表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

カミの悪戯

作者: むらや

 あつい。


 まだ5月のはずなんだけど、どうしてこんなに暑いんだろう。

 まだ5月、ってことにどこかこだわって素直に軽めの服装で外出できなかった自分が不思議でしかたない。

 暑いってことはまさに現場で起きてんのに、会議室にはそれが伝わってないから対応が後手になって、どうして現場に汗が流れるんだ!とかなんかそんな感じに近い。


 あつい。


 やめよう。

 暗示にかかってしまう。

 「あつい」「あつい」と考え続けたら、あつい以外のことを考えなくなってしまう。

 「あいつ」「あいつ」と考え続けたら、いつからかあいつのことが気になってた、これって恋?っていうのと近いかどうかはわからない。

 以前、真夏の盛りに友人の家に遊びに行った時、駅から家までの道のりが暑すぎて「あつい」しか言うことがなくなってしまったことがあった。

 朦朧となる意識の中、せめてもの抵抗として『「あつい」を「楽しい」に言い換えてみてはどうか』という提案に従って実践してみたところ、口々に「楽しい」と連呼する陽気な集団が誕生し、バカバカしくてそれなりに気が紛れるという良い結果を得た経験がある。

 自分の口から出た言葉が自分を暗示にかけてしまうということは結構日常的な現象だ。

 いや、今は別に口に出しているわけではないから暗示にはかかりにくいのかもしれない。

 やはり自分の声が記号として耳から入ることによって、状況をよりはっきり再認識してしまうために起こるのだから、声に出していない今はさほど暗示力は強くないのではないだろうか。

 とかなんとか考えている間は少し暑さを忘れられていた気がする。

 そうこれよこれ、こういうことよ。


 あつい。


 どうしてこんな暑さにずっと付き合っているのかというと、実は特に重要な理由があるわけではなかったりする。

 ドーナツである。

 最近よく見る行列のできているドーナツ屋の評判の品をちょっと並んで買ってみようかな、と思った程度のことで、この暑さから逃げ出すことは今すぐにだってできる。

 すごく食べたいのか、と言われるとそうでもない。すぐに逃げ出せる。

 ただ、「あつい」と思うことは一年に何百回も訪れるだろうけれど、「あの行列に並んでドーナツを買って食べてみようかな」とはまあこれからもなかなか思わないだろうから、自分的にレアな思いつきを尊重してみた結果だ。

 それ故に暑さには決して屈っすることなくドーナツをこの口に納めようという使命を得たのである。


 都会の一角、大型デパートの地上1階に位置する、道路沿いのガラスで囲まれた店舗の前にわたしは並んで立っている。

 幸い、立っているところはギリギリ直射日光を避けられる位置なので、ドーナツを待っている間に、わたしが上手に焼けました!ってことにはならなくてすみそうだ。

 ドーナツは揚げるものなのでいまいちうまくかかっていない。くやしい。

 この苦境を共にする同志たちはおよそ十七、八人くらい。

 ほとんどはカップルやファミリー、女友達といった感じで、行列待ちもそれぞれの連れと会話などしていてそれほど苦ではなさそうだ。

 わたしは一人なので会話は当然成立しないけれど、その点では別に苦ではない。

 楽しいわけでもないが。

 どうしようなくなればスマホなりなんなりでなんとかなるし、並んでる人を眺めているだけでも意外と時間が潰せる。

 じっと見つめすぎてものすごい形相で睨まれた経験もあるので、最初からスマホを取り出しておいて、イジってるふりをしてカモフラージュするように最近はしている。

 よく、電車に乗ったらびっくりするくらいみんながスマホを見ている、けしからん!的なことを言うおっさんがいるけれど、わたしがこれまで見てきたところでは意外とそうでもない。

 なんというか、場所によって偏りがある。

 これはわたしが見てきた本当に狭い世界での統計でしかないけれど、地下鉄に乗っている人はなぜか本を読んでいる人がスマホを見ている人よりも多い。気がする。

 これを自分なりに分析してみたりする。


 まず、地下という環境。

 友人となにげなく入った二軒目のオシャレな創作ダイニングバー。

 無駄に急な階段を降りて行き、店に入ってカウンター席に座る。ソルティドッグをオーダー。

「え、いやいや、『夜空ノムコウ』はスガシカオだよ。違う違うカジヒデキじゃないって。カタカナってだけじゃん、それ。調べたらすぐわかるよそんなの」

 そう言って取り出すiPhone。

 圏外。

 え、こんなにエッジの効いたシャレオツインテリアでキメちゃってるのに、それよりも絶対的に価値のあるケータイの電波は届かないの?って。

 その一方で、地下鉄は今やホームに限らず走行中もスマホや携帯電話が圏外になってしまうことはいつの間にか無くなってしまった。本当にいつの間にか、誰だかわからないすごい人達がこの問題をこっそり解決してしまったのである。

 大変にありがたい。御礼は一体誰に言えばいいのかしら。

 けれど、こっそりやっちゃうもんだから、こちとら一般人は地下鉄乗車中の携帯電話の使用をなんとなく避けるクセがついてしまった。

 そうだ、ケータイつながらないんだ。じゃあ本でも読むか。

 という条件反射説。


 行列が2歩分前に進む。


 他にも乗客年齢層説、車両内人口密度説、周りがみんな本を取り出すもんだからプレッシャーに負けてスマホを取り出せない説などがある。

 原因は必ずしもひとつではないし、逆にこれらのどれもかすってもいないかもしれない。

 本当の理由を知りたいわけではなく、条件の上でどれだけ想像を膨らませられるかという、まあ、つまりは暇つぶしをしている。

 思っていたよりも列の進みは悪かった。

 他人のことをとやかく言える資格を、この列の中では自分が一番有していないと胸を張って言えるが、みんなそれほどまでにドーナツを食べたいんだろうか。

 わたしはそうでもない。

 だからうらやましくもある、並んでまで食べたいものがこの世にあるなんて。

 例えばあの前から5番目くらいに並んでいるお母さんと4歳くらいの姉弟。お姉ちゃんの方は抑えられない期待感がピョンピョン跳ねる足の筋肉に伝達しているのがわかる。とてもドーナツを楽しみにしているんだろう。お母さんも少しうんざりしている。

 それにひきかえ弟の方は、今なぜここにじっと立っているのか絶対にわかっていない顔だ。わかるよ、キミの気持ち。今自分はなんのために二本の足をふんばり重力に逆らい続けているのか。地球の自転による遠心力よ、我が問いに答えたまえ。うん、でもね少年、きっとこの時間を犠牲にして得られた未確認甘味物体はキミを満足させてくれる。少なくともわたしよりは。


 いけないいけない、また他人のことをジロジロ見てしまった。

 反射的に取り出したスマホの画面を見る。並び始めてから10分くらい経ったかな。この雰囲気だと、あと10分はかかるか。微妙な時間。


「本でも持って来ればよかったな」


 おどろいた。自分とは違う男性の声で自分のモノローグが再生された。泡を食って声の方向に顔を上げると、直前の列にいるカップルの男性の方がうなだれた表情で続ける。

「なめてたわ、待ち列。暑いし。耐えられないほどではないけどなんかで気を紛らわせたい」

「暑さは想定外だったね。あんま汗かきたくないわー」

 男性の真横に並んでいる女性が答えた。

 夫婦かな、心なしか言葉に馴れ馴れしさが含まれている。スマホ越しに女性の左手をチラリと覗くと薬指に光るものが見えた。

「ていうか、二人でいるのに隣で本読み出したら露骨に舌打ちするけどね」

 恐妻の確率が上昇。

「いやまあ読まんけども。最近ちょっとでも空いた時間あると本読みたいなーって思っちゃうんよね」

「よく読んでるもんねここのところ。さっきのブックオフで買えばよかったのに」

「あん時は別にいっかって思ったのよ。まだ読んでない、いわゆる積読本めっちゃあるし。あれ読んでからでないとなーって思うと買う気なくなった」

「強欲の罪に打ち勝ったね」

「強い子なんで」

 なんか、仲良いなお前ら・・・。別にうらやましくないし。

 夫と思われる男性は降り注ぐ乾いた光を疎ましげにじとっと睨みつけた後、ひらめいたように恐妻(仮)の右腕に提げていたライトグリーンのバッグに視線を落とす。

「そういやなんか買ってなかった、そんとき」

「買ったよ。『七つの大罪』最新巻。こないだ出たとこなのにもう並んでるとかラッキー!」

「そういう人ってやっぱすぐに売る前提で発売日とかに買うんかね?」

「そうじゃないたぶん」

「めちゃお金に困ってるんだろうか、そういう本の買い方しないから気持ちわからんなあ」

「うん、でも発売日に新品で買ってるわけだし、中古で手に入れてるあたしよりも作者さんには還元してるよ。貧困の罪をお許し下さい」

「そこまで生活苦しくねーし!」

「じょうだんじょうだん」

 フフッと笑いをこぼしながら自分のバッグを探りはじめる。紺色のビニール袋に包まれた、おそらく一冊の本を左手に取ると、バッグを肩にかけ直しビニール袋からマンガを取り出した。

