人それぞれ
『アムール』では助け合うことが多かった。私のような右も左もわからない未熟ものも成長できた。
それに対し、作業所は就労前のステップの場。与えられる仕事量も多く拘束時間も長い。通い始めた頃は、不慣れさもあり周りが見えていなかった。初日に小さな衝突はあったが、対人に関するストレスはデイケアより少ないと思っていた。
やがて役目に慣れ余裕が出てくると、まかないの時間に利用者さんたちと雑談することが増えていった。結果、新しい人間関係を築く中で悩む時間が長くなった。作業所の利用者さんは、デイケアで訓練していた人より治療は進んでいるのだろう。社会にも近いのだと思う。だからだろうか。病院にいるときより、対人関係に気を使う必要があり、デイケアよりストレスはずっと大きかった。私はデイケアから作業所、ゆっくりとだが確実に近づく社会について不安を抱えていた。
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「障がいがあるってどういうことなんだろう」
私は診察室で呟いた。
「小野田さん、作業所で何かあったかな?」
長谷川先生は心配そうだった。
「何もわかっていなかった入院当初から、私も少しだけ物事がみえるようになりました」
「そうだと思うよ」
先生は深く頷いた。
「当然、何もかもがわかったわけではないです。最近障がいがあることに抵抗がなくなってきて、作業所で障がいの程度で優劣を付ける人や、障がいがあることを毛嫌いする人に否定的な感情を持ってしまうんです」
「うん」
先生は髭に手をやり頷く。
「きっと、少し前の自分を見せられている気がするからだと思います」
「小野田さんは正直だね。成長すれば戸惑うこともあるだろう」
諭すように言った。
「先生、私、病院から出たら色眼鏡で見られることもあるんだろうって覚悟しています。おざなりにされたり、騙そうとする人もいるかもしれない。そっちの方が社会的には優位なのかもしれません。だけど、差別や区別される側にいても、自分を理解して受け入れたいです」
私は感情が昂るのを懸命に抑えて言った。
「小野田さん、散歩に行こうか」
長谷川先生は、カルテを閉じて誘った。
「はい」
いつぶりの散歩だろうか。先生が病棟から外に繋がるドアの側で、私を待ってくれている。スリッパから靴に履き替え、かかとをトントンしながら急ぐ。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。最初に会ったときは先生のことを修行僧のようだと感じた。そして静かな川のせせらぎを連想したことが頭に浮かぶ。印象はよい意味で変わった。人は踏み出して近付かなければ輪郭すら掴めない不思議な生きものだ。
「準備できたかい、出発しても大丈夫?」
気遣いの言葉に頷いた私は、先生と一緒に渡り廊下をゆっくり歩きながら病棟から離れていく。
二人とも何も話さずただ進む。白衣に包まれた後ろ姿を見つめているとさっきまで興奮していた気持ちが落ち着いてくる。会話がなくても、先生とは気まずくならない。一緒にいるだけで、不安な気持ちが溶けていく。
職員駐車場の近くまで歩いたとき、
「小野田さん、見てごらん、梅の花が咲いているよ」
唐突に話しかけられた。驚きながら先生の指の先を見てみる。梅の木に白い花が咲き始めていた。
「綺麗だな」
意識せず言葉が零れた。
「梅の花が美しく咲いているのを見付けたら嬉しくてね。誰かに自慢したかったんだ」
少年のように言う。
「先生ありがとうございます」
彼が患者である私を連れてきてくれたことが、とても嬉しかった。
「頑張っている小野田さんに見せられて良かった」
「ご褒美なのでしょうか?」
私は尋ねてみた。
「うん、そうだよ。そして老婆心ながら言いたいことがあってね」
「何でしょうか? 緊張します」
「そんなに固く考えなくていいんだよ」
先生はそばにあったベンチに腰をかけ、隣に座るように勧めてくれた。ベンチに座って梅を見る。
「自分を理解したり受け入れたりすることは難しいです。一つ何かを見付けたと思うと、また一つわからなくなっていきます」
私は悩みを口にしていた。
「そうだね。僕はそんなに頑張って自分と向き合わなくていいと思うんだ。逆に、自分や他人のことを完全に理解しようとしない方が正しいのかもしれない」
「なぜそう思うのですか?」
「完全に理解出来ると思うのは人間の驕りだと思うんだ。小野田さんが驕っているという意味ではもちろんないよ」
「ええ」
「他人を理解しようとしても、自分なりの答えに近付くことは出来ても共通解を見付けるのは困難だ」
先生は私の目をみて言い聞かせる。
「自分自身に障がいがあることを、やっと認められるようになってきたんだと思っています」
「その代わりに、障がいに偏見を持っている人に対して反感を抱き始めたよね。それは自由だと思う」
「一歩進んだと感じながらも心が休まらないのはなんでだろう」
私は呟いた。
「自分がこう思うから、相手にも同じように思って欲しいというのは誰にでもある傾向だろうね。大事なのは相手を完全に受け入れなくてもいいから、その考えや気持ちを認めることだよ」
あまりに新鮮な考えだとびっくりしながらも不思議と共感した。これまで悩んできたから、先生の言わんとすることが根っこの部分でわかったのかもしれない。ずっと潜っていた長いトンネルを抜けるヒントを得た気がする。
「敵の正体が少し見えました」
「なら良かったよ。でも小野田さんが僕の私見に縛られる必要はないよ。それも忘れないでほしい」
「はい」
はっきりと返事をした。
先生の言葉と、一緒に見た白く美しい梅の花は記憶に鮮やかに残った。
私の頭の中に『人それぞれ』という言葉が浮かんだ。決して冷たい他人行儀な言葉としてではなかった。




