先生と私
「これからもわしなりの考えでしか、お前たちに向き合えないだろう」
母と私に向かい、期待はするなと父が言う。彼が予防線を張るのは、未来が怖いからかもしれない。
「充分だよ。父さんが家族と向き合って関係を築こうとしてくれるだけで。私も自分なりの考えでしか人と向き合えないよ。それはきっと悪いことじゃない」
「娘たちは、こんな親の元でもしっかり成長していたみたいです」
誇らしげに父が言った。
不満ばかり理不尽な環境だと思い込んでいたが、私は進む道を選択できた。病院に入院させてくれたことも含め、彼らが機会を奪わなかったからだ。それがどれだけ幸せなことか。
気付けば、ずいぶん長く話込んでいた。先生が、口を開いた。
「僕は小野田さんが悩みながら、経験を得て変わるさまをつぶさに見てきました。死にたがっていた小野田さんが、自分を愛せるようになったのは奇跡だと言えます。これからも困難があるでしょうが、ようやく峠を越えたと思います」
「先生、本当に?」
「辛い治療に真摯によく向き合ってきたね。一区切りだよ」
「ありがとございます」
父と母も深くお辞儀をした。
「先生、これからもよろしくお願いします」
私は姿勢を正す。
「こちらこそ」
柔和な笑顔を先生が向ける。家族との面談が終わった。
「幸、体に気をつけて。今度は美幸も一緒に会いに来るから」
母の言葉に頷く。
「今度飯でも食いに行こう」
「それはまだ無理」
父は残念そうだったが、大きく手を振って部屋を出て行った。
両親が退室したあと先生が鍵を閉め、ナースステーションへ向かっていく。その背中をじっと見ていた。
ベッドに座り、大学ノートを見ながら思い出している。
「先生、いつか過去を越えることは出来るのでしょうか?」
初めて期待を込め尋ねた日を。こんな濃密な時間を過ごすことはもうないのかもしれない。
病院で出会った人たちのおかげで、進んだり戻ったりしながら人としてのスタート地点に立てた気がする。
電話が鳴った。健一さんからだ。心配していたから、連絡をくれたのだろう。
「幸ちゃん、家族面談どうだった?」
「健一さん。決裂せず無事に終わりました。電話ありがとうございます」
「本当によかった」
これまで出会った人々の顔が浮かんでくる。
「みんなのおかげです」
「そうだね。でも一番は幸ちゃんが変わろうとしたからだよ」
「健一さん、ありがとう。嬉しい」
「真実だよ。あと就職先が決まりました。近いうちに君に会いに行くよ」
「え」
電話を落としそうになる。
「おめでとうございます。健一さん凄いです」
「幸ちゃんに一番に報告したくて」
じわりじわりと満たされていく初めての感覚。
「私、幸せです」
「幸ちゃん、もっと幸せになろう」
「はい」
ためらわらず答えられた。
もうすぐ夏が来る。髪を結う練習を始めようかと、サイドテーブルに置いた美幸のバレッタを見ながら思うのだった。