「読む?」

「いや、帰ってからでいいよ。今から読むと中途半端になるし」

「そっか」

 特にガッカリする様子もなく、取り出したマンガのビニール包装を大胆に剥がし、生まれ出たゴミをビニール袋に突っ込んでパラパラとページを見るともなく送る。

 この距離から(こっそり)見ても、まっさらで艶やかさを失わない表紙。まだ人の手でくたびれていない、ともすると指を切ってしまいかねない本文ページ。ご丁寧に残してある帯としおり代わりには多すぎる広告の束。およそ中古という枠には入れにくいほどの輝きをその一冊は放っている。

 人それぞれなので恐妻(仮)を悪く言うつもりはないが、そこまで新品と近いものなら自分の場合はどうせなら新品を買うと思う。いや正直に言うと、定価の半額になっていたら悩む。

 ページを適当にめくっているすぐ横で、夫と思われる男性は不自然に目線を別の方に向けている。おそらく断片的にでも内容を知ってしまいたくないんだろう。そちらの心情には非常に共感できる。推理小説を最後からめくれるようなハズはない。

 そんなことは気にもとめず、恐妻(仮)は絵だけを愉しむ様子で口元だけ緩ませる。

「ブタがかわいいんだよねー、ブタが」

「好きな割に扱いが雑だな」

「ちょっと生意気なヤツだからね、ややキツめにかわいがりたくなるのよ。いじりたくなるのよ」

「それが萌えってやつ?」

「萌えではない」

「あ、そう」

 会話のテンポが良すぎるからこの二人は夫婦だ。そうであって欲しい。恐妻かどうかは怪しくなってきた。

「ん? コレ」

 ふと、妻と思われる女性の方の表情がプレーンに戻った。

「レシートだ。挟まったままになってる、前に買った人のやつ。店員さん気付かずに包装しちゃったんだね」

「あーあるある。古い本に挟まってると自分がその時に買ったわけでもないのにちょっとノスタルジックな気分になるよな」

「うんうん。残念ながらコレは数日前のだから郷愁ゼロだけど」

「どこで買ってんの?」

「駅内のコンビニ。やきそばパンと缶コーヒーも買ってる。13時11分」

「そこまでは訊いてない」

 たかがレシートにもなかなか個人情報が詰まっているものだなと思う。

 スルスルと他人の情報を漏えいする割におもしろくもなさそうにレシートを見つめ、裏返す。

「ふーん。えっ、なにこれ!?」

「どしたん?」

「え、気持ちわるい、なんなの。これ、見て、気持ちわるい」

「気持ちわるい言い過ぎだから。・・・え、なにこれ気味わりぃ」

 夫婦を取り巻く空気が一変した。

 それはわたしだけでなく、夫婦のひとつ前に並んでいる学生二人にも伝播し、夫婦の顔を一瞬横目で見たものの、関わり合いになりたくないのか、またすぐに元の表情を演じた。

 当の夫婦はそうはいかないらしい。明らかにそれまでのテンションから急降下した様子だ。その影響で気圧すら変わって息苦しそうな顔をしている。

 なにがあったのか。ここからではレシートは燦々と輝く日光が反射して真っ白に光っているようにしか見えない。明らかに二人はレシートの裏面を見た直後から醸し出す空気を変えてしまった。わたしはその状況を知る由もないので、その緊張感をやや感じる程度で気分の変化は当然無い。羨むほどに仲睦まじかった夫婦の風景だけが、この一瞬で恐怖に怯える様に挿げ替えられてしまった。レシートという紙切れ一枚によって。その裏半分だけによって。

 裏面に一体なにがあるのか。大きな衝動ではないが、少なからず知りたくもあった。

「えー気持ちわるい・・・。本が悪いわけじゃないのはわかってるけど読みたくなくなったわ。なにこれやな感じ」

 妻と思われる女性の声に攻撃性が溢れている。ブタと罵っている時とは行間に含まれる憤懣が違った。敵愾心が込められている。

「イタズラだろ、こんなの気にしたほうが負けだよ。捨てちゃったら一緒だって。ま、趣味は相当悪いけどね」

「悪いよ、激悪だよ。あー気分最悪になった。こんなことしてなにが楽しいんだろ」

 ガックリと肩を落とす。人は気分が落ち込むと本当に肩を物理的に下げるんだな、と考えているあたり、やはり自分にはまだ他人事なのだろう。二人とは同じステージに立ってはいなかった。

 夫と思われる男性がすっと手を伸ばす。

「捨てとくよ、ちょうだい、それ。それさえ無きゃとりあえず問題ないし。まず捨てよう」

「なんなら燃やしたいくらいだよ」

「憤怒の罪がすごい」

「あたしに罪はないよ!」

 なんとか空気を戻そうと少しおどけた調子の夫に対して、わざと大げさに詰め寄る態度で妻は強めに握ったレシートを勢いよく差し出した。その勢いが強すぎたのか、レシートは指の間から逃げるように滑り、ヒラヒラと左右に揺れて最終的にわたしの足元に着地した。

「あっすみません」

 先程までの会話より少し声色を明るくして、夫婦は二人ともわたしに申し訳なさそうな目を送ってくる。その視線を感じながらわたしは極めて滑らかな動きで足元のレシートを拾い、薄い笑顔とともに夫と思われる男性に手渡した。

「すみません、どうも」

「いえ」

 気まずそうにレシートを受け取ると、二人は進行方向に身体を向き直してしまった。もうわたしからは表情を読み取ることも、マンガやレシートをどうしたのかを確認することもできなかったが、それ以降夫婦は特別な会話をすることもなくぼんやりと列の先を眺めているようだった。

 不意に起きた事故とはいえ、わたしという第三者が出来事の輪に入ってしまったことによって、不快な感情の区切りを迎えてしまったのだろう。先程までの息苦しい雰囲気はほどほどに治まっていた。わたしの介入が良かったのか悪かったのかは判らないが、少なくとも憤怒を償う贖罪は免れただろうか。

 けれど、夫婦二人とわたしのステージは依然として異なる領域にあった。

 今も何事もなかったかのように振る舞い、内に秘める感情をまったく表に出さないよう努めるわたしが立つステージは、ついさっきまであの夫婦二人が立っていた境地。ついさっきあの夫婦二人には脱出することができた心境。

 足元に横たわるレシート。

 上半身を落としてそれを手に取り、身体を起こして相手の前に差し出すほんの僅かな瞬間で、わたしは見る事ができた。見てしまったのではなく、意図的にかつバレないように盗み見たにも関わらず、見てしまったという気持ちが自分を襲っている。

 レシートの裏面には乱暴な字でこう書かれていた。



『キサマニ明日ハナシ』




*****************



 同じ日、金曜の20時過ぎ。

 ぐるっとカーブを描いた階段を降りた先にあるブリティッシュパブにわたしはいる。要はヨーロッパ風の居酒屋なわけだが、内装は本場イギリス人が設計したらしく、なかなか雰囲気がいい。木造で古びた感じと表面の艶が味のあるバーカウンター、暖色でほどよく暗く設定された照明、やけに高いスツール、それでいて古い洋画で観るような賑々しい酒場めいたところもあって、肩肘張ることなく過ごすことができる。料理はイギリスにとどまらず、ヨーロッパ全域に至る品々を選ぶことができる上、日本人向け居酒屋メニューの定番「だし巻き卵」や地元の地ビールも揃えている。会話が止まってしまった時につい見てしまう大型スクリーンには、大体いつもサッカーかメジャーリーグが流れている。ちなみにケータイの電波はそこそこ安定して受信している。

