浅い眠り
健一さんは、私の姿を見ると大きく手を振った。胸がこそばゆく彼に駆け寄った。
「幸ちゃん、偶然だね。病棟の外で会うのは珍しいね」
「そうですね。三ヶ田さんたち男性陣とは、入浴の時間帯や生活リズムも違いますし。病棟以外でお会いすることは、ほとんどなくなっちゃいますね」
「たまたまでも会えて嬉しいよ。幸ちゃんに伝えたいことがあったし」
健一さんは笑い、すぐに真剣な顔つきをした。
「実は僕もうすぐ退院なんだ。多分長くいても後一ヶ月というところだろう。ようやくこぎつけた退院だけれど、君のことが気にかかって」
「退院」
私は呆けたように繰り返した。そうだ、ここは病院だもの。ずっと一緒にいられるわけがない。親しくしている健一さんの退院の予定に、私は動揺した。
「幸ちゃん、大丈夫?」
彼は心配そうに私をみつめた。
「おめでとうございます。行動療法は大変そうだったから、目途が立って本当によかった」
感情を抑え健一さんにお祝いを言った。すぐ身長の高い彼が屈んで目の位置を合わせてくれる。
「僕は東京に戻るけど、ときどき通院するし幸ちゃんに手紙を書くよ。それから残された日を大切に過ごしたいんだ」
そう言うと、私の頭頂部をぽんぽんと手のひらで二回軽くたたいた。健一さんがとても心配してくれていることを感じた。
「三ヶ田さん、ありがとう。出会ってから、ずっと貴方は私のひだまりでした」
ありったけの感謝の気持ちを言葉にした。
「幸ちゃん、健一って呼んでほしい。そうしてくれると嬉しいな」
私は改めて、彼の静かで穏やかな瞳に自分が映っているのを確認して、
「健一さん、ありがとう。今までありがとう」
と擦れた声で言い、シャツの袖を掴みながら涙を零していた。彼は私の涙を、ハンカチで拭く。
「まだ、一ヶ月は側にいられるから」
ちょっと困ったようすで言った。
「そうですね。まだ一緒にいられる。教えてくれて良かったです」
「当たり前だ。幸ちゃんは僕の大切な腹心の友だからね」
「健一さんも『赤毛のアン』読んだんですか?」
私がおどけて言う。
「まあね」
彼は照れながら答えた。夕食の時間が近かったので、一緒に真っ直ぐ病棟へゆっくり向かった。
今夜は眠れそうになかった。安寧な日常というのは簡単に壊れてしまう。その事実が受け入れられずに、寝返りを何度もうち眠りに落ちた。




