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先生と私  作者: 綿花音和
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真夏の昼下がり

 私が暮らしてきたどの世界よりも、病棟の中は静かで穏やかだった。新しい環境での人とのやりとりを通じ、自分の内側で物の感じ方が変化していった。自分は人に不快感を与える厄介者だと思っていた。それが経験によって上書きされるのは、不思議な感覚だった。


 今日も三ヶ田さんとお茶をしながら、実家で私がどう過ごしてきたかに少し触れて話した。彼は、丸眼鏡の奥の瞳を優しくときおり細めて話を聴いてくれた。

「君は、苦しい思いをしてきたんだね」

 話を聞いた後、一言漏らした。

「これはあくまでも僕の意見だけど、最初にボタンを掛け違うと学生生活は余程のことがないと挽回は難しいと思うよ。小野田さんは高校で人間関係がうまくいかなかったみたいだけど、それはこの広い世界の一部でしかないんだ。僕は、君みたいに素直で嘘がつけないお嬢さんは嫌いじゃないよ」

 三ヶ田さんはそう言うと、私の頭にていねいに手のひらを置いた。慣れないことに緊張して身を固くしたが、一瞬の出来事だったので、抗議も出来なかった。

 

 たまにアクシデントはあったが、彼と一緒に過ごすと自分の想像する好ましい姿に近づく気がしていた。彼は、私が弱っているとき、とくに話を聞いてくれた。

「三ヶ田さんは、大人ですね。一緒にいると私まで心が穏やかになり、落ち着いてきます」

 ありがとうと言いたいだけなのに遠回しな言葉を使った。我ながら不器用だな、そんなことを感じるいつも通りの昼下がりだと思った。一つだけ違ったのは三ヶ田さんの表情に影が差したこと。そんな彼を見たのは初めてだった。

「小野田さん、僕はそんな立派な人間じゃない。失敗だってしている。許されない過ちだって犯しているんだ」

「三ヶ田さんがですか。そんな信じられません、何があったのですか?」

 私にとって彼は、こうなりたいと感じる理想を体現したような人だった。だから驚きの感情だけでなく、彼がどんなときを過ごしてきたのか興味を抱いてしまった。

「まだ、君に伝える勇気がないんだ」

 と三ヶ田さんは目を逸らした。

「踏み込んでしまってすいません」

 私は慌てて謝る。

「ううん、いつか話せたらいいと思っているよ」

 と呟き静かに隣の席を立った。

 病室に戻っても、三ヶ田さんのようすが気になり落ち着かない。それでも彼を傷付けることはしたくなかった。


 私は心を落ち着け、頭を整理するためにCDラックからピアノトリオのジャズを選んで聴きだした。ピアノのリズミカルな演奏が心を別のところに運んでくれる。

 少し運が悪かっただけなのかもしれない。あの家に生まれ苦しい中、やっと作った自分でいられる場所も些細なことで奪われた。ずっと家族を憎みクラスメートを苦々しく思うばかりだった。

 しかし新しい人々との出会いによって小さなことに気付いた。失敗をしたとしても、それがその先の時を支配するわけではないと。憎しみの中にいるより、それを手放してしまえば、難しいだろうが楽になれるのかもしれない。

 長谷川先生の言葉に従って、入院して良かったと感じ始めた。虚勢ではない、僅かな自信がつき始めた真夏の季節だった。


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