 テーブル席の中でも壁沿い、他とは少しだけ区切られたスペースでわたし達は向い合って座っていた。テーブル四辺のうちの三つをわたし達が、もう一辺は曇った鏡張りの壁になっている。壁に寄り添って伸びるふたつのソファ席にそれぞれわたしと香菜子が、鏡張りのせいで自分とにらめっこするハメになるスツール席に智益ちえが座っている。スツールはわたしと香菜子が座るソファより若干高いため、この中では最も小柄な智益がごく自然に腰を下ろしたのを見、わたし達二人は流れでソファ席に腰を落ち着けた。

 なにを話したか、話した側から忘れていくようなとりとめのない事をいつもよくこの三人で話して過ごす。わたしが二人と出会ったのは大学の頃だが、智益と香菜子は高校からの付き合いだ。恥ずかしながらわたしは二人と同じ大学に一年間の浪人生活の後に入学したので、二人より一学年分人生を多く経験している同級生である。出会った頃から数えると五、六年くらいの付き合いになるだろうか。今もこうやって気軽に集まれる関係が続いているのは、よくよく考えるとありがたいことだと思う。

「趣味について考えるのよ、最近」

 なんの前置きもなくわたしは話を始めた。

「ポテトにハーブバターつけて食べた途端になんかはじまったな」

 すぐ切り返してきたのが智益、皆藤かいとう智益ちえ。明るい色のマッシュボブに少しイタズラっぽい目元、高めの声で率先して自分からしゃべり始めるタイプのせいか、自己中心的でなにも考えていないように思われやすいが、実際にはよく周りに目を配り、押し付けがましくない配慮を忘れぬ世渡り上手。新しいことなどにも抵抗や偏見が少ないのか、物事全般に前のめり傾向にあり、そのせいで失敗もよくする。その失敗もネガティブなイメージにつながることなく、多くの人に広く愛でられる隙だらけのようでほとんど隙のない女、それが皆藤智益である。

「趣味がどうしたん?」

 少しのんびりとした関西弁で話を先に進めようとするのが香菜子、西玄にしくろ香菜子かなこ。若干茶色みを帯びたミディアムレイヤースイートカールで目元は常に独特の笑みを帯びている。本人は気にしているらしいやや丸顔と大きい目、感情によってコロコロ変わる表情と持ち前のテンポ感から、第一印象に天然キャラをあてられることもしばしばだし大きく間違ってもいないが、そのかわいらしい見た目に反して頭の回転が早く驚かされることもある。本人はそれを特別なこととは思っていないようで、お世辞なく素直に他人を褒めているシーンをよく見かける。空気が読めない方ではないものの、たまにズバッと真をとらえたことを言って場を緊張させるがその後のフォローも巧みな、隙だらけのようで結構隙のない女、それが西玄香菜子である。

 それに引き換えわたしは。

「新しい環境とかで新しい人と出会った時、気候の話をした後に必ず訊かれるじゃん、『趣味はなんですか?』って」

 正面にいる香菜子の顔をじっと見つめて言う。

「まあ、そうやなあ。共通の話題といえば天気の話やし、『天気のいい休日はなにしてますか?』って流れやと自然やもんな」

「大人のマナーみたいなとこあんね」

 続けて智益もうなづく。

「そう、その『趣味はなんですか?』にたいがい答えを用意してないのよ、わたし」

「しとけよ」

「それがムズカシイって話をこれからすんの」

 返事代わりにフライドポテトを口に運ぶ智益。香菜子は一口だけ飲んだスプモーニのグラスから自分の腕に落ちた結露の水滴をさっとおしぼりで拭っていた。

「わたし、『趣味はなんですか?』って訊かれた時には必ず、『はっ、雲若もわか恭穂ゆきほに趣味なんかあったか? これがわたしの趣味です、なんて呼べるほどの大層なものなんてない!』ってパニックになっちゃって、なんにも思いつかなくなっちゃうのよね」

「ユキちゃんっぽい悩みやなぁ」

「ホントホント。パッと見は冷静沈着、聡明剛毅、即日発送って感じなのにね。めちゃくちゃいろんな事考えて自分の首絞めてるよね」

「それがわかってるから困ってんのよ」

 んー、と声にならない声を出しながら首をかしげる智益。太ももの隙間に両の手を挟むその仕草は、障子を破いたのは自分じゃないとしらばっくれるネコのようにも見える。

「でも、それって、やっぱり用意しとけばいいってことじゃないの? 趣味を訊かれたら必ずこれを答えるってヤツをさ」

 それには香菜子が代わりに答えてくれた。

「その必ず答えるヤツを決められへんってことやんな、ユキちゃんが言いたいのは」

「そうそう」

「そんなにムズカシイことかね?」

 おそらく智益にとってはまったくこれっぽっちも難しいことではないのだろう。そういう智益は美しい。

「私はちょっとわかるトコロあるよ。そうやなぁ、たとえば私やと、本読むのが好きやから趣味を訊かれた時は『本を読むのが好きです』ってよく答えんねん。そうするとごくたまに私よりもっと本読むのが好きで、本読むことに人生かけてる人がおったりするんよ。そういう人の中には、どんだけたくさんの本をどんだけ速く読むかって事をすごく大切にしてる人がいるんよね。人生の規模で考えてたくさん本が読めることはすごくうらやましいけど、私は速くも遅くもなく自分の好きなペースで読んでるあの時間も含めて本が好きやから」

 さしもの香菜子も好きなものの話をするときは少し早口になるのがおもしろかった。

「そういう人って視野が狭くってさ、本好き読書好きを名乗る者はこの条件を満たすべし、ってのを他人にも要求してくるじゃん?」

「そんな人もおるなぁ」

「で、自分より読むのが速い人とか一週間で自分より多く本を読んでる人に出会うと『負けた』とか『すごい!尊敬する』って本気で思ってたりするよね。本が好きってそういうことだったっけ?って思う。・・・思うんだけど」

 そう言うわたしの表情を見て香菜子がフフフと微笑んだ。

「自分もその尺度で他人と比べてしまうんよね。人間ってふしぎやんね」

 出た。これは西玄香菜子の口グセである。出会った頃から香菜子とわたしは話が合う方だった。それは今みたいに日常の些細な物事を分析して見る傾向があったからだ。自分以外の人に共感し、人という生き物への興味・関心が刺激された時、香菜子は万感の愛おしさとともにこのセリフを漏らすのだ。

「差がわかりやすい単純な消費量とか知識の量を目の前に提示されると、自分はそこまで好きじゃないかもって気持ちに誘導されちゃってね」

「いやでも、実質そこにある差は好きになるスタイルが違うっていう差だけじゃないの? 気にすることか?」

 智益はあいかわらずの率直かつ簡潔な論を立てる。なにも考えていないのとは違う。もう答えにたどり着いているから考える必要がないのかもしれない。

「相談しがいがない正論をありがとよ」

「感謝されると照れますね」

「ホンマ、チエちゃんはすごいな」

 香菜子はいつだって屈託なく他人を褒める。いつものふたりだな、と思いながらわたしは続けた。

「だからさ、わたしなんか本もさほど読まないし、映画もそれほど頻繁には観ない、音楽は好きな方だけど詳しくはないし、ファッションもまあ普通くらい。ブランド物には興味ないし、と言って預金通帳見て喜ぶタイプでもない。ない無いない無いって、ないを数え始めるのよ」

「無いもんを数えるってなんかおもろいね」

「うん、まあ。無いのにね」

 香菜子の悪気も無い。たぶん。

 それを聴いているのかいないのか、手元のサングリアのグラスでクルクル円を描きながら智益が口を開いた。

「あたしにはあんまりわかんない悩みっぽいね。好きなものは他人がなに言ってても別に好きだし、ま、他人との比較を全くしないわけじゃないけど、カナチも言ってたみたいにその人のペース配分なんだなーってすぐ思っちゃう。知識とか具体的な物量とかを自慢してくる人は、あーこの人は自分の鍛えに鍛えた筋肉を見て欲しくて、パツパツのTシャツをわざと着たり、胸筋ピクピク動かして見せてきたりする系のマッチョだ、と思う」

