。

 改札も他の列がもたもたしている間に、タイミングよく通過する。

 朝食抜きで、いつもより遅い時間に家を出たのに、学校には一五分も早く着きそうだ。俺は学校への途中にあるコンビニで、朝食代わりのパンを買うことにした。

 レジに並んで会計をすますと、バイトからやけに長いレシートを渡された。

「おめでとうございます。懸賞の一等賞です。一〇万円分の商品券ですよっ」

 そしてその横にいたバイトが、興奮気味に率直な感想を述べる。

「一等賞なんて初めてみました。ホントにあるんですねぇ」

「それって、どう考えても問題発言じゃ……」

 明らかに問題を含んだ店員の言葉に、レシートを見つめてみる。

 たしかに『このレシートは一〇万円の商品券と引き換えられます』と書かれていた。

 誰かが俺をからかうとしても、大げさすぎる演出だ。現実だと考えるしかない。

 小躍りして、町を一周したい衝動に駆られた俺は、鋼鉄の理性でそれを何とか止める。

 急激に不安が心の中に覆い被さっていくのがわかったからだ。

 世の中というものはゼロサムゲームだ。どこかで得たものは誰かが失ったものだ。

 俺は今までの人生でそれを痛いほど痛感してきた。

 このコンビニで今まで消費した金額はどう見積もっても一万かそこらだ。その十倍ものお金を一方的に受け取れるからにはその代償がどこかにある。

「一〇八種類くらいのダメージが一瞬で予想できた自分が嫌だ。絶対秘密にするべきだ」

 周囲をすごい勢いで見渡して、知り合いがいないことを確認する。

 すぐにその場で、レシートを商品券と引き換えてもらった。

 このコンビニではしばらく現金は使わずに済む。ラッキーだ。

 そしてうきうきしながらコンビニを出ると、その隣にある宝くじ売り場を見て思い出した。

「そういえば、姉貴に、今日一日引きこもるから、スクラッチ籤買ってくれとか言われてたっけ。忘れたらひどい目に遭わせるとか何とか言ってたな」

 俺は、遅刻の危険性のある朝ではなく、余裕のある放課後に買おうと思ってた。

「俺の強力な人間力には定評があるからなあ。人間力は忘却にその本質がある」

 忘却力はコンピュータに勝る人間の優れた能力らしい。

 その能力を存分に発揮したときに姉から受ける理不尽な仕打ちを想像した。

『豆知識。家庭内暴力で、お腹への痛撃って言うのは内蔵にダメージが蓄積されるから効果的なのよ。勿論打撃の跡が服で隠れて見えないことも理由の一つね』

 そう言って満面の笑みで近づく死の使い(姉)の姿が思い浮かぶ。恐らくそのとき俺の周囲には、死の間際に見るという走馬燈がちりばめられているに違いない。

「まだ時間は平気だし、人間力を発揮する前に用事はすませるか。お金にも余裕があるし……」

 そこで財布の中身を見て、心の贅肉がふくれあがる様を実感した。

「まあ、商品券ゲットしたし、俺の分を買っても、罰は当たらないよな。俺は一生分の幸運を使い果たしたか調べるという、ある意味神聖かつ論理的な目的もあるし」

 宝くじ売り場で並んだ後、販売員が上から籤を取り出すのを見て、不思議と口が開いた。

「あ、それじゃなくて、下から三番目から二組を買います」

 なぜかその言葉が自然に出た。販売員は怪訝そうな顔をした後、それでも俺の言うとおり、下から三番目の束と、四番目の束をつかんで現金と交換で俺に渡してきた。

そして、俺は、二人分の宝くじを財布に押し込んだ。


 二年C組の教室に入ったとき、俺はなぜか違和感を覚えた。

「なんだ? なんか変な感じが……、あれ?」

 その違和感の正体を考えていると、ふと視線にクラスメートの女の子が入った。

 俺の左隣の如月彩だ。

 如月彩は、一年から俺と一緒のクラスで、肩までの髪がきれいな女の子だ。雑誌のモデルをしたことがあるって聞いたこともある。

 スタイルだけじゃなくて、顔立ちも整っていて、かつ真面目で世話焼きな女の子だ。

 ある意味完璧超人といっていい。当然のごとく学級委員に任ぜられている。

 だが俺にとっては、如月を決定づける身体的特徴は別のところにある。

 それは巨乳だ。推定Fカップの巨乳から繰り出される破壊的な映像は、数多くの男を魅了してきた。羽でも生えてそうな軽やかに歩みで胸がぷるるんと揺れる様子は、まるで極甘のプリンのようで、思わず唾を飲み込んだことは一度や二度じゃない。

 この違和感の正体はひょっとして、その胸の動きか?

