美幸
まだ朝晩は冷えるがいくぶん暖かくなり、桜にも蕾がつきはじめた。
久しぶりにロビーで、健一さんが好きだと言った作家の文庫本を読みながら紅茶を飲む。近頃は、お互いに社会生活の準備活動に慣れてきたようだった。悩みを相談するメールは減り、柔らかい話題が多くなっていた。健一さんが面白い本を紹介してくれたら、私は感動した音楽を勧める。そういうやりとりが支えだった。
昼下がりに「ブーブー」と携帯がテーブルの上で震えた。健一さんだろうか? 期待し、ディスプレイを見ると母からの連絡だった。何かあったのだろうかと不安になる。
カーディガンを羽織り中庭に出て、母に折り返し電話を架けた。
「幸だけど、どうしたの。何か変わりがあったの?」
「突然連絡してごめんね、元気にしてる?」
質問に質問で返されてしまった。母が気にしてくれるのは嬉しかったが、他に用件を含んでいる気がした。
「私は元気だよ」
「よかった。突然連絡してごめんなさい。実は美幸のことでちょっと。あなたが入院してから、お父さんと衝突することが増えて、二人の折り合いが悪くなってしまったの」
「それで、刺し違えるとか事件でも起きたの?」
意地悪を言ってしまう。
「違うわ、悪い冗談は止めて。幸、あの美幸が会いたいって」
驚きで私の体が硬直する。
「あの子がどうして? 私には一ミリの関心もないかと思ってた」
怪訝に思い訊ねた。
「そうね。あなた達は思春期に入ってから、特に会話が少なくなったから。ぎこちない関係の原因は、私とお父さんだけど」
しばらく考え込む。美幸のことは苦手だし、好きじゃない。だけど、あの子が私と話す機会を持とうとするなんて初めてのことだ。拒むのは気が引ける。
「母さん、少し考えさせて。会うにしても心の準備がいるから。それからなんでも自分のせいにするのは母さんの悪い癖だと思うよ」
「幸。ごめんなさい」
涙声の彼女に、私はどうしたものかなと思う。
「これから私のことも少し考えてくれれば、いいから。私だってよい娘ではなかったし。とにかくまた連絡するから、それまで無理しないで」
そう頼み、電話を切った。
美幸、私の妹。性分がずいぶん違う。彼女は器用で私は不器用。
父が仲良く育つよう願いを込めて、姉妹の名前に共通の『幸』という漢字を使ったと母から聞いた。あの父がと疑いたくなるが、母は嘘が嫌いなので、このエピソードは本当なのだろう。母とも美幸とも向き合ってこなかったな。ボタンの外れかかったカーディガンを脱ぎながら病室で後悔していた。