「あはははは、確かにそう考えるとなんか笑けてくるね。なんやろ、がんばりはったんですねーって」

「お、香菜のツボに入った。香菜子さん、見てくださいワタシの上腕三頭筋」

「二頭筋やなくて?」

「いえ、三頭筋を」

 ダメ押しで笑いの園から帰ってこられなくなった香菜子を見て、わたしと智益も笑い出す。騒がしい店内にあってもひと際騒がしかったらしく、周囲の客が数人こちらに視線を投げかけてきたが、すぐ自分たちの仲間の方に向き直っていった。

 しゃべってばかりで一向に減っていかない料理に気づき、わたしは香菜子の方にあるガーリックトーストをひとつ手に取り、小さなフライパンの形をした容器に入ったオリーブオイルにつけて食べる。笑いが少し落ち着いてきたのか、ガーリックトーストの入ったカゴを三人の中心に置き直しながら香菜子が話し始めた。

「あー暑い。笑いすぎた。いやな、チエちゃんが言うてたんを聞いてて思てんけど、私はあんまり好きなものにこだわりを持たんようにしようと思てるんかも。あんまりマッチョになりすぎへんようにしようと思てるんかもやわ」

 自分で言って自分でクススと笑っている。

「なんで好きなものなのにこだわらないの? 自然とこだわっちゃうもんじゃない?」

 お冷を飲んで落ち着こうとする香菜子を見つめてわたしは尋ねた。

「そう、こだわってしまうねん。こだわってしまうことが悪いことってわけではないねんけど、いいことだけでもないなーってこないだちょうど思ったんよね」

「へぇ」

 気の抜けた返事の割りに興味ありげな表情を浮かべる智益。わたしもそれを後押しするのにやぶさかではない。

「本読むのが好きな人が最近よく話題にする事のひとつに、電子書籍問題があんねん。この話が始まったら大概の場合、スマホとかタブレットがあればそれに読みたい本が全部入って持ち運びも収納も便利やし、本屋に買いに行かんでもすぐ読めるって事をおすすめしてくる電子書籍派の意見と、装幀とか紙の手触りとかページをめくる作業とか、本棚に自分の好きな本が並んでるのを眺める事とか、本屋で背表紙を見ながらワクワクしながら買う本を選ぶ時間とかに本の良さを求める紙の本派の意見の、ふたつの対立構図になってしまうんよ。私も長年ずっと紙の本に馴染んできたからやっぱり紙の本にすごく愛着があって、電子書籍はちょっとちゃうなって思てたんよね。でもこないだ図書館に行った時、ふと目にした本棚に大活字本があってん。大活字本ってわかる?」

 わたしも智益も無言で頷く。大活字本とは、弱視者、いわゆる目の見えにくい人たちのために文字の大きさを通常より大きく、行間も見やすさを考慮して広めに調整された本の事だ。文字を大きく、行間を広めにするという事はつまり、

「夏目漱石の『こころ』でも単行本二冊分の分量になんねん。『鬼平犯科帳』なんか一巻が三冊に分かれてるから全二十四巻で七十冊くらい。本棚のほとんどを『鬼平犯科帳』が占めてるの見て、びっくりしてん。目が悪くなったおじいちゃんとかがこんな分量の本を手に持って読むのなんかどう考えても大変やん。その時に、あ、電子書籍やったら文字の大きさを自分で変えれたりするし、持ちながら読んでも重くない。図書館まで来んでも読める。自分と同じ本が読みたい人でも、置かれた境遇が違うところですごく助かる人がいるんやなと思ってん。自分の目線からしか考えてなかったなーって反省した」

 ひと息にしゃべって唇が乾いたらしく、お冷で口を湿らせてから香菜子は続けた。

「自分がもし紙の本にこだわって電子書籍なんかあかんって言い続けてたら、もしかしたらそういう人たちに迷惑がかかるかもしれへんやん。こだわり過ぎたら他の人のことが見えにくくなってしまうから気をつけなあかんなと思ったんよね」

 そう言って誰にともなく頷く。

 実際問題、香菜子が紙の本にこだわって電子書籍を利用しない事が電子書籍の一般社会への普及を大きく侵害することにはおそらくならない。ただ自分の立っている場所がうっかり気づかぬうちに他人の通り道を遮ってしまっているというシチュエーションはよくある。そんな時、「あ、すみません」と素直に一言お詫びして道を譲る事ができればいいね。そういったニュアンスが香菜子の話に含まれているような気がした。

「アレだね、マッチョになりすぎると意外と自分の筋肉が邪魔して背中がかゆくてもそこまで手が回らない、みたいな事だね」

「チエちゃん、ホンマうまい事言うなと思うけど、マッチョのこと好きなん? 嫌いなん?」

「普通」

 笑顔で向き合って話す智益からも香菜子からも、わたしが抱えているような好きなものへのためらいの様な感情は感じられない。それはわたしの独りよがりなのかもしれないが、今ふたりを見ながらなぜだか少しだけ後ろめたくなった。

「で、ユッキの話に戻すけど、ユッキはどっちかって言うとよろずに通じるというか、なんでもそれなりに詳しいって印象あるけどね、正直」

「いやーそんなでもないよ。知らないことばっか」

「知らへんことのほうが多いのは当たり前やん」

「それこそさっきカナチが言ってた、ひとつのことにこだわりすぎずに広い視野で見てるってことにしたらいいじゃん」

「まあね、自分の中ではそれなりに納得がいってるんだけどね。他人には納得してもらいづらいんだよね、こういうの」

 あるある、と言葉にはせずに智益が首を揺する。智益と出会った頃にはこういうはっきりしないのは好きではなさそうな人のイメージを抱いていたが、実際には比較的寛容だった。寛容というより経験豊富というか、広く人との付き合いをこなせるタイプなので、そのパターンは既に知っているというリアクションが返ってくる。普通の人がこういう仕草をすれば少し嫌味な印象を受けるが、智益からそういう印象は受けない。むしろ受け入れてくれているという安心感があった。

「ユッキは見た目より謙虚だよね。いやほめてんだよコレ」

「ほめてないし、見た目キツそうって言ってんのと同じだから」

「見た目がキツそうなのはホントだから。そこじゃなくてその中身が謙虚だって言ってんのよ。他人に納得してもらうことなんかなんにも気にしてない人ってめちゃくちゃいるよ。こないだもびっくりしたんだけどさ、一緒に仕事してるあたしよりちょい年上の女の人、ちなみにその人もちょっとキツそうなタイプなんだけど、その人含めて数人としゃべってたら『わたし、カフェでひとりで座って周りのお客さん見てるの好きなんだ。人間観察ってやつ? 趣味なのかな、つい見ちゃう』って言うの、みんなの前で」

 ギクッとしたが、バレないように曖昧な声で返す。

「あーはいはい」

「うーん、ちょっとあれやな、文字通り趣味が悪いっていうかなんというか」

 わたしと香菜子の反応をひと通り見まわしてから智益が続けた。

「いやさ、他の人の行動見るのってそれなりに楽しいじゃん。それはいいんだよ別に。あたしもそんな失礼なことなんかしたことがないなんて言えないよ。でもさ、見る側と見られる側って常に平等なもんでしょ?」

 ニーチェの引用かとも思ったが、智益に限ってそんなことはない。智益がニーチェに追いついたと捉えるのは流石に笑えるので考えないことにした。

「見る側も見られる側もその立場はいつでも逆になる可能性があるってことね」

「そうそう、人間観察が趣味って発表するってことは、自分は見る側ですっていうアピールと同じでしょ。でも、自分は観察者です、っていう言葉が他人に観察されて評価されることには目が届いてないの。だから、率直に言うとカッコ悪いよね」

「率直やなー」

ふるいにかけてるんじゃないの? 自分に従う人とそうじゃない人を」

「あの人はそこまで悪い人じゃないと思う、単純に気づいてない、ミスってるって感じ。そういう意味ではまだ愛嬌がある方なんだけど、警戒はしちゃうよね」

 そこまで言って智益はニコッと笑顔を作り辛辣な意見をごまかそうとする。これにごまかされる人がたくさんいるんだろうなと思いながら、わたしもそれに便乗することにした。

「あたしだってこうやって観察してるわけだから同罪なのはわかってるつもりだけど、人間観察なんてきわどい言葉は使うもんじゃないと思った。観察するだけならまだしも口に出したら戦争だ。たぶん偉い人の言葉」

