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先生と私  作者: 綿花音和
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温室

 健一さんに夕方のメールを送る。 

『お疲れさまです、今日はどんな日でしたか?』

 いつもの挨拶。返事を待ちながら、ベッドに座る。デイケアでの活動について考えていた。白玉ぜんざいをお客さんに食べてもらえた。苦心して作ったものを美味しそうに食べる人を目の当たりにし、経験のない充実した気持ちになった。でも、それだけではなかった。


『幸ちゃんは最初からなんでも出来ると自惚れてるんとちがう?』 

 千里ちゃんからの言葉に、強いショックを受けた。何でも出来ると、根拠のない自信をもっていた。隠れていた本心を見抜かれ、自分のしょうもなさが身に沁みた。

 これまで病棟という閉じた空間で、マイペースに過ごしていた。治療に必要な優しい時間だったと思う。これからは社会に出て生きていく為に、より具体的な課題が待っている。

 彼女のように厳しいことを、好意をもって言ってくれる人は珍しい。そんな人は、周りにはほとんどいなかった。指摘され気付いたことは、変えていかなければ。

 理解は出来たが、往生際の悪い私は、いつまで経っても葛藤の中にいた。健一さんからの返信はまだない。

「夕食の時間よ」

 部屋担当の看護師さんが教えてくれる。窓の外はすっかり暗くなっていた。手鏡を見て髪をき、のそのそとベッドから抜け出してスリッパを履き、食堂に向かう。

 馴染みの患者さんが集まっていて、ホッとした。今夜のメインはアジの南蛮漬けだった。味は薄いが、慣れてしまえば美味しく感じる。食事は、変化の少ない入院生活での楽しみになっていた。

 同じ鬱病の患者さんと天気が悪いと調子が芳しくないと話したり、長谷川先生の口癖を真似て笑い合ったり。些細なやりとりが、心に空いた穴を温めてくれる。そして、この場を去りがたくなる。最初にあった入院に対する不安はすっかり消えていた。いつのまに病棟の居心地が良くなっていたのか。実家にいたときよりずっと楽しく、ストレスも少なかった。

 まだ先だが、確実に退院に向けてスケジュールは進んでいる。いつか、必ずこの優しい人たちとの別れがある。それは切なくて胸をしめつけるけれど、温室の中で生き続けるのは無理だとわかっている。

 たまらなく弱い私、これから世間の荒波に揉まれるのを考えるのは恐怖だった。こんなときに思い出すのは、健一さんの優しい眼鏡の奥の細い瞳だった。きっと、彼だって辛いリハビリをしているはずだ。

 病室に戻ると、健一さんからメールの返信が来ていた。

『幸ちゃん、こんばんは。今日は、デイケアに通所していました。相変わらず、汚れているというこだわりに抵抗する日々です。僕もまだデイケアには慣れていないけど、君が頑張っていると思うと闘志が湧いてくる。不思議なものだね』

 彼の言葉が嬉しい。

『私も落ち込む日があります。前に進むためだと分かっているのに悩んでしまいます。でも、健一さんと過ごした日々が、励ましてくれます』

『ありがとう。僕も、幸ちゃんのメールに力をもらっています。無理はしないでください。君は頑張り過ぎるところがあるから』

 優しい言葉に、勇気付けられた。治療で辛いのは彼も同じなのに、胸が熱くなる。ゴールの見えない日々、でも何も持っていないわけではない。彼に恥じない自分でありたいと願う。


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