名もなき少女の、今と過去 ~その1~
この世に生を受けてから恐らく80年が経とうとしている。
曖昧な表現だが、私がまだここに居るという事は大方間違いではないだろう。
椅子の背もたれに寄りかかりながら大きく伸びをする。パキパキと骨の関節から小気味の良い音が鳴る。ん~、と口から声が漏れ出るがそれを聞くものはどこにもいない。
伸びたまま体制を変えず脱力しながら、ふと視界の端にある本の塚を見やる。
本の隙間が光っていることに違和感を覚えるが、手を伸ばそうとして途中でやめる。
―――そういえばここに窓があったな。
想えばいつからこの窓を開かなくなったのだろう。日の光をもう随分と浴びていない。
ようやく脱力していた体を起こして、椅子にきちんと座り直す。窓を開けると思った?
膝の高さにある机の上には、窓の近くに塚を成している本と同じ分厚さの書物が二、三冊無造作に置かれている。表紙は痛みが強く、ページも所々切れかかっており、字も薄れていた。
自分が時の感覚を鈍くしていても、目の前の物は時間の経過をしっかりと刻んでいた。
この書庫に来た時は、こうも雑然していなかった。いつからこうなってしまったのか。
たしか…と思い出すように考え始め、無駄なことだと悟って思考を止めてしまう。
片目に当てていた手を下ろし、じっと見つめる。
机の中央にある光を灯す筒型の置物が、何も持たぬ手を照らす。白く艶やかに光を反射する、瑞々しい肌。分厚い本を手に取る時、いつも掴みきれなくて本を落としてしまうこの手が毎度イヤになる。当然、明かりの灯るこの筒も片手で持つことも敵わない。
―――もう少し成長すれば良かった。
本を読んだり書き物をする以外のこうした時間は、ほとほといつも考える事は同じだった。
ため息が深いものに変わっていく。
若々しい身体というのは確かにいいけれど、自分が求めていた理想の女性の姿でないことは確かだったからだ。
若々し頃の過ちを睨み付ける。それは反応するように筒の中の明かりを揺らす。
―――『クライメント・アガナスカル』
彼女が名付けるそれは、机から本一冊分浮いた状態で二重のリングが透明の筒を中心に回転している。透明の筒の中にはクリスタルの結晶が粒状になって入っており、クリスタルは中央に集まっては離れるを繰り返している。
これを作ったのは12の時だ。
その時の事はよく覚えている。唯一思い出せないことと言えば自分の名前くらいだった。
あの時、私は死ぬことが怖かった。
戦争。
この言葉に、その災禍に私は恐怖した。
耕した田畑が。野に駆ける動物を追いかけた森が。顔を合わせるたびに麦や果物をくれた大人たちが。私の大好きだった村が、なくなった。
土が穿たれ、形ある物は燃えて灰になり、愛する父と母は私を残してこの世を去った。
なぜ。
私の村は前線に近かった訳でもなければ、重要な物があったわけではない。どこにでもあるただの村だった。
それなのに。
たった一人の人間による謀略によって、 長閑だった私の村は戦場と化し。
私は、日常のすべてを失った。
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少女はその日、隣街へ魔法を習いに出かけていた。
月に一度、王都から国家魔導士が街へ降りてきて魔導士育成の為、魔法の基礎を教えてくれるのだ。
それも三日間連日で。
少女はいつもこの日を心待ちにしていた。
―――新しい魔法をまた教えてもらえる。
そんな単純なことにうきうきしてしまうほど魔法が好きだった。
魔法を使った時のキラキラと散る燐光が好きだった。そして、難しい魔法ほどその燐光は輝きを増す様に見え、少女は励んで勉強していた。
隣街へは子供の足で早朝から日が高くなるほど遠かった。だから、街に住む親戚の家に泊まりがけで通っていた。
夜。
一日目の授業を終えた少女は早々に食事を済ませ、叔父と叔母におやすみの挨拶を済ませ借りた寝室で本を読んでいた。
その日は夏だというのにすこし肌寒い夜だった。いつもは夜風を取り込んでいる小窓はすでに閉められている。
夜更けまで書物を読んで呪文の練習をし、遂に睡魔に勝てなくなってベットに横たわって、それから。
外から、いや家の中からも響く騒々しい音で少女は目を覚ました。
「* * * *!* * * *!!」
部屋のドアが開いたのは、目をこすり騒々しさに顔しかめて身体を起こした時だった。血相を変えて部屋の中に駆け込んで来た叔父がドアに掛けていた手を放して、その手で少女の腕を掴むとベッドから引きずりおろした。
「先程から呼んでいるのになぜ来ないんだ、まったく!来なさい、急いでここを出るぞ!!やつらがここまで来た」
言われるまま。牽かれるまま。少女は疑問を口にすることもできず、ただただ混乱していた。
強く握られ引っ張られる腕がとても痛くて、少女の意識は無理やり現実に引き戻される。
―――急ぐ?逃げる?奴らって?
