懐かしい笑顔
「お母さん、話合いってどういうこと?」
実家では、父の一存で物事が決まってきた。彼は、美幸はおろか母の意見も聞かなかった。
「幸が入院して一年。家の中がぎすぎすして、私たち気が付けば毎日のようにぶつかるようになっていた。お父さんはいつもイライラして、美幸に当たり散らすようになってね」
黙り込んでいる父の隣で、母は淡々と話した。
「美幸と会ったときに、父さんが不安定になっているから辛いと聞いたよ」
「ええ。美幸が父さんから酷く扱われるようになってしまった。幸が当たり散らされていた頃がよみがえってきたのにどうすればいいか、恥ずかしいけれど母さんわからなかった。すぐに美幸を守れなかった。父さんに逆らったり、意見するのはこれまで考えられなかったから」
母らしいと思った。彼女も私たちが傷つくのを平気でみていたわけではないのだ。父に逆らえないのは母に染みついた拘りなのだと思う。
「美幸も母さんもきつかったね」
母は首を振り、父は床を見ていた。
「幸の苦しみを考えれば、辛いなんて言えないわ。あなたとの面会をきっかけに、美幸が変わって、父さんに反論したの」
「美幸が?」
私たちの関係は変わりつつあったが、まさか父に意見するなんてすぐには信じられなかった。
「美幸から口酸っぱく言われたよ。わしは色々なものから目を背けて逃げているだけだと。わしは、強い人間になりたかった。自分は立派な人間だとまだ思っているかもしれない。そこらの奴には負けないとな。だがお前が居なくなって、不安で眠れない日が増えた。ギャンブルに逃げたが、大勝ちしても心の穴は埋まらなかった。わしには、家族の心の動きすらわからないんだ。気持ちを想像することもしてこなかった。その結果苦しむのは自業自得なのかもしれないな」
父がばつが悪そうに言った。
「父さんの生き方を理解できる人はあなただけだと思う。一つ言えるとすれば、私も不都合な事実から逃げていたんだ。家族の中で浮いていたことも、高校で居場所を作れなかったことも自分に原因があるとは考えていなかった。でも人との距離の取り方とか、拘りを通そうする我の強さとか、入院しているあいだにどんどん違和感を感じるようになったの」
どんな風に私の言葉を捉えたのだろうか。父の表情は普段と変わらないようだが母は、彼の掌を握ったままだ。わかっているつもりだったことを、わからないと認めることはとても難しい。それは私が入院し身をもって知った。
「人の心をわからないのは私だって一緒」
「幸」
彼は私の顔をぽかんと見ていた。
「私もわからないことがたくさんあってその度に大きな壁を感じて歯痒くて、泣きたくもなったよ」
「そういうものか」
父は、考え込んだ。以前は人の言葉に耳を貸さなかったのだが、彼も変わった気がする。
「二人とも優しい娘だったのに、私たちが追いつめてしまった。姉妹の関係を歪めてしまった。本当にごめんなさい」
私たちがという言い方に母の変化を感じた。彼女は、子供が困らないように常に目配りをしてくれたが、それは父の意志に反しない範囲でだった。
彼女からは主体性が感じられなかった。だから私は母に助けを求めることを諦めてしまった。だが美幸は諦めずに、両親にぶつかったのだと知り胸が熱くなった。
「美幸には敵わないな」
「ふふ、二人とも同じことを言うのね」
笑った母は、記憶の中で一番いきいきとしている。
「母さん変わったね。なんだか柔らかくなった気がする」
「そうかもしれないね」
母は笑った。
「私たち家族という関係に、今まで甘えて生きやすい方に流れてきた」
彼女は、はっきりと言った。その言葉は胸に刺さった。
結論に至るまでに、彼らはどのくらい悩んで話し合いや喧嘩を繰り返したのだろう。長い間心にあった毒を持つ棘が抜けた気がした。
「わしらは距離をとるべきだという結論に至ったのだ」
相変わらずの傲慢な父の物言いだったが彼は笑顔だった。
それは懐かしさを運んできた。