 じっくりねっとりと舐るように如月の胸を注視して、俺は頸を横に振った。

「いや、胸の動きはいつも通り、か……」

 そして、怪訝そうな如月から目を向けられた俺は、視線を胸からそらすしかなかった。


 授業が終わって、俺はいつも通り駅に向かう途中で、埃が巻き上がっていた。

 そこは少し前から高層マンションを建築しているようで、基礎を作り終えて、鉄骨を組んでいる工事現場が見えている。でっかいクレーンが鉄骨をいくつも吊り上げていた。

 俺は埃でちょっとだけむせた。

 そしてふと前を見ると、俺の少し先に如月とその友達が歩いてた。

 俺は前を歩く如月を眺めた。やっぱりこの子はキレイだと思う。それに如月が身体を横を向けたとき、遠目からでも胸が揺れてるのが分かる。

「これが重力定数九・八の効果という奴か。物理学と重力定数に感謝だな」

 そして空を仰ぐと、二人の女の子の真上に鉄骨が吊るされていた。

「あの鉄骨、物理学的にやばそうな――」

 その鉄骨を吊しているワイヤーが不安定に見えていた。鉄骨は全部で三本。それをまとめてあげているらしい。俺は不安に思って、それを注視していた。

 そして、俺の不安は的中する。突然ワイヤーから鉄骨がばらばらと外れだしたんだ。

 視線を下に落とした。如月がその直下にいた筈だ。

 如月はまだ気付いてないようだ。女の子と話し込んでいる。

「危ない!」

 俺は大声を出した。体が勝手に動く。如月たちの方に駆けていた。

「如月っ!」

 再び俺が叫んだ時、如月は気付いてこっちを振り向いた。不思議そうに見ている。

 数秒後、俺は如月とその友人の女の子を突き飛ばしていた。よろけた拍子に二人の女の子は道路側になんとか離れたようだ。

 だけど、俺はその勢いでバランスを崩した。尻餅をついて転んでしまう。

 俺は、その場に取り残されていた。

 ヤバイ。死亡フラグがダンスを踊りながら集団で迫って来るのを実感した。

 天を仰ぐ。三本の鉄骨が折り重なって落ちてくるのが見えた。真上だ。

 間違いなく自分のところに落ちてくる。俺が逃げられる時間はなさそうだ。

 これが重力定数九・八の効果という奴か。物理学と重力定数など糞食らえだ。

 全然現実感がない。死ぬときってこんなものか? 頭が真っ白になる。

 ただ走馬燈が出てこない。絶対おかしい。

 開始早々一人称主人公が死ぬからにはそれくらいあっていいはずだ。

「――おい、走馬燈出てこい。こんな時に出てくるもんだろ?」

 反射的に俺は屈んで、頭を後ろ手で抱えて小さくなった。

 ただ、俺が超能力者でない限り、そんなことで鉄骨から身を守れない。

 確か俺は超能力者じゃなかった。無理だ。

 ほぼ次の瞬間、鉄骨がぶつかる甲高い音が響き渡った。

 俺は目を閉じて衝撃に備えていたけど、周囲にその気配があるだけで、何も起きなかった。

 ――ひょっとしたら、俺って超能力者? そして、世界を救ったりするのか? 今俺は覚醒したって訳?

 俺は恐る恐る目を開けてみた。誇りと砂煙が収まってきて絶句する。

 俺の周囲を囲むように鉄骨が重なり合っていた。

 鉄骨は、俺を避けるように微妙なバランスで交差している。鉄骨まで十センチもない。

 ゾッとする光景だ。

 まるで背中に氷点下一八三度で沸騰する液体酸素を注ぎ込まれたかのような感覚だった。

 身体が硬直して震えることもできない。現実とは思えなかった。

 OK。とりあえず俺が超能力者でないことは理解した。

 だけどまだ安全にはほど遠い。重なっている鉄骨が今にも崩れそうに見えたからだ。

 慌てて身体を鉄骨の塊から逃れようとする。不思議と、身体が通り抜けられるスペースが空いていた。まさに俺様の普段の行いの良さが発揮された瞬間といっていいだろう。

 俺は、慌てて這うようにその鉄骨の側から離れて、安全そうな場所まで行くと、転げるように座り込んだ。

 そして数秒後のことだ。重なっていた鉄骨は、大きな音とともに地面に倒れ込んできた。

 さっきまで俺が倒れ込んでいた場所は、鉄骨が直撃していた。

「あのままでいたら助からなかった、のか?」

 その時になってやっと、自分が死んでいたかもしれないことを実感した気がする。心臓が破裂しそうなほどどきどきしていた。腰が抜けそうだけど、何とか立ち上がる。

 その場からゆっくり離れて、辺りを見回してみた。

 如月とその友達は、少し離れた場所に腰が砕けたように茫然と立ちつくしている。

 良かった。誰もケガしてないようだ。

 そして、しばらくすると、如月が泣きそうな顔でおずおずと声をかけてきた。

「た、高柳君、大丈夫? ひょ、ひょっとしてどこか怪我したの?」

「いや、俺は大丈夫だけど……」

「私たちを助けてくれたんだよね?」

 如月の言葉の後、その隣にいた女の子が冷たく言い放ってきた。

「キミが一番危なかったんだよ?」

 その言葉は来生瑠璃が発した。

 来生はクラスメイトで、席は俺の右隣だ。すぐ隣に座っているのにもかかわらず、俺は来生と話したことがほとんどない。来生は社交的な彩と対照的に、無口で、クールな女の子。というか、来生はクラスの中で浮いているような気がする。入学してから三ヶ月くらいたつけど、俺は来生をじっと見つめたことなんてなかった。

 ただ、不思議だけど、来生のことを今初めてちゃんと見た気がする。

 隣の席だというのになぜだろう?

 来生は、まるで人形のように整った顔立ちだ。ちょっとでも触れば壊れそうなほど儚い雰囲気を醸し出している。なぜか緊張するのが分かった。

 だけど、俺の心臓がバクバクなっているのは、たぶん来生を見つめたからじゃなくて、さっきの事故の後遺症だ。

 そして、来生の肌が不意に目に止まった。思わず手が伸びるほど真っ白な肌。そこには染み一つない。そして肌の色と対照的に黒々とした肩までの髪と申し訳程度の胸。

 いわゆる美少女と言っていいと思う。

 ――やっぱり変だ。自分の席の隣にいたのに、何でこんなにきれいな女の子のことを今まで気にとめていなかったんだ? 絶対おかしいだろ。これ?

 その瞬間理解した。教室で覚えた違和感の正体がこれだ。

 俺の視線を気にして、如月が割って入った。俺が、睨んでいると思ったんだろう。

 如月は来生と仲がいいらしい。今日みたいに、二人で一緒にいるところをよく見かけるから。正確に言えば、如月が来生に構っているっていう感じだ。

 如月は来生をあわてて制していた。

「瑠璃、助けられておいて、そんなことを言うものじゃないわ」

 如月の言葉に、来生はきつそうな目つきを隠そうともせずに俺に言い放ってきた。

「人を助けて自分が危ない目に遭うのって、自己満足だよ?」

「なっ――」

 何てキツイせりふ吐く子だ。俺はその言葉に絶句して来生を見るしかなかった。

 ――自己満足だって? 助けられた直後に言う台詞じゃないだろ?

