宝物
家族面談が終わり、私は猫さんスポットに一人で行った。
面談が決裂する予想はしていたものの、感情は乱れていた。家族と話すだけでエネルギーをずいぶん使ってしまった。ぼつぼつ黙々と歩き、猫ポイントにやっと辿り着く。周囲の森の緑は鮮やかで、空を見上げると青い。なんでだろう、涙がこぼれそうになる。
私が勝手に『くろ』と名付けている大きなメス猫が一匹いた。
くろは、私の匂いを確かめるように周りをぐるっと一周して、体をこすりつけてきた。温かい。小さな温もりが愛おしくて、彼女の迷惑にならないようそっと触れていた。私にとって、くろは病院で出会った大切な友だちだった。
「私、家を出るって言っちゃった。勢いでいったことじゃないんだ、よく考えて決めたことだったんだけどね」
くろは、
「しょうがありませんよ。猫の世界も人間の世界も簡単じゃないんです」
と言い聞かせるように、じっと私の顔を見つめていた。都合のいい解釈だろうが、人の気持ちを別の存在に投影して救われることもあると思う。ひとしきり、くろを触っていたら気持ちが落ち着いてきた。
「ありがとう」
煮干しを数匹置いてさよならをした。
病棟に戻ると、三ヶ田さんが心配そうに和室からこちらの様子を窺っていた。彼の丸眼鏡を見たら、ホッとして再び涙がこぼれそうになったが、心配をかけるのが嫌でぐっと堪え、大きく手を振った。彼は難しい顔をしていたけれど、小さく手を振ると私を廊下まで迎えに出てきてくれた。
「小野田さん、家族面談終わったんだね。お疲れさま」
彼のねぎらいに一気に緊張がほどける。優しい丸眼鏡の奥の瞳は、静かな湖面のようだ。穏やかで美しい水を湛えた泉。波立つところを見たことがない。その静けさに助けられている。
「心配かけてしまってすいません。三ヶ田さんにも治療があるのに」
「そんなこと気にしなくていいんだ。君は他人に寄りかかる方法を覚えた方がいい。ときどき痛々しくて見ていられなくなる」
三ヶ田さんは、私の手をぎこちなくも丁寧に両手で包んで言った。
「小野田さん、君の痛みを少しでも軽くできるのなら」
なんで三ヶ田さんは、私の欲しい言葉がわかるんだろう。それは情欲に基づいたものではなく、本で読んできた父性というものに近い気がした。
看護師さんに見つかる前に、そっと私の手を解放した三ヶ田さんは、
「長谷川先生は人として尊敬できるし、小野田さんの力になってくれる。決して心を閉ざして一人にならないで。僕にとって君は宝物なんだ」
暑い廊下でそう伝えられたとき、私はまだ恋すら知らなかった。