 ただのギャンブラーの言葉だな、と思ったが聞き流した。聞き流したのはただ単にめんどくさかったからだと自分では思っていた。

「だからまあ、それに比べるとユッキは他人の納得優先してて慎ましいよねって。ほめてるでしょ?」

「んー? どうかなぁ」

 自分でも身の入らない返事をしたなと思った。さっきからなにか気が削がれる感覚がある。人間観察の話になり、自分にも心当たりを感じて少し罪悪感を刺激された時から。ただこれは罪悪感からくる不快ではなく、なにか不安な感情に近い気がする。加害者としての呵責ではなく、被害者としての傷心。思い出してみても智益の言葉に落ち込んでしまうような箇所はなかったはずだ。それとはまた別の箇所。けれど香菜子はこの話題の間はほとんど発言していない。そもそも香菜子の言葉にショックを受けるような経験は長い付き合いだが無いに等しい。香菜子の言葉が原因ではない。そう考えて、香菜子が口にした数少ない言葉を検索し、ドキッとした。

 そうだ、思い出した。香菜子に傷つけられたわけでは全くなかった。ホッとした。けれど心臓のあたりを包む重い感覚は変わらなかった。話せば少し楽になるかもしれない。ただ香菜子と智益にもこの不快が飛び火してしまうのは好ましくない。二人がそれを許してもわたしがそれを望まない。口に出したら戦争なのだ。

「どうしたん?」

 柔らかい関西弁がわたしに向けられる。表情には全く出さなかったつもりだ。わたしのなにを感じ取って問いかけてきたんだろう。考えてもきっとわからない。わかるのは香菜子がかけてきた言葉に甘えてしまおうとする自分の弱さだ。ここでごまかしてもぎこちない空気になってしまうだけだ、という言い訳とともに。

自分の奥に生まれたあらゆる感情を一旦忘れ、できるだけさり気なく、限りなく快活な様子でわたしは答えた。

「『趣味が悪い』で思い出したんだけど、今日ここに来る前にそこのドーナツ屋で並んでたの。その時に列のひとつ前の人たちを観察っていうか、話してるのをなんとなく聞いてたのよね。それで、ちょっと変なことがあってさ」

 香菜子と智益の顔はまだ興味の色さえ現れる前のようだった。わたしはあふれる解放感と自責の念を共に抱きながら、昼間に経験したレシートにまつわる話をできるだけ丁寧に話し始めた。



*****************



「えー、それは気持ち悪いな」

 智益が言った。5種のチーズのピッツァをもりもりと頬張りながら。

「ホンマやね。ちょっと嫌な体験やね」

 香菜子が言った。生ハムとルッコラのサラダをもそもそ噛み締めながら。

「思ってたよりも軽い反応が返ってきて戸惑いを隠せません」

 わたしが言った。話している間はなにも口にすることはできなかったので、乾いた口にジンバックをひと口含んだ。

「ごめんごめん、ちょっとリアクション悪かったね。あんまり真剣に聞くとなんか怖そうな話だったから。あとお腹空いてたから」

 おどけて見せる智益だったが、確かにいつもより歯切れの悪さを感じた。三人ともホラー映画は好んで見る方ではないため、その手の薄気味悪い話を輪になってすることはこれまで少なかった。智益がこの手の話を特別苦手としているというのは聞いたことがないが、フィクションとノンフィクションで話への入り込みが違ってくるのかもしれない。

「いやでも、そういうイタズラって今もなくなってないんだね。お札に落書きとかはたまに聞くけど、あたしはほとんど遭遇したことないし、そこまで悪意のあるのは全く無い。『貴様に明日は無し』だったっけ? 実際に見てないからこんなリアクションだけど、現物見てるユッキはそりゃたまんないよね」

「その時はひとりだったし、誰とも共有できないから余計ね」

「せやね、ひとりやったらなかなか気持ちを消化できへんかったりするよね」

 わたしが感じているよりもずっとつらそうな面持ちで香菜子がわたしを見つめてくる。香菜子にとってはイタズラそのものよりもそれを経験したわたしやあの夫婦に関心があるようだ。わたしが陥ってしまった不安な精神状態やイタズラ実行犯への恐怖や怒りに引きずられなかったのであれば、わたしの懸念もうまい具合に外れてくれてなによりだ。

「ユキちゃんの話聞いてて、昔読んだサスペンスマンガで作中に出てくるメモ書きの手紙が実際にページとページの間に挟まってる仕掛けがあって、初めてそれ見た時にビクッてなったの思い出したわ。あれはすごくこわかったからユキちゃんもそうやったんやろね。かわいそう」

「イタズラ犯もまさか本買ってないヤツまでビビらせてるとは思わないだろうから、好奇心から派生した飛んだ一人芝居だけどね」

 そう自分で言ったのを聞いて妙に納得してしまった。

そうだ、思えば自業自得である。イタズラ犯が想定しているターゲットは自分が古本屋に売った本を最初に買ってしまった一人目の読者のみである。今回はたまたま夫婦であったため二人分の被害があり、もう一人の野次馬レディーが余分に被害を受けていることになるが、イタズラ犯はこのことを知らない。ということは三人中二人のドッキリ体験を当のイタズラ犯も期待していないことになる。自分のドッキリ体験はそもそも画面の外の出来事であり、たったひとりの客ともいえるイタズラ犯を楽しませるどころか認知されることすらない。

「どんな反応するのか近くまで見に来てたりしてね」

 智益が茶化すように言う。本来ゾッとするのが正解だろうが、認知されていないよりはマシかなという考えが頭をかすめた。

「いや、さすがにそこまでやんないでしょ」

「わざわざイタズラするんだったらそこまで見納めたいもんじゃない?」

 そういうものかもしれないし、そうではないのかもしれない。こういう悪趣味に愉悦を感じることのない自分には想像するのは難しい。

「私もそう思う。イタズラしたらそれがどんなことになるんかって最後まで見たなるんが普通やない? 子供がイタズラでリビングのテーブルにびっくり箱置いといたら、そのすぐ近くで下手な演技して待ってるもんやん? 置くだけ置いて立ち去って公園でひとりニヤッとしてる子供ってなんか嫌やん。楽しみ方がちょっと高度すぎるやん」

 その高度な楽しみ方をするのがこういうイタズラをする人なんじゃない?と言いかけて、香菜子にまだ続きがありそうな事に気づいた。そして、それを聞いてなにを言うつもりだったかはすっかり忘れてしまった。

「だから、これはイタズラとちゃうんちゃうかなあ」

「え?」

 すぐさま声を出したのは智益だ。わたしは理解が及ぶのにワンテンポ遅れた上、声すら出なかった。

 けれど香菜子自身はむしろわたし達の反応が思っていたより大きかったらしく、逆に驚いた顔をしてこちらを見返してきた。

「二人はイタズラやと思うん?」

「いや、そういう話をしてたじゃん」

 そのままわたしに振り返る。

「ユキちゃんも?」

「あ、うん」

 なんと答えていいのかわからなくて素直に頷くしかできなかった。香菜子の目を見る限り、それが根拠なく告げられた結論ではないことを感じる。こちらから聞きたいことはたくさんあるのだが、香菜子のその態度から自然と話の主導権を譲ってしまっていた。

「なんでそう思うん?」

「なんでもなにも、イタズラ以外でこんなことする理由ないじゃんか」

「理由は確かにないなあ」

 香菜子が珍しく思わせぶりな言い方をする。人を焦らして喜ぶ癖はないので、本当にわたし達とは別の何かを考えているに違いない。こちらから無計画な質問攻めをするより、香菜子の疑問を先に解消するほうが早そうだと思い、わたしはソファに座り直してからゆっくり訊いてみた。