 一瞬で俺が来生に抱いた好感が吹き飛んだ。

 それに、来生の瞳の奥に、なんだか冷たい光があるのがわかる。いったいなんだろう。

「考える前に体が動いていたんだ。仕方ないだろ」

「ごめんなさい」と如月は俺と来生の会話に割り込んできた。

「瑠璃は……、来生さんは別に悪気がある訳じゃないのよ。許してあげて」

「大丈夫。俺は別に気にしてないよ」

 そして、それからすぐに工事現場の人たちが駆け寄ってきた。

 そして病院での診察を含めて、それからたっぷり一時間、俺たちはその建設会社の関係者に拘束された。理不尽な気もするけど、一歩間違えれば俺たちは良くて大怪我、下手をすれば死んでいたから、そのまま帰すわけにはいかないんだろう。

 でも、とりあえず怪我がなかったこともあって、俺たちは解放された。

 そして、もう遅くなった時間、俺がみんなと別れて自宅近くの駅に着いて、駅前の横断歩道を渡ろうとしたときのこと。

 次の事件が起きた。


 渡ろうとした横断歩道のど真ん中に黒猫がいた。それがすべての原因だ。

 たぶんこの猫は、車の間をすり抜けて横断歩道を渡れると思ったんだろう。

 だけど、交差点で前の車をすり抜けようとした大型トラックが、猫の前に突然現れた。

 黒猫の正面だ。

 そのまま猫を引くかと思ったら、大型トラックは不意にハンドルを切ったらしい。

 甲高いスキール音がして、トラックのタイヤが空転する。

 黒猫は何とか避けられそうに見えた。

 その代わりトラックは、俺の正面に向かってきていた。思わず声を上げる。

「な、何で猫をよけて人間の俺の方にハンドルを切るんだよっ」

 だが、それが濡れ衣であることは黒猫自身が示してくれた。つまり、よりによって黒猫は、わざわざトラックの向かう方向に逃げてきた。つまり俺の方だ。猫をよけたわけではなかった。

 その運転手は人間より猫を優先する猫原理主義者ではなかったらしい。

 だけど、俺が安心出来るはずはない。コントロールを失った大型トラックが、ロックしたタイヤを滑らせながら俺に正面から向かってきていた。そして黒猫は一直線に俺の胸に飛び込む。

 猫を追って、目の前にトラックが迫ってきた。

 正面だ。避けられない。どんどんトラックが視界の中で大きくなっていく。

 俺が魔法使いでない限り、トラックから身を守れない。

 確か俺は魔法使いじゃなかった。無理だ。

 そろそろ走馬燈が出そうな予感がしたけど、やっぱり走馬燈はその役目を果たしてくれそうもない。俺の走馬燈は出来損ないに違いない。

 ほぼ次の瞬間、大音響がした。トラックが当たって大音響は出るほど俺は硬いだろうか。

 自分の硬度なんて測ったことはない。それは認める。

 だが普通の人間は自分の硬度は測らない。身体測定や健康診断で硬度なんて項目は見たことない。俺が責められる理由はないはずだ。

――ひょっとしたら、俺って魔法使い? そして、悪魔からこの世を救ったりするのか? 今、俺は覚醒したって訳?

 俺は恐る恐る顔を上げた。信じられない光景が現れている。

 俺の目の前で、トラックの正面がぐちゃっと潰れて俺の右端に移動していった。

 別な車がその大型トラックの運転席に横からぶつかってきたんだ。それが大音響の原因だったらしい。そして、トラックは俺の鼻面を掠める。俺は言葉も出せなかった。

 大型トラックはガードレールをぶち壊して、運転席が若干の未来、具体的には明後日の方向に向いていた。そして巨大な荷台が俺の目の前で横たわってる。

 そして間髪を入れずに爆発音が響いた。

 ゾッとする光景だ。身体の震えっていうのはこんなときに起きるものらしい。

 まるで背中に氷点下一九六度で沸騰する液体窒素を注ぎ込まれたような感覚だ。

 OK。とりあえず俺が魔法使いでないことは理解した。

 硬直していた俺は、その時やっと動くことが出来た。慌てて、数歩後ろに退く。

 そしたら、そのタイミングに合わせたように、金属音が連続して続いた。今まで俺がいた場所に大型トラックから、荷物らしい金属の板が落ちてきたらしい。もし動かずにいたら、間違いなく俺はその金属の板に押しつぶされて、控えめに言っても大怪我をしていたと思う。

