日常
作業所と病棟を往復する日々が続く。変わらない私の日常。
少々変化があったとすれば、美幸から時おり高校生活、父への接し方について相談のメールがくるようになったことだ。
美幸が、友達と美味しい喫茶店を見付けてパフェを学校帰りに食べたとか、勉強が難しくて大変だなどとメールを通じ飾らない文章で日々の生活ぶりを教えてくれる。いつしか彼女からのメールが楽しみになっていた。
面会前には考えられなかったが、私たちはいがみ合っていた日々をゆっくり取り戻しているのかもしれない。
今日もベッド脇のサイドテーブルに飾ったクリスマスカードを見ながら、健一さんから送られたメールを読む。
『幸ちゃん、こんにちは。元気にしていますか? 僕は、強迫神経症のリハビリに通いながらバイトに通う日々です。この頃は、汚れに意識を集中し過ぎることをずいぶん我慢できるようになりました。気を逸らすのは難しいけれど、苦戦しながらも前に進めている気がします。幸ちゃんは困ったことはないですか?』
『健一さん、いつもリハビリ頑張っていて励まされます。私も作業所で、休みたくなる日もありますが踏ん張って通っています』
日に数回の短いやり取りであるが、彼のメールは私の心を落ち着け、また鼓舞した。
窓際から桜が散り葉桜になったのを眺め、もうこの病室に入院して一年経ったことを実感した。水上さんがいつものように連絡に来た。
「小野田さん、おはよう。長谷川先生が近いうちに面談をするって仰っていたから都合のいい日を教えてね」
先生や水上さんとの付き合いも長くなった。いつも側で、励ましてくれた水上さん。くったくがなく、明るい彼女。
「水上さんがいてくれて良かったです」
「どうしたの? まだ、お世話するけんね。あなたが退院するまで、私に出来ることはさせてもろうけん。安心してね」
退院の時期はまだ分からないけれど残りの時間を大切にしたかった。
******
白い壁に囲まれた狭い面談室。先生と向き合う。もう何度目だろう。
「小野田さん、こんにちは。妹さんと面会したそうだね。大丈夫だった?」
先生は気遣ってくれた。
「結果から言うと話してみて良かったです。会うのが怖かったけれど、妹も苦しかったことを初めて知ることが出来ました」
「あなたは、ほんとに出会った頃と変わったね。僕は何度も言ってきたけれど」
先生に「変わった」と言われて、私はその言葉を反芻してきた。
『変わった』欲しかった言葉。これまで自分の殻を破りたくて足掻いてきた。
「先生も知っているように、私ずっと変わりたかったんです。もっと劇的な事件が起こって、人は変化すると思っていました」
自分を変えたいという気持ちはとても強いものだった。彼に「変われますか?」と尋ねたときには続いていく日常の中で、自分の変化を感じるとは考えもしなかった。
「そうだね。もちろん大きな出来事も重要だよ。でも実際は、ささやかな日々の中で自分の力不足に悩んだり、迷ったり、悲しんだりして人は形作られていくんじゃないかな。日常って大事だよ」
先生は達観しているようだった。私は改めて振り返る。
「入院してしばらくは自分のことが嫌いでした。一方でとても執着していたんだと思っています。これまでの経験から、装った自分しか信じられませんでした。素の自分を出してしまったら、嫌われて全てを失うと思い込んでいたんです」
「そうだったんだね」
「この一年、たくさんの人との関わりの中で理解できた気がするんです」
「どんなことを理解したの?」
優しく尋ねられた。
「自分の嫌なところが目につき過ぎて、人に受け入れてもらえるところがあるんだって気付けていなかった」
「うん」
頷いた先生の表情は、にこやかだった。
「自分が頭から拒絶していたから、人の好意に気付けていなかった。閉じた世界にいたのだと思います。自分が生きていてもいいと、実感できるようになるまで時間がかかってしまいました。もったいないことをしたと思います」
病院に入院したことで考え方の癖に気付き、一人では決して見つけられなかった場所へたどり着いたことを実感していた。
「もったいないことをしたか」
私の言葉を繰り返した先生は嬉しそうだった。
「そんなに変わったこと言ったかな?」
首を傾げた。
「小野田さん、前向きな後悔をするようになったなって。とてもいい兆しだ」
面談中は冷静な先生が、珍しく日向のような表情を見せた。私は体の中から嬉しさが溢れ笑顔になった。
「前向きな後悔。不思議な言葉、面白いですね」
先生は穏やかに頷いてくれた。彼は、私の心の動きなんてお見通しだったと思う。それでも毎回、面談のたびに決めつけずに接し続けてくれた。患者の心に寄り添ってくれる先生。患者と精神科医という立場でしか、築けない関係もあるのだろう。
「あなたは、生きることを肯定できるようになったと思う。僕は主治医としてとても嬉しい」
その言葉に胸が熱くなる。
「先生に会えてよかったです」
神妙な顔で先生は深く頷いてくれた。
「ありがとう。たくさんの患者さんを僕は診ている。その誰もが特別で大切だ」
「先生にも人としての大切な日常があるんだと思います。一方で私を医者として真摯に診てくださっているのは真実なんだと理解しています。これが私の進歩なのかもしれません」
「そう僕にも愛する妻がいる、なんてね。照れてしまうよ」
先生は屈託なく笑って言った。
「私、父から離れて家族と距離をとって気付けたことが、数え切れないくらいあります。幸い心も落ち着いています。でも入院させてくれたのは、嫌いだった家族にほかならないんです」
「そうだね」
先生は顎髭を触りながら、低い声で頷いた。
「小野田さんはどうしたい?」
「私は父と話したい。今まで築いた自信が粉々になるかもしれませんが、父と正面から対峙したいんです」
「あなたの気持ちが報われるとは限らないよ」
先生は、平時の冷静な目をして言った。
「それでも私は、挑まなければならないのです」
「では再び家族面談の場を設けよう」
「外泊して父と直接話そうかと考えていました」
私は先生の提案に驚いた様子だった。
「一人で何でも思いつめなくていいんだ。そのために僕や水上さん、あなたを大切に思う人がいるんだ。忘れてはいけないよ」
彼は厳しい顔をして、私に言い聞かせた。
「本当にありがとうございます。正直逃げたい、でも背中を預けますから……」
「それでいいと思う。あなたのサポートをすることが僕の仕事だ」
私にとって、父が世界の中心だった。きっと誤魔化せない事実だ。一種の呪いだと思っていた。けれど他人の手を借りながらも私の世界は変わった。この先何が待っているのか分からないけれど、先生の言葉に力づけられた。
 