「待って。少し戻そう。香菜は今、わたし達がこの紙のイタズラの話を『どうしてイタズラだと確信しているのか』が気になってるんだよね?」

「そやな」

「それに対して智益の答えは『イタズラ以外でこんなことをする理由がないから』」

「ま、まあそうだけど」

 少し不本意そうな素振りを見せるが、それ以上の答えはないらしく黙りこむ智益。

「わたしも考えてみる。イタズラだと確信する理由、そうだな、思いつくのは『そういうイタズラの前例がよくあるから』かな」

 責め立てられている立場というわけではないが、香菜子の質問に確実に答えられている気はしない。

「確かに、起こったことに対して自分たちの中のイメージで考えてる。イタズラだと確信する根拠は無いかもしれない。香菜子にも無いからわたし達に訊いたの?」

「うん、二人にはなんかわかってるんかなと思って」

 三人いて三人ともイタズラであるという根拠を挙げられない。じゃあ逆に、

「訊いていい? 香菜にはこの件がイタズラではないって根拠があるの?」

 責めているようなニュアンスを含まないように注意して訊く。ただでさえわたしは見た目がキツいのだ、誤解させて話を感情的にしたくなかった。

「根拠っていうより変なとこっていうか不思議なとこっていうほうが近いけど、さっきのやつも含めていくつかあるよ」

「いくつかって、いくつあるの?」

「えーっと、いくつかな」

 斜め上の照明をぼーっと見つめて考える香菜子。指折り数え始めたので手元に目を落としてみたが、親指と人差指を折った時点で止まってしまった。

「んー、5つか、6つかな」

「そんなにあんの!」

 スツールの上で身体を反らせて智益が笑い出す。

「いやー、ちっちゃな事も含めてやで。根拠なんていわれるとビビってしまうから言われへんような」

「だってあたしには1つもないものを多くて6つあるって言われたらそりゃ笑うでしょ」

「チエちゃんだってちゃんと考えたらわかるって」

「やだ。めんどくさい。1つ目から教えて」

「ええー」

 スムーズかどうかはわからないが智益のおかげでずいぶん話が短縮できた。香菜子は遠慮しだすとその気にさせるまでに骨を折るから多少強引でもこの展開を向かえられたのはありがたい。

「わたしも聞きたい、香菜が気になってること」

「ユキちゃんもそんなこと言うたらもう逃げられへんやん。んーそやなー、話半分で聞いてくれるんやったらええけど」

 わたしは勢い余って二回うなずいた。智益はというとまたチーズのピッツァを手に取って既に話半分のようだ。わたしも同じピッツァを自分の皿に移し、香菜子が自然に話し始めてくれるよう気楽な雰囲気を振る舞ってみせた。

 それを見た香菜子はしばらく足元を見てなにか考えるように瞼を伏せ、ゆっくりと頭を起こすと同時に少し恥ずかしそうに話し始めた。

「最初に気になったんは、さっきも言うたけど、イタズラにしては結果がわからへん高度なやつやなと思ってん。もし結果を確認するってなったら、その古本屋でいつ自分の売ったマンガが棚に並ぶかも見とかなあかんし、買った人がおると追いかけてそのマンガを開くまでずーっと付きまとわなあかん。今回はたまたま外に出てる時にマンガを開きはったけど、家の中に入ってしまったらそう簡単にはもう見られへん。このイタズラは結果を見届けるにはちょっと難しすぎるんよね」

「仕掛けを作った時点でイタズラが完了してるっていうタイプね」

 そういうわたしに向き直ってうんうんと首を縦に振る。実際うんうんと言っていたようにも聞こえたがはっきりとはわからなかった。

「ちょっとマニアックな人なんやなーて。で、次に気になったんは、これはあんまり関係ないかもしれへんけど、いたずらに使うマンガのチョイスが意外やってん。これもさっき言うたけど、物語がシリアスなサスペンスとかホラーとか、そういうジャンルのほうがイタズラもドキッてすると思うんよ。怖いマンガに怖い絵を入れてるほうがイタズラとしては正解な気がするんよね。正解したらアカンけど。でも今回のは少年向けのファンタジー物やん? なんか今ひとつメリハリが無くなってしまうっていうか、イタズラの意図が伝わりにくいような気がしてん」

「ギャップを狙ったんじゃないの? それか少年がターゲットだったとか」

 智益が口を挟む。それにわたしが続けた。

「これから冒険で心躍らせようとしてる無垢な少年の心が折れる様を想像するのが楽しみってこと? 無茶苦茶偏った嗜好を持ったヤツじゃないか」

「そういう人がおれへんとも限らへんけどな」

 なぜ香菜子がそこの可能性を残したままにするのかはよくわからなかったが、まだ2つ目なので余計なツッコミは入れずに次の話を待った。

「えーと次はなんやったかな。あ、せや、順番はもうちょっと忘れてしもたけど、このイタズラ、ちょっと効率悪すぎへんかな? たった一冊のマンガを自分で買ってそれを古本屋にわざわざ売って仕掛けるなんて成功率低すぎるやん。古本屋さんが気づいてレシート捨ててしまうかもしれへん。一冊だけやったらそれでもう失敗やん。もし同じことが目的やったら、私なら普通の本屋さんに行ってあらかじめ用意しておいたイタズラの紙を何冊かの本にこっそり挟んでいくって方法にすると思う。せえへんで、実際にはせえへんけどな!」

 慌てて弁明する香菜子を尻目に、わたしは少し気になることがあり眉をひそめた。確かに複数の本に仕掛けを作った方がイタズラの目的に合っているという香菜子の指摘は正しい。ただ今回一冊の本しか使われなかったことをなぜ香菜子は知っているのだろう。同じ古本屋から別の本を購入した客が、もしかしたら同じイタズラに遭遇している可能性が無いとは限らない。香菜子の言う方法より成功率は低いままだが、イタズラ犯が複数のイタズラ本を古本屋に売り払っている可能性はまだ残っている気がした。

「ごめん、香菜。話の腰を折るようで申し訳ないんだけど、香菜はどうして今回のイタズラが一冊だけだと思うの? 何冊か古本屋に持っていってる可能性は無いの?」

 慌てている様を智益にからかわれていた香菜子がわたしの目をじっと見たかと思うとニコリと顔をほころばせた。

「可能性は低くなったけど、無くなるわけではないよ。次の気になるところが関係あるからその話をしよ」

 そう言ってさっきまでからかわれていた智益にも笑いかけた。

「この件で気になる情報を一番たくさん持ってるんは、イタズラの主役になってるレシートやねん。レシートやから当然買った時の情報が記録されてるやん。確か、13時11分に駅内のコンビニでマンガとやきそばパンと缶コーヒー、やったかな? マンガの発売日は3日前やったと思う。ということは平日のお昼に駅の中で軽食とともに買ったマンガを、その日のうちか次の日くらいに古本屋に売ってるってことになるねん。もしこのマンガと一緒に複数冊の本を売ってたとしたら、このマンガ以外の本も買った時のレシートにイタズラ書きをして売ったんやろか? レシートは基本一回の買い物で一枚しか貰われへんから、毎回一冊ずつ買ってレシートにイタズラ書きして挟んで、ってしたものを溜めておいて一度に古本屋に持っていく。さすがにマニアックでめちゃくちゃ偏った嗜好の人でもいよいよ非効率的すぎると思うねん。仮にこのマンガ以外の本にはレシートを使わんかったとしたら、このマンガだけ意図的にレシートを使ったことになるけど、本来のレシート自体にはその人の生活感以外は特にメッセージ性はないように思える。一番可能性があるんは、毎回一冊ずつ買ってレシートにイタズラ書きして次の日までには手放してしまう衝動的なスタイル。だから一回のイタズラには一冊ずつしか使われてないんちゃうかなって思ったんよ」

 優しく丁寧に囁きかけるようでありながら驚くほど理路整然とした解説に頭の下がる思いがした。

「仮に今までの条件がぴったり当てはまるイタズラ犯がおるとしたら、『冒険で心躍らせようとする無垢な少年の心が折れるを想像のみで楽しもうとする、効率や成功率を二の次として、その日の昼ごはんと一緒に買った一冊のマンガを使って衝動的なイタズラに興じる人』になるんやけど、二人はどう思う?」

 わたしも智恵もなにも口に出すことはなかった。そんなヤツいるのか? いないこともないかもしれないが、当初想像していたよりも四倍はやばいヤツであることに間違いはなかった。

「とはいうものの、イタズラをノリだけで無計画にやる人っていうのは結構おるもんやん。自動販売機のコイン投入口をガムで塞いでみたり、適当に押した番号に電話かけてみたり。そういう人が、特に深い理由もなく昼間に買ったマンガにイタズラ書きをを挟んで売っただけ、なんかもしれへん。でもとりあえず今回は計画的なイタズラではなさそうやんね」