 そして、黒猫はぴったり俺にくっついている。人懐こいというか、変な猫だ。

 そのまま俺はさらに後ろに退いて、状況を見た。

 重そうな金属の板を満載した大型トラックが横倒しになってた。そして、今まさに俺がいた場所あたりにその荷物を散乱させてきた。

 その大型トラックの運転席付近に、別の軽トラックが追突したようだ。

「軽トラックのおかげで角度が変わって、俺は大型トラックから逃れたのか?」

 信じられない。幸運なのか不幸なのか判断がつかない。

 しばらくすると、事故に気が付いた通行人が集まってきた。そして、黒猫は人混みが嫌いなんだろう。俺の腕からするっと抜けて、どこかに立ち去っていった。

 恩知らずな猫だ。まあ猫というのは自分勝手なものだと相場が決まってる。

 俺も面倒ごとに巻き込まれたくない。さっきの工事現場でもうこりごりだ。

 だから慌てて、その場から離れることにした。


 自宅っていうのは外界からの避難場所でもある。だから、家に着いたらもう何か特別なことなんてあるはずがないんだ。その日は、もう何にもない。そう思っていた。

 だけど、世界の糖度はそれほど高くない。俺は世界を一五BRIXほど高めに考えていた。砂糖の重量比として一五パーセントくらい世の中を甘く見ていたと言うことになる。

 遅めの時間に居間で夕食を待っていると、隣に座った姉の美香が聞いてきた。

「とっとと出しなさい。スクラッチ籤を――」

 当然のような口調に、俺は不機嫌に言い返す。

「あのさあ、どう考えてもそっちの方が暇だと思うんだけど、何で俺が美香姉のスクラッチを買う必要があるんだ?」

「そりゃ決まってるでしょ。思春期を迎えた男の子が、お姉さんが可愛いことに気付いて、女を感じはじめて、戸惑っているのを察した優しい姉が……」

 美香の長文の妄想が始まった。

 俺は面倒になってポケットからスクラッチ籤を取り出して目の前に放り出した。

「ほら。これでいいだろ? 後で代金よこせよな」

 美香は途中で遮られて不満そうだったが、渋々スクラッチを取り上げて目をむいた。

「幸太! これ一等一〇〇〇万の奴じゃない! 一〇〇万の方が当たりやすいから、私がそっちをいつも買ってること、知ってるでしょ?」

「そんなこと知るか。どうせ外れるんだからどっちだって一緒だろ?」

 俺はそう言い放った後、残された自分の分をみた。そっちは一等一〇〇万の籤だった。売り場で間違えて混ざっていたんだろうか。俺は面倒になってそれを掴んだ。

「ほら。じゃあ、こっちと交換するよっ」

 俺が投げたスクラッチをつかむと、美香は俺の前でひらひらさせて言った。

「なあんだ。ちゃんと大好きなお姉ちゃんのこと考えてるんじゃない」

 俺はその言葉を無視して美香に宣言する。

「後からもう一度交換しろなんて言うなよ」

「そんなこと言うわけないでしょ。姉を何だと思ってるのよ?」

「女ジャイアン。もしくはジャイ子。あるいは色気のない峰不二子」

 俺は事実を明確に表明した後、美香の反論を聞き流しながら、返品された一等一〇〇〇万のスクラッチを手に取った。

 ふとテーブルを見ると、招き猫が書かれた平べったい円盤がいくつか転がっている。スクラッチ籤を削るために美香が持ってきていたらしい。よっぽど楽しみにしているんだろう。

 俺は招き猫を一つ手に取って、しげしげ眺めて吹き出した。

「なんだこれ。この猫、左手を挙げてるんだけど?」

「招き猫が手を上げるのは当然でしょ」

「あのさあ、招き猫が左手をあげるのは人を招く方で、金運は右手なんだよ」

 俺が豆知識を披露すると、美香は真っ赤になって声を荒げてきた。

「う、うるさいわねっ。あんたはどっちだって結局外れるんだからいいでしょ」

 俺は肩をすくめてから、美香と交換したばかりの籤を一枚削ってみた。

 一枚目。猫が現れる。削ったマスで猫が三つそろった。三つそろうと当たりのはずだ。

「猫は何等だ?」

 ひっくり返して説明を確認する。

 三等五万円。

「え?」

 よく見てみる。確かに三等だ。

「どうしたの?」

 のぞき込んできた美香に俺は呆然と呟いた。

「三等が当たった……」

 次の瞬間、さっき交換したはずのスクラッチ籤全部を美香に奪われた。それはあっという間で抵抗するすべがなかった。俺が広げた籤全部を美香は両腕を広げて囲って奪ったんだ。

「交換よ。よく考えたら最初にこれをもらったんだから、可愛い弟の顔を立てなきゃね」

 そして、さっさと目の前にさっき渡したばかりの一等一〇〇万円の籤が置かれた。

「ありえないっ。ぶっちゃけありえないっ。何かんがえてるんだっ! この馬鹿姉! ふざけんなっ。さっき交換しないって言ったばかりだろ」

 俺の怒りを全く聞こうとせず、美香は嬉しそうに、俺が削った当たり籤をひらひら両親に見せつけている。

「あー、五万円なんて、何買おうかなっ。あ、幸太にもなんか買ってあげるね。百均で」

 その言葉を聞いて、俺は渾身の力を込めて全力で脱力した。

「女ジャイアンの本領発揮かよ」

 今までの経験上、もうどうもならない。

 むかつくけど、こんな経験腐るほどしてきてる。思い出したくもない。

 俺の失敗は不用意に当たりを宣言したことだ。

 俺の一生の運をこの馬鹿姉に奪われたかと思うと、悔しくて今夜は眠れそうにない。

 何とかコンビニで当たった商品券のことを思い出して自分を慰める。

 勝ったと思っているかもしれないが、その倍の金額を俺様は既に当てているのだ。

 そう思って俺は勝ちどきを上げようとしたけど、商品券と現金の違いは大きい。コンビニで買えるものなんて、せいぜい昼飯くらいだろう。それに比べて現金はオールマイティだ。

 全身を虚脱が襲う中、俺は絞りかすとなった運を頼りに、美香から返された一等一〇〇万のスクラッチを削りはじめた。

 一枚目。龍が現れる。削ったマスで龍が三つそろった。三つそろうと当たりのはずだ。

「龍は何等だ?」

 ひっくり返して説明を確認する。

 一等一〇〇万。

「え?」

 よく見てみる。確かに一等だ。

「どうしたの?」

 のぞき込んできた美香に俺は呆然と呟いた。

「一等が当たった……」

 言った後、はっと気付いて、全力で当たり籤を確保する。

 アインシュタインが述べた一般相対論によれば、光速に近い速度で移動した物体は時間の進みが遅くなるらしい。俺の素早い動きは、まさに時間を遅らせるのに十分だったようだ。