叔父にグッと引っ張られるたびに少女は前のめりになり、セミロングの髪が不規則に揺れ頬を叩く。
そうして何もわからないまま部屋から連れ出されると、一階の部屋に荷物を抱えた叔母さんの姿があった。僅か数本だけ蝋燭を点した部屋は外から夜の光が入るほど暗かった。そこに居た叔母は私たちに振り向きもせず後姿だったが、窓ガラスに反射する表情は今までに見たことがないほどの動転ぶりだった。
そしてそのまま叔父に牽きずられる様に階段を下りる途中で、初めて外の様子が目に映る。
「―、――っ!」
叔父の手を強引に振りほどき窓へ駆け寄る。
真夜中。
―――なのに、これはなに?
そこには。
皆、叔母と同じように荷を背負い、或いは馬車を牽いて街の奥へと駆ける大勢の人たちであふれかえっていた。
「叔父さん、叔母さん!どうしたの?いったい何があったの!?」
「戦争だよ。近くまで敵が来たんだ!国境からは大分離れてるのに。ったく、内地にまで侵入されているなんて軍隊は何をしてるんだ!」
少女には一切目もくれず、荒げた声を矢継ぎ早に飛ばしてくる。
戦争。その言葉に無意識に肩が跳ね上がる。
外から聞こえてくる喧騒からは子供の泣き声も大人たちの怒号も交じり合い、それが一緒くたに少女の耳朶に触れる。
ようやく焦燥に駆られてきた少女は、急いで部屋へ駆け戻ろうとし―――。
「* * * *、どこいくの!早くこっち来なさい!」
叔母が少女の後ろ姿に怒鳴りつけてきた。
優しい叔母から初めて聞く怒声に、階段へ足を掛けたところで歩みが止まってしまう。
「で、でも叔母さん。私、本が。それに―――」
大事な物があるの。と言葉を続けようとしたところで近づいてきた叔母に右の頬を強く叩かれた。
少女はよろめき、階段の手すりへ縋るように体勢を崩してしまう。そこへ、またしても先程と同じように腕を強引に牽かれ立たされる。
「いい加減にしなさい!命より大切な物なんてありはしないでしょう!我儘に付き合ってる間に戦争に巻き込まれたら終わりなの、分かってちょうだい!」
「―――、………。は、い」
「おい、もういくぞ!早くこれを持て。王都へは行けなくとも、これだけあれば二つは町を越えられるだろ。できるだけ王都へ近づくんだ!」
赤く熱のこもった頬を抑える少女を叔母は苛立たしそうに眼をやりながら、そんなことを言ってくる。少女は何かを言おうとして、だけど小さく返事するだけに留まった。
ロビーの隣の部屋から出てきた叔父は少女へは一瞥もくれずに荷物だけを渡し、先に喧騒の飛び交う外へと出て行ってしまう。
叔母も近くにあった大きな荷物を背負うと叔父の後へと続く。少女も荷物を背負い続こうと足を踏み出そうとして、止めた。