 計画的なイタズラではない。香菜子の言ったことはわたしには新鮮な考え方だった。わたしの中ではイタズラ犯の像を計画的な側面と衝動的な側面が混ざった状態で考えていた。それは、そういう悪質なことをする人の思考はわたし達には理解し得ないというある種の偏見が中途半端なイメージを作り上げ、そのいい加減な悪のイメージを深く考えずに非難すればいいという怠慢だったように思う。計画的なイタズラであることと衝動的なイタズラであること、どちらがより悪いのかということはわたしにはわからないが。

「ちょっといい?」

 智益が左手をひょっと上げて話を遮った。香菜子はおしぼりを握って手のひらを冷やしている。

「うん、なに?」

「あのさ、カナチって確かこの件がイタズラじゃないって言うことを説明するんだよね。でも今、計画的イタズラじゃなくて衝動的イタズラだ、って流れじゃん。イタズラの話になっちゃってない?」

 智益らしい冷静な質問だったと思う。けれどこれはわたしにも香菜子がなんと答えるか予想がついていた。

「そうやな、衝動的なイタズラかもしれへんってとこやな」

 わかったようなわからないような顔をする智益。香菜子もはぐらかすつもりはないのだろうが、少しでも可能性のあるものを尊重して話すせいで、明確な答えが聞きたいこちら側としてはヤキモキさせられる。

話しているうちになんとなくわかってきたが、香菜子は可能性の低いものをひとつずつ折りたたんで一時的に見ないようにすることで、別の可能性にわたし達を案内している。じれったくもあるがその分整理されていて理解しやすい。理屈っぽいわたしには向いている。智益にはもしかしたら歯がゆいだけかもしれない。話を少しでも先に進めることが智益の助けにもなるかと、わたしは積極的に口を挟んでみた。

「計画的なものと比べて衝動的なものって、その人のひらめきに頼ってる分、他人の予想がつきにくいものじゃない? イタズラじゃないかどうかをここからどうやって辿っていくの?」

「ユキちゃんの言うとおり。ここからは私のひらめき、っていうか当てずっぽうやねん。だから話半分に聞いて欲しいってお願いしてたやろ」

 ああ、そんなことも言っていた。すっかり忘れて話を聞き入っていた。

「わかった。じゃあ聞く。テキトーに聞く」

「そうそう、それくらいがいいわ、気楽で。なんか注文せんでいい? チエちゃんも」

 各々、追加のドリンクとミックスナッツを注文し、話を戻す。香菜子はアーモンドをつまむと、ハムスターのようにちょっとずつコリコリかじった。

「この話を聞いた時にすごく変やなーと思ったところがあんねん。チエちゃんはある?」

「えー、イタズラなんだから全部変な話だよ。変じゃないところが無い」

「そ、そうか、ごめん。もしかして私が変なんかな」

 慌てるハムスターを落ち着かせようと助け舟を出す。

「なにが一番変だと思ったの?」

「うん、えっと、このレシートに書いてること。変やと思えへん? 『貴様に明日は無し』やっけ」

 変、だとは当然思うが香菜子の言ってることはわたしが考えてることとは少し異なるような気がした。

「変って、どういう風に?」

「なんて言うたらいいか、すごく芝居がかってない? 衝動的にやるイタズラにしては持って回った言い方というか。一般的には『死ね』とか『殺す』とか、書いてあるだけで攻撃性が伝わってくるような文字の方がイタズラとしての威力があると思うねん。せやのに『キサマニ明日ハナシ』って殺し屋の予告状みたいやん」

 どうだろう。変と言われればそんな気もするが。

「チョーシのいい大学生がその気になって書いたんじゃないの? 平日の昼に電車乗ってるなんて大学生くらいのもんじゃん」

 智益が雑に返した。朝だけの授業、もしくは昼からの授業の場合には大学生が電車に乗っているのは不自然ではない。

「いや、私はサラリーマンさん、もう仕事してはる社会人さんかなと思うんよ」

「え、ど、どうして? サラリーマンは会社で仕事してるでしょ?」

 これまでいくつかの可能性をひとつずつ折りたたんでいく手法を取っていた香菜子が急に新しい可能性を提示してきたので、わたしは虚を突かれて少し語気強く訊き返してしまった。

「う、うん、でも営業さんは外回りするやん。午前中に打ち合わせでお得意先を訪問して帰るところなんかもしれへん。平日に電車乗ってる人は学生さんも社会人さんも同じくらいおると思うよ」

「でも、それでどうして香菜は学生じゃなくサラリーマンだと思うの?」

「そうやね、それはこのイタズラ書きが、ホンマはなんて書いてあんのかなって想像してみたからやねん」

 このイタズラ書きが『本当はなんと書いてあるのか?』とはどういう意味だろう。レシートには『キサマニ明日ハナシ』と書いてあった。実際に見たのはわたしだけだが、わたしの記憶が間違っているということを指摘されているのだろうか。いや、香菜子はそんな嫌味っぽい表現は使わない。なら『本当に書いてあること』にわたしが気づいていないということだ。自然と眉間にシワが寄る。怒っているわけでもイライラしているわけでもなく、考えを巡らせると険しい顔になってしまうわたしの悪い癖だ。

 そんなわたしの表情を読み取って香菜子が穏やかに声をかけてきた。

「ユキちゃんはそのレシートの実物を見てるから憶えてるやんね。基本カタカナで『明日』だけ漢字やったかな。ちょっと待ってや」

 そう言うとソファと背中の間に挟んであったトートバッグの中から淡いブルーのペンケースを取り出し、ゲルインクボールペンを一本抜く。テーブル隅に置いてある紙ナプキンの束から一枚スッと抜き取り、手元でなにか書き始めた。

 書き終わるとかすかな声で「できた」とこぼして、わたしと智益に見えるように自分の顔の前まで持ち上げて見せる。それには縦書きでこう書かれてあった。



『 キサマニ明日ハナシ』



 間違いない。文字は香菜子のほうが丁寧なので幾分印象は変わってくるが、あの時見た映像とほぼ同じものだ。もう時間も経っているのであの時と同じ不快感までは襲ってこないが、嫌な記憶と摺り合わされる時のザラッとした感覚があった。

 すぐ隣の香菜子を見る。どうかな、という期待と不安を込めた初めて母の似顔絵を描いた子供のよう顔でわたしを見返してくる。正直なところ香菜子のその期待をどのように返していいのか、わたしにはまだわからなかった。

 微妙な沈黙を埋めるように智益が躊躇いがちに言った。

「あのさ、この上の部分さ、これはわざと空けてあんの? 変な間が空いてんだけど」

 すると香菜子は待ってましたとばかりに堰を切った。

「チエちゃん! さすがやなー、よく見てる。そうココ、この隙間はわざと空けてんねん。どう、ユキちゃん、こんな感じに空いてなかった、変な隙間?」

 隙間? すぐに目線を横にズラして紙ナプキンを見なおしてみる。

 先ほど摺り合わせた記憶を手繰り寄せてみると、確かにそこには隙間があった。紙に対して少しバランスの悪い位置に書かれてある。その違和感が香菜子の書いたものと一致した。そのことを早く香菜子に伝えなければならない気がした。

「あ、あった! 空いてたよ、そこ。空間。見た時はそれほど変だとは思わなかったけど」

「そうかー、それやったらここから先も聞いてもらえる」

 ホッとしたような満足したような笑みを浮かべ、香菜子は例の隙間部分に指でクルッと円を描いた。

「例えばココに、『ミ』の文字を入れたらどうなる?」

「?」

「ミ?」

 『ミ』を入れる?

「声に出してみたほうがわかりやすいよ」

 そう言われて智益を振り返ると、智益もこちらを見ていて目が合う。仕方なしに二人合わせて声に出してみた。

「ミ、キサマニ明日ハナシ?」

「そうそう。『ハ』の部分は『わ』やなくて、そのまま『は』のほうがええな」

「み、きさまに明日はなし?」

「そう。みきさまに?」

「明日はなし」

 ああ、もしかして!

