写し鏡
ようやく彼は私の目を見てくれた。
「父さんは、決して親愛の情を持てる人ではなかった。あなたがいなければと何度も思った」
長い間我慢して言えなかった思い。父は、私の言葉に狼狽えたていた。一緒に住んでいた頃なら、すぐに怒鳴られ殴られていただろう。怒りのせいか顔は赤くなり、隣にいた母が彼の震える手を握っている。
雨が打ち付ける音だけが室内に響いていた。どのくらい時間が経ったのか。私にはとても長く思えた。やがて口元の曲がった頑固そうな初老の男が口を開いた。
「幸、わしは悪い父親か? お前が生まれたときもギャンブルにかまけて立ち会うこともしなかったな。だがわしはお前が生まれて、初めてこの腕に抱いたとき愛しいと心から思った。しばらくはお前にかかりっきりだったよ。柄になくカメラを買って、母さんと一緒にアルバムを作ったな。近くの海岸へ行ったときは、お前が浮き輪ごと波に流されて肝を冷やした……。思い出せるのは、お前が覚えていないような幼い頃のことばかりだな」
父は、うなだれていた。そんなこともあったのかと私は驚いた。
「父さん、私のことを可愛いって思ってくれたこともあったんだね」
言葉は静かに積もる。
「幸が居なくなってから、淋しかったよ。こう思ってきた。家族を食わせて養ってさえいれば立派なもんだとな。わしの生家は貧しくて白米の代わりに芋ばかり出てきたものだ。だから、お前や美幸には経済的に不自由をかけまいと必死で働いてきた。食わしてやってるのだから、一番偉いのはわしだ。間違っているか?」
『一番偉いのはわし』父の根っこは変わらないかもしれない。だが、私の言葉に初めて応えてくれた。諦めず言葉を続ける。
「たしかに経済的な不自由さを感じたことはなかった。それがどれだけ恵まれた環境だったか、やっと気付けたよ。自分の弱さにも。私、父さんだけを悪者にして、見たくないものから逃げてたよ。父さんがいなければ、路頭にすぐ迷うことすら理解できていなかった。色々あり過ぎたから、受け入れられない記憶もたくさんあるけど、感謝してる」
「感謝か。お前は大人になったんだな。それにくらべてわしは変われない。わしは外の人間とはうまくいかん。一歩家から出れば、ほとんどの人間が敵だった。わしの力を認めない職場の奴ら。いつも苛立っていた。家では一番わしは偉くて……。出来のいいお前に当たり散らして、プライドを保ってきたのだと思う。許されないとわかっていたのに、止められなかった」
父は下唇を噛み締める。こっちが見ていて痛みを感じる姿だった。
「父さん、どうしてだろう私も他人とうまくやれない性分なの。自分や他人の気持ちに疎くて、それは家族に対しても変わらない。癇に障る原因はそれかな。美幸と比べると、家族に歩み寄ることもなかったよね。腹を立ててばかりで、お父さんが置かれている立場を、一度も考えなかった」
私たちはお互いが写し鏡なのだ。先生と母は、私たちのやり取りをじっと聞いていた。
「わしは、いつのまにかひどい父親になっていたのだな」
父は後悔の言葉をこぼした。それがスイッチになり、私はこれまで我慢していた思いが溢れ、抑えられず、いつしか泣きながら叫んでいた。
「父さん。父さん。父さん。辛かったの。私辛かったんだから」
地団駄を踏む。振動でパイプ椅子が『ガチャガチャ』と揺れる。
「幸!」
父と母一緒に立ち上がり、身を乗り出した。
「小野田さん」
見守っていた長谷川先生が、すぐ側に来て、私の両肩に手を置く。
「ゆっくり深呼吸して。吸って吐いて、吸って吐いて」
「うぇ、え、おぇ」
感情のうねりに身体が追いつかず、吐き気をもよおし、えづく。
「小野田さん、水飲もうか」
先生が内線で連絡し、ほどなく看護師さんが水を持ってきて来てくれた。プラスチックのコップを手に取り、ごくんごくんと飲み干した。みんな私の状態が戻るまで待っていてくれた。
「先生、ありがとう。だいぶ落ち着きました」
「うん。よかった」
先生はゆっくり離れ、青ざめる両親に『大丈夫ですよ』と伝え、座るよう促した。
「すまなかった」
頭を下げた父の薄い頭頂部を見て、何もかもが、昔のままではないんだと感じた。謝罪を受け止められるほど、私は成熟していないが、彼だけの責任にするほど子供でもなかった。
「お父さんだけが、悪いわけではないし。何かのきっかけでいつか私は爆発していたと思う」
「幸よ」
父の目が赤い。彼が自分の非を認めたことが信じられなかった。謝ってくれたことだけで、私は救われたんだと思う。今、交わるはずのない平行線が一瞬交差したのだ。
「もう一緒に住まない方かいいな」
父が言い切る。
「私退院しても実家に戻らなくていいの?」
父も母も妹も、私が戻ることを望んでいると考えていた。母が、口を開いた。
「美幸も一緒に、幸のために何ができるかを話し合ったの」
彼女は、穏やかな顔をしていた。