大事な物―――お父さんから貰ったペンダントが、机の上に置いたままなのだ。
エメラルドに輝くあのペンダントは、父と母が私の10才の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。自信がない時、不安になる時、元気がない時、いつだってあのペンダントを握りしめると自然と心を落ち着かせてくれた。どんなよりも大切な宝物を少女はどうしても置いていくことができなかった。
「なんてこと!あなた、待ってください!あの子が部屋に」
「ばかものっ!!* * * *、戻ってきなさい!時間がないんだ、言うことを聞きなさい!」
扉の外から聞こえる声に少女は振り向きもせず、先程までいた寝室に戻ると机の上に置かれたペンダントを見つける。
駆け寄って手に取った後、すぐさま踵を返して叔父と叔母の元へと向かう。二人からは後で存分に怒られよう。そして、しっかりと謝ろう。そう思った。
だが、その機会は訪れることはなかった。
一階へ続く階段を降り切った直後、外から強烈な光が少女の視界に飛び込んできた。次いで耳を劈かんばかりの、金属を引き裂くような高音と轟音が彼女を襲った。
突然の事に目を瞑った少女が目を開けたのは、それから少ししてからだった。
ゆっくりと開ける目に瓦礫が散乱した室内の様子が映し出される。
窓枠や扉は建て材から根こそぎ無くなり、もはや家と外ととが曖昧になるほど崩れていた。
少女はと言うと、部屋の奥の壁に背中を叩きつけた状態で横たわっていた。右の手にしっかりとペンダントを握っていたのは単なる偶然だろう。
光と音に包まれた時、彼女は咄嗟に防御魔法を行使していた。それによって体へのダメージを何とか軽減させられたようだったが、それは完全ではなかった。片手で目を覆っていた為、塞ぐことが出来なかった右耳の鼓膜は破け、音を失い、平衡感覚が定かでなかった。飛散してきた瓦礫に打ちつけられたのだろう体は所々に打撲の痕があり、動くたびに痛みで顔をしかめてしまう。
所詮、10を過ぎたばかりの子供ができる初級魔法。
命があるだけでも儲けものだろう。だが、少女はそんな感慨には至らず、すぐさま家の前の通りへ歩きだした。視界の先に飛び込む光景を確認しなければいけない。そんな使命感にも似た一種の焦りが彼女の体を無理やり動かした。
ふらふらとよろめきながら駆け、叔父と叔母が待つ通りへ辿り着く。
そして、目に飛び込んできたのは部屋の中から見えた瓦礫の惨状よりも酷い光景だった。
綺麗に敷き詰められていたはずの石畳の通りはその全てが消失し、石畳の下に眠っていたであろう土が溶け出す様に赤く燃えていた。そこに人の姿は何処にもなかった。
―――これは夢なの?