「『三木様に 明日 話』ってこと!」

「うんうん、そう!」

 つい大きな声が出てしまったが周りがまたこちらを見ているのかどうかを横目で見る余裕はなかった。『三木様に 明日 話』。さっきまで殺し屋の予告状だったものが、ごく普通のメモ書きに姿を変えてしまった。今となってはどうしてこれをイタズラ書きとして読んだのか思い出せないくらいだ。

「これがもしただのメモ書きで、イタズラ犯やなくお仕事がんばるサラリーマンさんが書いたんやったとしたら、さっきまで気になってたところなんか全く変やなくなると思うねん。イタズラやないから結果を見る必要なんて無いし、マンガの種類も好きなマンガやっただけ。一冊だけ読みたかったマンガをお昼ご飯食べながら読もうと思ったんやろな。なんにも問題ないただの昼下がりやねん。そう考え始めると、ちょっとストーリーが見えてけえへん?」

 持ちあげていた紙ナプキンをテーブル端に几帳面に置き、香菜子はわたしのおでこあたりを見ているような見ていないような微妙に焦点の合わない目をしながら話し始めた。

「朝から得意先に行ってがんばって営業トークをこなしてから電車で会社に戻る途中、お腹空いたなと思ってコンビニで缶コーヒーと焼きそばパンを手に取るねん。レジのあたりでいつも読んでるマンガの新刊が発売してるんを見かけて息抜きにと思ってそれも一緒に買う。駅のホームのベンチでちょっと休憩しながらパンとコーヒーとマンガを楽しんでたら、急に電話がかかってくんねん。慌ててレシートをしおりの代わりにマンガに挟んで、電話に出て『せっかく休憩してたのになー』と思いながらも仕事モードに一気に切り替えなあかん。こういう時って焦っていつもよりうまく立ち回られへんかったりするよね。上司に軽く怒られながらもなんとかごまかして明日の打ち合わせの予定を聞くんよ。胸ポケットのペンを取って手帳を開こうと思うねんけど、手帳を探してる時間がない。あ、さっきマンガに挟んだレシートがあるわと思ってとっさにそこにメモをするんよ。『ミキサマニ明日ハナシ』って」

 さすがにそこまでぴったり想像通りの現実があったかどうかは定かではないが、四倍やばくなったイタズラ犯よりもグッとリアリティが増す気がした。

「最初の『ミ』はペンのインクが出なかったのかな」

 ふっと思いついたことを口にする。

「そうかもしれへんね。ユキちゃんが見たレシートにはもしかしたらペンの跡だけは残ってたかもしれへんけど、光が強いところではそういうのは見えにくかったりするから。それが『ミ』やったんか『タ』やったんか『セ』やったんか、ちょっと気になるね」

なにがおかしいのかクスクス笑い出す香菜子。

「でもさ、これってマンガの中にメモ残っちゃってんじゃん? せっかくメモ取ったのに忘れてんじゃないの、このサラリーマン」

 智益はそういうところ見逃さないなと心底感心させられる。わたしならそのサラリーマンの彼がその後どんな事になっているかに思いを馳せることはない。

「それは大丈夫なんちゃうかな」

「なんで?」

「もしちゃんと手帳を持ってたんやったらすぐ手帳に書き写したやろうし。もしかしたらスマホにスケジュールを登録するタイプの人やったんかもね。だから電話に出てる時はアナログでメモを取るしかなかった。臨時でレシートにメモしといて、電話が終わってからスマホにメモを登録しなおした。スマホで電話してる時はスマホにメモでけへんて便利なんか不便なんかわからへんね」

「あーそれで安心してレシート挟んだままにしちゃったのか。なくもないね」

 素直に納得する智益を見て香菜子はやはりクスクス笑う。

「でも私の言うてるんはあくまで可能性やから。この話を聞いた時、より可能性の高いシチュエーションを想像してみただけで、ホンマはイタズラなんかもしれへん。でも嫌なイタズラやなーって思てるより、急いでメモ取りはってんなー慌ててたんやろなーって思たほうがなんか楽しいやん。こうやってその人のこと心配したり、失敗してるのをこっそり笑ろたり、お仕事がんばってほしいなって応援したりするほうが私は好きやなって思うんよね」

 香菜子のこの言葉を聞いて、わたしは自分自身で体験した出来事の表面だけを捉えわざわざ不愉快な気持ちになってたのかと悔いた。もしかしたらイタズラではないかも、と思えば不愉快な時間を過ごすことはなかったかもしれない。その時間が短くなっていたのかもしれない。人生で嫌な気分でいる時間は短ければ短いほどいいに決まっている。これはいつか智益が言った言葉だが、その時間を自分で呼び込んでいては世話はない。どうしても避けられない嫌なことは人生に必ず起きる。ならそれ以外を楽しく過ごそうとすることは現実から目を背けていることにはならない。このへんのことが香菜子や智益に比べて、わたしは決定的に下手だ。仲良くなり始めた頃から思っている。わたしは二人に近づきたい。

「私もこうやって口に出して言うとかんとすぐ忘れてしまったりするから、いつも気をつけてるんよ」

 少し悲しそうな、それでいてそれをどうしようもなく喜ぶような、そんな魅力が香菜子を包んでいた。

「人間ってふしぎやんね。わからない事とか理解できない事がすごくこわいんよね。だからわかろうとするより先にいい加減な想像とか偏見とかで自分なりにわかった気になろうとすんねん。でもやっぱり、わかろうとしないって無責任やと思うから。このレシートの人も、ホンマはなにをしようとしてたんかなってことを無視せんと考えなあかん、そう思ってん」

 香菜子は人を愛しているのだろう。



*****************



「それにしても、カナチっていつもあんなに難しい事ばっか考えてんの? 『これは計画的な行動だ』とか『可能性はなくならない』とかさ」

 智益がオリーブオイルに浸りっぱなしだったマッシュルームを次々に食べながら香菜子に訊く。

ちゃうよー、チエちゃんとユキちゃんが教えろって言うからがんばって考えながら話してたんやんか」

「え、そうだったの?」

 てっきり初めから論理が立っていたのかと思っていた。

「そうやで。普段は『へー変わってんはんなー』『あ、もしかしたらこうかな。せやったらおもろいなー』くらいやで」

 そんなんであそこまでしっかりと説明ができるもんだろうか。いまいち釈然としない気持ちで追加で注文していたギムレットを飲み干す。

「それはそうと、あたしもユッキの話で気になってることがあるんだけど」

 まだマッシュルームを咀嚼したまま妙に真剣な目を向けてくる智益にややビビるわたし。

「え、なに? なんかあったっけ?」

「焦らしてくれますねぇ。あたし達に渡したいものがあるんじゃないのかい?」

 なんだかわからないキャラでまくし立てられているが心当たりがない。さっぱり答えのないわたしに業を煮やして、智益が勢いよく香菜子に呼びかけた。

「カナチさん!」

「ドーナツ!」

 ドーナツ? あ、ああー。

「ド、ドーナツね、はいはいドーナツ」

「いただけるんでしたら当然いただいて帰りますよ、少なくともあたしは」

「ずるい! 私も欲しい!」

 ドーナツが出てきたのは話の導入部分だけだったと思うのだが、話している最中ずっと気になっていたんだろうか。話半分で聞かれていたのは、もしかしてわたし?

「ドーナツか。いやーそれがね、あの後も列には並んでたのよ。並んでたらさ、試食ですってお店の人が前の人から順番にドーナツ配ってくれてさ。それいただいたらなんか満足しちゃって。列抜けて帰ってきたんだ」

「はあーっ?」

「ユキちゃんそれはないわー」

 二人のために買おうと思ったわけではなかったのだが、なぜかあてにされた上にこれでもかというほど失望されている。不本意である。非常に不本意であるが、申し訳ないことをした。二人がそんなに期待していて、もしもすごく喜んでもらえるものなのだとしたら、鋭い日差しの中長い行列に並んでドーナツを買い、また今度二人に会いに来よう。誰かに『趣味はなんですか?』と訊かれたらちゃんと答えよう。

 『親友と過ごす時間が一番楽しいです』と。

 わたしはかたわらの伝票を手に取り、二人より大きな声で叫んだ。

「はいはい、今日はもうかいさーん!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 文章がとにかく小気味よくて、つっかかることなく気持ちがよくすらすらと読める!とんでもなく気持ちが良くてリズミカル。スツールスムーズチーズなんて見つけた時にはもうあまりのリズムのよさになんて…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