三ヶ田の告白Ⅰ
こんな時でもいつもと変わらず、記録ノートに今日の出来事を認めていた。イヤホンでG線上のアリアを繰り返し聴くと、優しい旋律に慰められた。健一さんが退院していく。心の中は不安と寂しさが同居していたが、彼に日常生活を送れる目途が付いたことは嬉しかった。
健一さんの酷く荒れた手を思い出す。懸命に治療に努めとうとう退院にこぎつけた彼に、尊敬の念を抱く。
私も一人で生活していくため、乗り越えるべき山積みの課題がある。彼の姿から勇気をもらった。
丸眼鏡の奥の穏やかな眼差しが浮かぶ。私の手を宝物だと包んでくれたときは、こんなに好きになるなんて思っていなかった。いつのまにか心は健一さんでいっぱいだった。
二人きりでいられる就寝前の僅かな時間を和室で過ごす。八畳ほどの和室はナースステーションの向かいにあり、看護師さんからよく見える。
「幸ちゃんに伝えておきたいことがある」
「何ですか?」
普段とは違う硬い声で話しかけられた。姿勢を正し健一さんの目を見た。どうしたんだろうと構え、耳を傾ける。
「以前、学生時代に後悔していることがあるって話したよね。覚えているかい? あの時は話す勇気がなかったけれど、離れる今、幸ちゃんに伝えておきたいんだ」
「聞かせてください」
「僕の出身校は名門といわれる中高一貫教育の男子校だった。大部分が中学からの持ち上がり組だった。高校生の頃、田舎から受験して入ってきた生徒がいたんだ。彼とは同じクラスになった。特に性格が悪いわけでもなく、どちらかというと真面目で朴とつとした印象の少年だった。ただ彼は国語の時間に教科書を読むとひどく訛るんだ。それがきっかけになった。クラスの全員で彼の訛りを、こそこそと笑ってからかうようになったんだ。軽い気持ちで彼を馬鹿にするような態度を取り続けた」
そこまで話して健一さんが、私の表情を不安げに窺う。意外な告白に戸惑いながら、彼の次の言葉を待った。
「結果ね、彼は僕たちに抗議することもなく夏休み前に学校を辞めたんだ。せっかく合格した学校を退学する、どんな気持ちだったのか。やっと僕たちはことの重大さに気付いた。取返しのつかない事態になって、自分たちがどんな酷いことをしたのか罪の意識を持った。罪悪感を覚える資格もないんだと思う。彼の尊厳を傷付け、学ぶ権利を奪ったのだから」
「何だか辞めた彼が自分と重なります」
私はいたたまれない思いで、一言発した。健一さんは震える声で告白を続けた。