脳裏にそんな言葉が浮かぶ。それでも跡形もない光景が少女の心を騒がせる。
少女は嫌な想像を振り切るように首を左右に振り辺りを見まわした。
「…………そん、な……」
その後の言葉は出てこなかった。
身体の力が抜けて意識が遠のく錯覚に襲われ、思うように呼吸ができなくなる。その場に崩れ落ちそうになるのをどうにか堪える。
被害は、この家の前だけではなかった。右から左、街を一直線に貫くように同じ光景が続いていた。
向かいに見えたのは家から三、四つ離れた場所にある時計台広場。
それは普段なら見えるはずがない。だが、その広場までの間にあったはずの建物が、すべて消失していた。
―――なに、これ。
咄嗟に振り返って一階、二階へと見渡す。
「!っ、叔父さん!?……叔母さんっ!どこ、何処にいるの、っげほ、けほっ……!わたし、ここ……に、……いる、よ」
破壊の熱によって舞い上がる塵を吸い込み咳をしながら必死に家主の二人を探す。だが、返ってくる声は無く、少女の言葉は尻すぼみになってゆく。
身体を縮こませながら床に腰を下ろし、縋るように両手でペンダントを握り胸に抱く。
冷静でなくとも分かってしまう。この光景そのものが叔父と叔母の死を告げている。
『戦争だよ!近くまで敵が来たんだ!―――』
叔父の言葉が耳に蘇る。
―――これが、……戦争。
目の前で起こったあの光の中で逃げる事も出来ず、一瞬のうちに灰と化した叔父と叔母を想像してしまい、どうしようもなく体が震えてしまう。
比喩なく大地が穿たれた光景は、少女の心に恐怖の闇を作った。
消え去った街並みからは、むせ返るほどの焦げた臭いと塵が熱風となって少女の髪を攫う。それでも寒さに凍えるように体を抱く少女は、動けないでいた。
身体中に走る痛みは本物で今も強く打ちつけた背中が鈍い痛みを発している。
―――夢じゃない。
それにもかかわらず、受け入れる事ができない。
―――……こんなことありえない。おかしいよっ!
未だ熱を帯びる地面から風と共にその温度が伝わってくる。現実はすぐそばにある。
だが。
戦争を、死を連想しながらもこの状況が常軌を逸していて、彼女の感覚を鈍らせていた。叔母や叔父にあれほど強く握られ引っ張られた腕を撫でてみるが、小さく震えるそれは自身に虚無感を与えるだけであった。
明かりを失った部屋には、壊れた家屋のすき間を縫って月の光が射しこんできている。月光が握りしめていたペンダントを反射し鈍く光った。
叔父はこうも言っていた。
『国境からは大分離れてるのに―――』と。
少女たちの国は隣国の一つと領土を争い、戦争が続いている。しかしそれは、ここよりもさらに遠く離れた国と国との境目での出来事。私の村もこの街も、日夜激しさを増す紛争地帯からはもっとも遠く、王都に近い場所にあった。
それなのに戦争に今、巻き込まれている。
―――お父さんとお母さんが危ない!
そうだ。それはきっとここだけじゃない。だって少女の村は、半日も経たないほどの距離にあるのだから。
途方もない不安が脳裏によぎり、不安が胸を締め付ける。ようやくこの異様な出来事が現実味を帯び始めた。
少女は思い出したように立ち上がり、傷だらけの体に鞭を打って歩き出した。裏の勝手口を使い、外に出て独り、生まれ育った村に向かって歩を進めた。
夏。
陰る空から月明かりが零れる。
熱気を孕んだ街は人々の恐怖の炎に燃えていた。
・~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~・
暗がりの部屋に唯一灯る光。
それを辿ると、机の上に砂時計の様な形の光源にたどり着く。
少女はそれを"クライメント・アガナスカル"と呼んでいる。
中で付かず離れずを繰り返す水晶の内の一欠けらが、輝きを失ってガラスのそこへ落ちる。
彼女はその様子を眺めため息をつくと、机の本を一か所にまとめてスペースを開ける。そして徐に片腕を虚空に突き刺した。
虚空へと突き刺した腕の先は、光の歪みに阻まれその先が消失している。
彼女はそれがいつもの事の様に腕を引き抜くと、手にはティーセットが提げられていた。
手慣れた様子でティーカップに紅茶が注がれ、湯気とともに果実の甘い香りが広がる。
気を落ち着けるようにその香りに浸るが、少女の表情は依然として和らぐことはなかった。
ため息を飲み込むように小さな口に紅茶を流し込む。
―――まだ。
「まだ、わたしはここに居なければならなのか」
狭い部屋にうず高く積まれた、いくつもの本の塚。
想いを馳せるその目に何が映っているのか。
それを知る者は誰もいない。