 世界の動きが遅れ始め、わずかの差で間に合っていた。

 美香の伸びた手は俺の背ではじかれている。俺が世界に起こした奇跡と言えるだろう。

「な、何よっ! その私の当たり籤、よこしなさいよっ。泥棒っ!」

「この馬鹿姉! ふざけんなっ。さっき交換したばかりだろっ」

「よく考えたら、後付けで交換するなんていけないことだと思ったのよ」

「どの面下げてそんな台詞が出てくるんだっ! 鏡を見てからいえっ」

 俺が怒鳴ると、その隙に当たり籤を前から伸びた手に奪われた。

「やめなさいっ。家族の争いになるくらいなら、当たり籤なんて捨てちゃうからっ」

 お袋が悲しそうな目で、俺と美香を交互に見た後、右手でクチャクチャにした紙をびりびりと破った。美香が思わず叫びを上げる。

「あっ、私の当たり籤っ」

「何が私の、だ」

 俺は冷ややかに言い放った後、お袋の方に向き直った。

「茶番はわかったから左手のスクラッチ籤返してくれ」

 俺は、お袋が籤を拾ってすぐに籤を持ち替えたのを見逃していなかった。破ったのは多分別の紙だろう。

「な、何を言っているのかしら? この子ったらやだわ。ほんとにやだわ」

 俺は無言でお袋の左手を押さえると、力尽くで手のひらを開いた。

 そこからぽろりと、当たり籤がこぼれる。それをすぐに拾ったのは親父だった。

「一等賞金一〇〇万か。さすがにこの金額は高校生に多すぎるだろう」

「そうよね。大学生くらいじゃないと――」

 勢い込んで言う美香を制した後、親父が宣言する。

「これはいつものお前の口座に預金しておく。大人になったときに……」

「あのさ、その預金口座、みたことないんだけど」

 俺の言葉に親父の動揺が見て取れた。重ねて言い放った。

「俺の口座、実はもう作ってあるんでそこに預金するよ」

「じゃ、じゃあ、この賞金の一割を家族全員で使うことにしないか?」

 そんな義理はない。だが、正直こんな醜い争いをみたくないのも確かだ。

 まあ別に何か買いたいものがあるわけじゃないし、みんなが喜んでくれるならそれもアリかもしれない。俺って、なんて家族思いで優しいんだろう。

「何がじゃあだか知らないけど、それくらいならいいよ」

 だが、その妥協はあっという間に突き上げられた。

「よし、では家族向けの予算は九割にしよう」

 どこぞの国のように、少しでも譲ると、あっという間にその要求が拡大する姿を俺は見た。日本人的な妥協は問題解決に役立たないらしい。

「何がよしだ。ふざけるな。勝手に俺の取り分を値切るなよ」

「では多数決を……」

「人のお金を多数決で分配すんなっ」

 俺は怒気を含めて言い放った。


 こんなに面倒ごとが連続で何度も続くなんてありえない。一体なぜだ。

 だが、当たり前のように、翌日も、俺は朝から面倒なものを見ることになった。

 駅から学校に向かうまでの通学途中で、女の子が別な高校の男子生徒に絡まれていたんだ。見覚えのあるやつもいた。そいつは札付きの奴らで、よくその辺で悪さをしていたと思う。近くの人はみんな見て見ぬふりをしている雰囲気だ。

「まあ、臆病なのが一番だよな」

 できるだけそっちを見ないようにして、そっと抜けようとした。

 だけど、俺は失敗したらしい。女の子と目が合ってしまった。その子は如月だった。

 その瞬間、俺は面倒ごとに巻き込まれたのを実感した。

 如月は、俺を見つめていた。救いを求めるように。

 俺だって正直言えば関わりあいたくなんてなかった。だけど、助ける以外の選択肢はなさそうだ。そうしなきゃ、俺の中の全米株が暴落必死だ。リーマンショックに数倍する影響を俺の周囲に与えるに違いない。脳内格付け機関が俺の行動を睨んで、今にも俺の格付けをAAAから投機レベルのBに落とそうとしているようだった。

