「正義」とはなんなのであろうか
言いたいことを書き連ねました。
ほとんど衝動的に書いたものです。
皆さんは「正義」というものが存在していると思うだろうか。私は、最近どうもその存在が疑わしくてならない。
そもそも正義とはなんなのであろうか。辞書で引いてみると「正しい道理。 人間行為の正しさ」とある。このままだと分かりにくいので、正しい道理という言葉を平易な言い方に直してみる。道理というのは人が背いてはならない道、という意味であり、それをもとに考えてみると「倫理的に正しいこと」ということになる。
倫理的に正しいということはつまり、人を殺さない、物を盗まない、嘘をつかないことなどを指す。 やってはいけないことはなにか、と聞かれたら普通に思いつくものとほぼ一致していると思われる。
さて、ここで一つの例を上げよう。最近の話であるが、フランスで一人の男性が逮捕された。逮捕されたというのはもちろん、法律に違反したからだ。どんな罪を犯したのかというと、国境で足止めされている難民を、秘密裏にフランスへ入国させたということだった。
逮捕されたときにその男性はこう叫んだそうだ。
「なぜだ、なぜ困窮している難民を助けてはならないのか!」
ここであなたは何が正しいと思うだろうか。倫理観に基づいて難民を助けた男性か、それとも法を重視して難民を無視することが正しいのだろうか。
答えをあえて言うとするならばそれは「どちらも正しい」ということになるだろう。前者は自分の良心を重視し、後者は法の支配を重視した結果だ。「正しさの対立」である。
前者の倫理観、すなわち人の良心について考えてみよう。倫理観の起源は人間の本能、例えば同種を殺さないことなどが起源であると思われる。その後、長い年月をかけて人は社会を創った。文化を創った。ここでルールが生まれる。多くの人がその利益を享受できるようなルールだ。そのルールが、人間の本能とお互いに絡まりあってできたものが倫理観である。
なぜルールが創られたのか。それは前にも述べたように多数が利益を享受できるようするためである。多数、すなわちマジョリティ、多数派にとって都合が良いものに社会を創りかえるためである。そうやって創られたルールがいつの日か「正しいもの」になってしまった。本能という生物学的に証明可能な「正しいもの」と同列にされてしまったのである。
後者について考えてみる。法の支配というものは何かの利益を守るために何かを制限するということだ。前者との違いを述べるのならば、それが決まったプロセスを超えて作られたということだ。民主主義の国であれば議会で多数の賛成を得ることで、独裁国家であっても一応そのプロセスは形式的であれ通っている。例として、旧ソ連の「評議会」などが挙げられるだろう。ヨシフ=スターリンが絶対的な権力を握っていたのは間違いないが、そのプロセスは一応守られていたはずだ。そしてそのプロセスを超えたものは法律として、正しいものとして人々に認識されることになる。
二つを比べてみて気づくことができることがある。やっていることは前者も後者も特に大きな違いはないのである。どちらも多数派による決定が「正しいもの」になっているのである。それが後に、絶対的な正義として君臨する多数決の原理を生み出した。
一見対立しているように見える二つの正義も本質は変わらないのである。前者と後者、その違いはそれが「創世記」のものであるか、それともその後のものであるかということだけである。
多数の決めたことが正義となる、なったことが理解いただけただろうか。正義とはすなわち、多数派が自分たちの都合のいいように、やりたいことを「これは正しいものである」と主張するための道具でしかないのである。いわば、錦の御旗だ。
教師が言ったことが正しいとされることもそうだ。教師という職業は多くの人の信頼を受けている、少なくとも生徒たちよりは信頼を受けている。だから、正しい。
歌い手であったって、たくさんのファン(動画の閲覧数など)を得ている人は、正しい。実際には称賛されるといったところか。しかし、その歌い手にも駆け出しの頃があったはずにもかかわらず、ファンが少ない、知名度が低い、閲覧数が少ない歌い手は、どんなに歌がうまくとも、正しいとは言われない。その行動は決して他人から称賛されない。
「正義」というものは確かに存在しているのであろう。それがどんなものであれ。例え、多数派の道具であっても。例え、都合の良い玩具だったとしても。しかしながら、それが多数派のためだけに存在している以上、それが絶対的な「正義」というものなのか疑念を抱くほかないのである。
いかがでしたでしょうか?
まずしっかり読んでくれた人がいたらそれだけで感謝です。
ご意見、ご感想等お待ちしています。