 そして周囲を見て、辛うじて状況が理解できた。如月がスマホを落としたらしい。

 で、こいつらがそれを拾ったのに返さないようだ。

 男子生徒は全部で五人いた。如月を囲んでる。

 如月は健気に一番背の高いリーダー格の男に叫んでいた。

「やめてっ。返してくださいっ」

 だけど、如月をみて、そいつらはにやりとするだけだった。

 むかつく態度だ。だけど周囲を見渡しても、助けようとするやつなんていない。

「なんで、誰も助けようとしないんだ? 臆病な奴らだ。唾棄すべき輩め」

 俺がさっきまでの自分を心の中の一〇八段の棚の上に置いて小さく呟く。

 そして男の一人が嘯いていた。

「このスマホ、誰のだか分からないし、このまま渡すわけにはいかないな。もし返してほしいならちょっと静かな場所で話してからにしようぜ?」

「あなた、私が落とすところ見てたでしょ?」

「どうだろう? 覚えてないなあ。なんならこの辺の誰かに聞いてみなよ?」

 そいつらは誰も助け船を出さないだろうと確信してるみたいだ。

 俺は辺りを見たけど、みんな足早に立ち去る人ばっかりだった。

 腹を決めて、俺は如月のそばにつかつかと歩いて行った。そして、リーダーっぽいやつに向かって言ってやった。

「俺、それがこの子のものだって知ってるけど?」

「何だ? お前は!」

「その子のスマホなんだから、ちゃんと返してあげなよ。もし返さないんなら――」

 そこまで言いかけて、相手をじろりと見渡して、強さを推し量る。そして拳を緩めた。

「――今から警察呼ぶよ?」

 やっぱりこういうときの正義の味方っていえばポリスマン。俺じゃない。

 俺の言葉に、そいつは大声を上げた。

「お前には関係ないだろ!」

 俺はその声の大きさに気圧されながらも、何とか言い返した。

「近くの誰かに聞いてみろって、そっちが言ったんだろ?」

 その時、俺はなぜかちょっとだけふらついて、後ろに一歩下がった。

 ほぼその瞬間に俺がさっきまで立っていた場所にそいつの拳が飛んでいた。だけど俺が退いたから、拳は宙を舞っていた。

 それだけじゃなかった。そいつは空振りでバランスを崩して持っていたスマホを落としていた。

 チャンスだ。

 俺はそのスマホを拾おうと屈んだ。そして、携帯を拾って上半身を起こしたときに、俺は誰かの顎に頭突きをした格好になった。

「うげっ!」頭突きをされた男の悲鳴が響く。

 あたりを見渡してみると、どうやら別のやつが俺に掴みかかっていたみたいだ。だけど俺が屈んだせいで、身を乗り出す格好で体勢を崩していたらしい。そこに俺が頭突きをしたんだ。タイミングがいいというか悪いというか……。

「あ、ごめん。大丈夫?」

 俺が謝った相手は、顎に痛打を食らって七転八倒しているようだ。

 形だけ謝ってみたけど、なんだか雰囲気がすごい悪くなっている。リーダー格のやつが体勢を整えて、指を鳴らしていた。

 ヤバイ。危険だ。滅茶睨まれてる。話す事なんてないし、この場から離れた方がよさそうだ。

「スマホも返してもらったんで、それじゃあ」

 俺はそう言って、如月の手を引っ張ってその場を去ろうとする。

 そのとき、俺はアスファルトのどこかにつまずいたらしい。

 よろめいた拍子に、如月を突き放して、俺自身も転びそうになった。

 ふと気配を感じて、俺は後ろを振り返ってみた。

 そのリーダー格が後ろから殴りかかったようだ。だけど、俺がよろめいたから再び空振りをしたらしい。そして、そいつはその勢いで、ペンギンのようにぺたぺたと一回りした後、地面にぺたんと座り込んでいた。その様子があんまりコミカルだったんで、見て見ぬふりをしていた周囲の人が、くすくす笑い始めた。

 最初は真っ赤な顔をして怒鳴っていたが、結局、周囲の笑いにいたたまれなくなったようだ。

 そいつらはあきらめて早々に立ち去っていった。

 俺は如月にスマホを手渡して言う。

「これでいいんだろ?」

「うん。ありがとう。また助けてもらったね?」

 俺がしたのはスマホを拾っただけだ。途中ふらついたりしたけど、実際したのはそれだけだった。俺は首を振った。

「でも、別にたいしたことしてないし? それを拾っただけだろ?」

 俺の言葉に、如月は小さく微笑んだ。

「それだけには見えなかったけど? 本当にありがとう」

 そう言って頭を下げる如月の肩をたたく人がいた。来生瑠璃だ。

「またなんかやってるみたいだね?」

 俺は圧迫感のある来生の視線で貫かれた。ぞくっとする。

 如月はその言葉に頷いてから答えた。

「また高柳君に助けてもらってたのよ」

「ふうん」と来生は俺に向き直った。「昨日は、ボクの黒猫も助けてくれたそうだね?」

 俺は来生の言葉にびっくりして聞き返す。

「あの黒猫は来生の猫?」

 来生瑠璃は小さく頷いた。俺は、あの場に来生がいたかどうか思い出そうとした。だけど、どうしても記憶から出てこない。

「あそこに来生がいたのに気が付かなかったよ」

「ボクはその場にいなかったから、気が付かないのも無理ないよ」

「はあ? なにそれ?」

 話に違和感ありすぎだ。来生は、その場にいなかったって言ってる。

「いなかったのに、何で黒猫がいたこと知ってるんだ? 怪しすぎるだろ」

 俺はあきれるしかない。そして救いを求めるように如月の方を見たら、何の話だか分からないようだった。俺は簡単に説明してやった。

「黒猫が道路を横切ろうとしててさ。ちょうどその黒猫が、トラックにぶつかりそうになって、俺の方に逃げてきたんだ。それだけだ」

「何でそれで助けたことになるの?」

 如月の疑問はもっともだ。俺もそう思う。

 俺も肩をすくめて来生瑠璃を見た。来生はどうでも良いことのような口調で説明する。

「高柳クンのそばじゃなければ、ウィリアム・ウィルバーフォースは大怪我をしていただろうから。だから一応礼を言っておくよ」

「え? ウィリアム――って何だ?」

 俺が突然の飛び道具的な名前に戸惑っていると、来生は面倒そうに説明してくれた。

「ウィリアム・ウィルバーフォースは黒猫の名前だ」

「猫にしてはずいぶんと偉そうな名前だなあ」

 俺はそんなことを言うと、来生瑠璃をちょっとだけ見てみた。大きな目だけど、つり目できつそうな雰囲気を隠そうともしていない。髪の毛は真っ黒で肩よりちょっと長いくらい。胸はそんなに大きくなさそうだけど、やっぱりとっても綺麗な子だった。

 ただ、この子と付き合うのは、かなり大変そうな雰囲気を醸し出してる。あんまり話したことのないけど、絶対そうに違いない。なぜかこの子は微妙にやばそうな雰囲気を持っている。性格がきついのは論を待たない。俺は聞こえないように小声で呟いた。

『それに何で如月といつも一緒にいるんだ?』

 じろじろ見られた来生はちょっとだけ小首をかしげていたけど、すぐに踵を返すと、学校に向かった。如月と俺もその後を追った。


 その日、授業を受ける間、俺は如月と来生を交互にみていた。

「なるほど……」

 この二人の関係が何となくわかった気がする。

 いつもこの二人が一緒にいるように見えるのは、如月がいつも寄り添っているからだ。

 如月は来生が教室で浮かないように気を配っているように見えた。つまり、如月は来生の保護者的役割を担っている。

「学級委員って大変なんだなあ」

 ちょっと想像しただけで、あの来生瑠璃と会話を続けるなんてうんざりするのが明らかだ。

 俺は如月の苦労を思うと肩をすくめるほかなかった。


 その日は、たいした事件もなく、クラスの奴と馬鹿話をして、身にならない授業を受け、そして家に帰り着いた。そして、今度こそもう何にもない。そう思っていた。

 ドアを開けて中に入る。そこはいつもの自分の部屋だ。

 ベッドに身を投げ出そうとしたとき、不意に気がついた。

 ベッドの上に丸まっている黒猫がいた。

 その黒猫をじろじろ見ると、なんだか金属で出来た高そうな首輪をしていた。首輪には小さなポーチがアクセサリのようについているのがみえる。

 俺は窓を見てみた。窓は閉まってる。外から入ってきた猫ではない。そしたら考えられるのは、誰かが俺の部屋にぬいぐるみを置いたことくらいだ。

「ぬいぐるみ?」

 俺の言葉に丸まっていた黒猫が起き上がって、口を開いた。

「ぬいぐるみじゃない。失礼なやつだな」

「うわ」

 俺はつい大声を上げた。辺りをきょろきょろ見回して、誰が言ったのか探してみる。

 誰もいない。どこだ?

 いや、どう見ても猫のほうから声が聞こえた。すると、結論は一つだ。

 この猫は、ちょっと前に流行った、会話を楽しめるペット型のぬいぐるみなんだ。

 間違いない。

「誰がこんなぬいぐるみをこんなところに置いたんだよ? 親父が会社の景品でもらったのかなあ?」

 そんなことを考えていると、再び猫がしゃべった。

「だから、ぬいぐるみじゃないって言ってるだろう! 猫の話を聞かないやつだな」

「いや。猫の話を聞くやつなんかいたら、絶対どうかしてるだろ?」

 思わずそんな突っ込みを入れてみたが、まったく問題の解決にならない気がする。

 とりあえずばかばかしいと思いながらも、話しかけてみた。

「あのお、猫さん?」

 すると猫は俺の方をむいた。よく出来てる。最新の科学技術は魔法じみてる。すごい。

「あなたのお名前なんですか?」

 俺が七五調で質問すると、猫は重々しく答えた。

「私はウィリアム・ウィルバーフォースだ」

 その名前には聞き覚えがある。

「あれ、たしか来生の猫がそうだったような……」

 俺は混乱しながらも言葉を続けてみた。

「はじめまして」

 黒猫は前足をちょっとだけ舐めてから、頭を横に振った。

 猫が首を振るのを見たのは初めてだ。

「この姿でお前と会うのは三度目だ」

 黒猫の言葉に、瑠璃の言葉を思い出す。

「ああ、そういえば、この間の事故のときに会ったんだっけ?」

「その前にも会ってる。だがそんなことはどうでもいい」

 黒猫は肩をすくめたような動作をした。

 さっきから、首を振ったり肩をすくめたり、どう考えても猫として違和感のある動作しまくりだ。というより、猫に肩ってあるのか?

「お前、何か失礼なことを考えていないか?」黒猫は俺をじろっと見てから言葉を続けた。

「まあいい。瑠璃に命じられたので先日の件の礼にきた」

「何で礼? 俺、何にもしてないだろ? 来生にも言われたけど、どういうこと?」

「私は基本的に注意深い猫だが、あの時はある面倒な事情のために、もう避けられない状態だったのだ。あまり大それたことをするわけにもいかず、仕方なくお前のところに飛び込むことにした。お前は今『幸運の連鎖』の中にいるからな。案の定、うまくトラックはお前を避けただろう? お前がいなければ、私は怪我をしていたはずだ」

 注意深い猫。そして、考え事をしている猫。どれも初体験だ。いろんな猫がいるものだ。

 でも、やっぱり最初の疑問は、人語を解する猫に決まってる。

「あのさ」と俺は黒猫に話しかけた。「くろすけは、何で言葉が話せるんだ?」

 黒猫は、しっぽを逆立てて俺に抗議をしてきた。

「だれがくろすけだ! 私はウィリアム・ウィルバーフォースと名乗っただろう? 猫の名前はちゃんと呼ぶのが礼儀だぞ?」

 そんな礼儀初めて聞いた気がする。俺はとりあえず、折衷案を提案した。

「じゃあ、真ん中を取って、ウィルとかでいいか?」

 ウィリアム・ウィルバーフォースなんて長くて面倒すぎる。それに、偉そうだし。

「む?」といってその黒猫は小首をかしげた。「ま、まあいいだろう。二度とくろすけなどという下賎な名前で呼ばないようにっ」

 ウィルが憮然とした声で言う。俺はかまわず質問を繰り返した。

「で、ウィルはなんで言葉をしゃべれるんだよ?」

 ウィルは面倒くさそうな口調で答えた。

「そりゃあ、長く生きていれば、人語を解すようにもなるだろう?」

 俺はウィルをしげしげと眺めたけど、どう見てもそんな年の猫には見えない。

「そんな年には見えないけど?」

「私がそういったら、実際そうなんだ。いちいち疑うのは人間の悪い癖だぞ?」

 ウィルは偉そうに言った。確かに年季を感じさせる台詞ではある。

「長く生きられる理由っていうのは? 猫なんて寿命は一〇年くらいじゃないの? 去勢したから長生きなわけ?」

「去、去勢だとっ! 言うに事欠いてなんたる侮辱を発するのだ。一体何を考えているのだ?」

 そこまで一気に言った後、ウィルは何かに気付いたという表情に変えて続けた。

「いや、むしろ何も考えていないと言うことか。なるほど。物事に整合的だな」

「ちょっと待て。お前、俺を相当侮辱してないか? 俺は単に疑問を口にしただけだぞ」

「そもそも、何でもかんでもお前に話さなければいけない理由があるのかね?」

 ウィルは軽くあざ笑うように答える。俺はウィルをにらみつけた。

「俺に礼を言いに来たって言ってたよな? それくらい教えてもいいだろ?」

「む? そうであった。仕方がない」そう言って、ウィルは案外素直に話し始めた。

「私は、長寿命の猫族だ。ウィルバーフォース家は名家と誉れ高い家柄でな。私のように不老不死の処置を施されているものも珍しくないのだ」

「嘘付け」俺は言下に否定した。

「なんという失礼なやつだ。一言で否定するとは、何たる屈辱だ!」

 ウィルはしっぽを横に振って言った。俺は冷静にウィルに指摘する。

「しっぽを横に振りながら文句言っても怒りに説得力がないぞ?」

「ばか者っ!」ウィルは声を高めた。「お前、犬と猫を混同していないか? 猫は不満を示すときにしっぽを横に振るのだ! 犬のような下賎な存在と一緒にするな! そんな常識も知らんとは、話にならないぞ!」

 正直初めて知った知識だ。俺はウィルに言い返した。

「それって常識なのか? というか、そんな常識、猫の世界だけじゃないのか?」

「む?」ウィルは天井を仰いでからつぶやくように言った。「確かに、下々の人間どもの世界とは常識が異なるかも知れんな。ここのところ下劣な人間とはあまり話していないから浮世離れしたのか?」

「おい、ウィル、今なんかすごい失礼なこと言ってないか?」

「気のせいだ。それより、私は礼を言ったんだ。だから、私の頭とのどの辺りをなでるのが礼儀だぞ?」

 またよく分からない礼儀が出てきた。仕方がないので、俺はベッドに座った。そうしたらウィルは俺のひざの上に乗ってきた。

 頭とのどのあたりをゆっくりなでてやると、ごろごろと満足そうな声を出してきた。

「む。なかなか気持ちいいぞ。お前、実はテクニシャンだな?」

 ウィルは変なことをいってきた。コイツはダメだ。ダメなヤツだ。話になんない。

 コイツに突っ込んでまともな反応が返ってくるとは思えない。だから黙ることにした。

 俺が、背中の辺りからしっぽまで触ってやると、満足そうな表情をしていた。

 そして、十分ほどなでると、ウィルは満足したように言った。

「それでは、礼も済ませたし、これで帰る」

「おいっ。どこが礼なんだよっ? 俺がなでてやっただけじゃないのか? 猫は、それがご褒美になるのか?」

 するとウィルは突然思い出したように振り返って、俺に聞いてきた。

「そうだ。お前に聞いておかねばならん。お前が今一番欲しいものは何だ?」

「ひょっとしてそれが本当の礼? マジか?」

 やっぱり若い男が求めるものといったら、あれに決まってる。俺は勢い込んで続けた。

「やっぱ、いつも俺のことを考えてくれる彼女、かなあ?」

「俗物なヤツだ。聞いた私がバカだった。後に悔いると書いて後悔とはよく言ったものだ」

 ウィルは鼻で笑うようにそう言った。そして、ウィルは前足で窓を開ける。

 憮然としている俺を無視して、ウィルは「では」と挨拶してから外に出ると、礼儀正しく窓を閉めた。

「お、おい? 今ので終わり? マジで単なる世間話か! 俺の一番欲しいものを用意してくれるわけじゃないのかよっ? バカ猫めっ」

 俺はあまりの肩すかしに、毒づくしかなかった。


 翌日、いつも通りに登校した筈なのに、昨日と同じで、教室には早く着いた。寄り道もしなかったので、教室にはまだまばらにしか生徒がいない。

 教室の端に俺は来生瑠璃を見つけて、声をかけた。来生は俺の方を振り向いた。

「なに?」来生が無愛想な顔で、俺に聞いてくる。

「あのさ、昨日、ウィルがうちに来たよ」

 来生は一瞬不審そうな顔をした。そして『ウィル』っという名前の意味に気付いたらしい。興味なさげに口を開いた。

「ウィリアム・ウィルバーフォースのこと? 御礼に行くように命令しておいたんだ。ちゃんと御礼をしたかな?」

 俺はその言葉を聞いて苦笑した。

「お礼って、猫を撫でることだったんだけど」

 そして、俺は目下の最大の疑問を来生にぶつける。俺は来生に向き直って聞いた。

「あの猫、変じゃない? なんなの?」

「普通の猫でしょ? まあ、昔は第四位の――」

「人の言葉を話す猫が普通のはずが――」

 そう言い返そうとしてふと気がつくと、すぐ近くに如月彩が来ていた。そんな話をしているところを聞かれたら、紛れもなく純度百パーセントの純粋かつ高密度のバカ扱いされそうだ。

 だから、とりあえずその言葉は引っ込めるしかない。

 だが、そんな俺の気配りを一撃で打ち破る一言が来生から放たれた。

「そうだ。ボク、言っておかなきゃいけないことがあるんだ。キミのことを一生幸せにしてあげるから、ボクと恋人として付き合ってくれない?」

「は?」

 俺は一瞬何を言われたのか分からなかった。続けて来生に聞くしかない。

「ちょっとまて。一生幸せにするから付き合ってくれって、いくらなんでも女の子から言われるたぐいの話じゃないだろ? なんだよそれ?」

 さっきまで無愛想だったはずの瑠璃の頬が赤らんで見えた。

 そして、如月は俺と来生の会話を聞いていたらしい。

「えーっ? 瑠璃が高柳君と? いつの間にっ?」

 如月がビックリしたように叫ぶ。無理もない。俺だって叫びたいくらいだ。

 それは教室中に響き渡った。それは俺の意思とは無関係に、来生と付き合う既成事実化に極めて役立ったらしい。

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